Wednesday, February 29, 2012

また英語

アメリカの大陸系哲学雑誌Southern Journalの50周年記念特集「大陸哲学はどこへ行くのか」に依頼論文を載せられることになった。それで論文の英語を、イギリス人の同僚と額を突き合わせて、本当に何度も何度も、見直して送ったのであった。

その返事が来た。何とゲストエディターが懇切丁寧に英語にさらなる手を加えてくれていて、「これで間違いないか」という。まあ、自分の英語の下手さを喧伝するようで微妙ではあるが、しかしともかく、私の論文をそこまで細かく読んでくれたのかと感謝している。

で、明日はまた(もう今日か)、英人同僚と検討会…(笑)。

私も普段は「急にポンと入ってもすぐやれる」選手であるつもりなのだが(それを心掛けてはいるのだが)、最近は病気がちで稼働率も低く、周囲に迷惑ばかりかけている。

ここ数日も一進一退。すみません。

 

内田篤人「宮市君は槙野に絡まれてかわいそう」=サッカー日本代表

スポーツナビ 2月28日(火)21時4分配信
サッカー日本代表は28日、ワールドカップ・アジア3次予選のウズベキスタン戦を翌日に控え、試合会場となる愛知・豊田スタジアムで最終調整を行った。
 以下は、練習後の内田篤人(シャルケ04/ドイツ)のコメント。

「みなさん大好きな宮市(亮)君がいて、すっごい可愛い顔してますね。中学生みたい(笑)。(イケメンランキングでは)いやぁ、向こうの方がいいんじゃないですか。ポジション的にも目立つし、地元らしいしね。写真撮影の時は、『お前が来たら写るからどっか行け』って言いましたけどね(笑)。そうしたら『すいません』って。あの子、すごい上下関係がきちんとしてそうだから、部活やってきたなって気がしますね。

(宮市とは)デュッセルドルフで1回ご飯食べたくらいですね。おれと同じくらい量食ってたんで、けっこう食べるなと。昨日から槙野が絡んでるで、かわいそうだなと思って(苦笑)。代表に来てる選手は溶け込むとか溶け込まないとかじゃなくて、急にポンと入ってもすぐやれる選手じゃないと。彼は関係ないんじゃないですか

【クリップ】ニートでも引きこもりでもない「レイブル」

ニートでも引きこもりでもない「レイブル」

2012/02/23 10:00更新

「レイブル」を広めるため、演劇の練習に励むレイブルの若者ら =大阪府門真市

ニートと呼ばれる中でも働く意思のある若者を「レイブル」(「遅咲き」の意味)と呼び、就労支援を強化する事業が大阪で本格的に動き始めている。「親に依存する」というネガティブなイメージのあるニートに抵抗を感じる若者からも支持を受け、名称の定着が広がりつつある。(佐々木詩)

 ◆NPOが橋渡し

「僕の夢は仕事に就いて1人暮らしをすること」「彼女が欲しい、結婚したい」…。大阪府が主催し、新名称「レイブル」を広める目的で21日、大阪市内で上演された演劇。そこでは、役者として参加するレイブル本人たちの本音が響いていた。

レイブルとは、英語で遅咲きの人間を意味する「レイト・ブルーマー」の略語。長期にわたって自宅に閉じこもり社会活動に参加しない状態の「引きこもり」や、職に就かず家事・通学をしていないニートと区別し、就職面接を受けに行くなど働く意思はあるものの、肉体的・精神的な事情から就職に至らない若者を指す。昨年11月、大阪府が若者の自立支援事業として、ニートと呼ばれる若者を集めた会議でこの名称が決まった。

不登校の 後、社会的なキャリアの再構築ができず履歴書が真っ白だったり、いじめや虐待の経験から人間関係が苦手な若者は就職活動が困難。働きづらさや生きづらさを 抱えて生きている」。こう話すのは、大阪府から事業委託を受けているNPO法人「トイボックス」事務局長、栗田拓さん。

レイブルの定義の周知と「電話対応は難しいがデータ入力は得意」など、個人の特性を企業側に理解してもらい、“適材適所”で雇用してもらうシステムの拡充を目指す。

レイブルたちも企業と自分を取り持つ支援団体の存在を知らず、適性に気付かないまま就職活動を行うケースが多い。栗田さんは「ハローワークに行く前に違う 入り口があることをイベントなどを通じて広めている」という。トイボックスでは実際、15人のレイブルを昨年10月から今年3月末まで雇用。公共施設の指 定管理業務などを任せて仕事のスキルを身に付けさせながら、就職活動をサポートしている。

◆生活保護歯止めにも

レイブルの支援は若者側や人材確保に悩む企業にメリットがあるだけではない。生活保護受給者の多さが問題になっている府にとっても重要だ。府内に5万人超いるとされるニートのうち約55%存在すると推定されるレイブルが就業することは、将来の生活保護世帯の増加防止と新たな税収確保につながる。

新名称によるイメージ刷新に期待する声も上がる。演劇に参加した樋口昂さん(24)は「今まで『お前、ニートだろう』と言われて嫌な思いをしてきた。『言葉が変わっただけ』と言う人もいるかもしれないが、僕たちからすればよく考えてくれたなと思います」。府の雇用 対策課も「他の自治体から事業に関する問い合わせが寄せられています。レイブルという名称が自然に広がってほしい」と期待を寄せている。

ニートと引きこもり、全国に90万人

厚生労働省によると、ニートと呼ばれるのは15~34歳の若者で、全国に63万人いると推定される。一方、引きこもり状態にある子供を抱える世帯は全国に26万世帯あると推計されている。しかし、生活がほぼ家庭内に限定されるので正確な数の把握は難しいのが現状だ。

【クリップ】経営者よりも目立った学生の声 関西財界セミナーに新風

経営者よりも目立った学生の声 関西財界セミナーに新風

2012/02/19 13:06更新

関西財界セミナーに参加した大学生たち=2月9日、京都市
【ビジネスの裏側】

関西の政財界人らが一堂に会する恒例の「関西財界セミナー」がこのほど、京都市内で開かれた。今回で50回目を数え、歴史を重ねてきた財セミも昨今は“マンネリ化”が指摘され、関西の地盤沈下の影響か、開催の意味さえ問う声も少なくない。そんな中、今回はセミナー史上初となる意外な試みが行われた。

 「ASEAN圏の国家はいつか淘汰されると思う。ぜひ、日本を広く見てほしい!」。企業のグローバル競争と人材戦略について議論を交わした分科会会場に、立命館大大学院国際関係研究科の趙俊秀(ジョ・ジュンス)さんの声が響き渡った。

関西経済や成長戦略などテーマごとに6つの分科会に分かれて、議論が交わされた財セミ。この分科会では外国人留学生の採用の実態とその課題について、企業 側や大学教授らが意見を繰り広げた。その後、セミナーに初めての参加となった趙さんら外国人留学生3人と日本の大学生2人が企業の採用についてそれぞれの 思いを語った。

グローバル化が重要と叫ばれながらも、外国人留学生に対する企業の採用数は少ないのが現実。「留学生は母国と関係を切っている。環境が変わることにアレルギーはない」。韓国から来日して5年という趙さんはこう続けた。

中国・上海から神戸大経営学研究科に留学している叶承啓(ヨウ・ショウケイ)さんも、流暢な日本語で「優秀な日本人だけでなく、多国籍の人材を採用することは今の流れ。企業と留学生の間にもっと接点を作ってほしい」と呼びかけた。

彼らの熱のこもった発言に思わず背筋を伸ばし、食い入るように聞き入る企業トップら。今回参加した学生は、大学教授や海外の要人らと同様に「招待者」とい う立場で参加。「企業の人材」がテーマの分科会だったため、就職活動に関する発言が相次いだが、採用の面接試験に比べて圧倒的に多くの企業人を前にしなが らも、学生らは堂々と発言していた。

立命館大大学院国際関係研究科の太田麻美さんは「経済界を引っ張っている方々を前に、どうなることか と思ったが、私の話も真剣に聞いてくださって感激した」と振り返り、「若い人が考えていることも分かっていただける機会」として、同じような取り組みが行 われることに期待を寄せた。

一方、財セミの主催者側も学生の参加に関して好感触だった様子。関西経済連合会森詳介会長は「企業人にとって反省すべき鋭い意見だった。学生の参加は新鮮でいい。刺激のある意見交換だ」と述べ、関西経済同友会の大竹伸一代表幹事も「インターンシップとして積極的に考えてもいいのではないか」と今後の学生参加にも言及した。

かつては、住友金属工業社長などを務めた日向方斎(ひゅうがほうさい)氏が「徴兵制」を提唱するなど、注目を集めた関西財界セミナー。学生たちの意見に耳を傾けた今回のような取り組みが、最終的に関西の起爆剤につながるのかもしれない。(内海俊彦)

【クリップ】キャリア教育、大学と企業の意識のズレ大きく

キャリア教育、大学と企業の意識のズレ大きく

2012/02/14 22:53更新

フォト

大学や企業が、学生たちの職業観などに強い危機感を持っていることが産経新聞が実施した調査から分かった。どんな実態にあり、どう立て直そうとしているのだろう。調査結果や、関係者の声から探ってみた。

■低内定率の背景
 調査の中で、学生の職業意識の低下などを感じる場面をたずねたところ、「面接など約束の時間を守らない」「すぐにあきらめる」「コミュニケーション能力に欠ける」「給料や休日だけを重視して就職先を決める」といった回答が大学、企業に共通して多かった。 今春卒業の大学4年生の就職内定率は71%で、最近15年間では2番目に低い。だが就職難の原因は、不況以外に学生の側にもあるようで、「豊かな社会を反映して、生業につかなくても生きていけると考えている学生がいる」(関東の私立大)といった指摘が多くの大学からあった。

■企業とのズレ

調査からは、学生支援のために大学が取り組むキャリア教育についても聞いた(複数回答)。8割以上の大学で「インターンシップ実施」「自己分析テスト」「企業人の講演」「面接対策」「エントリーシート対策」などが行われていた。3年前と比較してキャリア教育にかける時間数が「増えた」と答えた大学は76%もあった。

しかし、大学でのキャリア教育と、企業が望む教育とにズレがあることも浮かび上がった。
企業にキャリア教育の効果について聞いたところ、「インターンシップ」「自己分析テスト」「企業人の講演」については、「有用と思う」という回答が7割前後あった。

一方で、多くの大学で実施している、面接やエントリーシート、能力・性格テスト対策については、「有用と思う」はわずか2割前後。「型にはまった回答しかできない」(ソフト制作)といった批判が多数あった。

■今後の学生支援は

今後の学生支援をどのように展開すべきかを聞くと、大学、企業ともに、「忍耐力やコミュニケーション力をつける教育」(化学メーカー)、「社会人と接する機会の増加」(化粧品販売)、「学業に専念させる期間を大切にすることが重要」(関西の私立大)といった意見が共通した。

現在の就職活動の支援態勢の発想を転換させ、「未内定者への支援策を充実させるよりも、頑張って就職先を見つけた学生へのインセンティブを考えるべきだ」(関東の私立大)といった意見もあった。

だが、学生をとりまく様々な課題解決は用意ではないのが現実。人材開発に関する調査研究をしている産業能率大学総合研究所の杉原徹哉・マネジメントリサー チセンター長は、「企業にゆとりがなくなっていることもあり、学生に求められる質が高くなっている」と指摘。「大学側には就職率を上げるため、入社試験や 面接訓練などに力を入れざるを得ない事情があり、企業との意識の差はますます大きくなっていく可能性がある」と話している。

【クリップ】<秋入学問題>官民の新卒採用見直し 政府検討へ

<秋入学問題>官民の新卒採用見直し 政府検討へ

毎日新聞 2月27日(月)20時25分配信
政府は27日、関係閣僚で構成する「グローバル人材育成推進会議」を開き、東大などが検討している秋入学移行に備え、官民の新卒採用の見直しを検討する ことを決めた。4月に新卒を一括採用している現状の見直しが焦点。当面は公務員の採用方法の見直しを議論し、民間企業にも対応を呼びかける。

東大などが入学・卒業を秋に移しても、企業や官庁が新卒の4月採用を続ければ、卒業から入社まで半年程度の空白期間(ギャップターム)が生じる。このため政府は、国家公務員の採用でどう対応するか議論。企業の対応を促すキャンペーンの実施も検討する。

海外で主流の秋入学に移行すれば、学生は高校卒業から入学までの期間を活用して短期留学やボランティアで見聞を広めることができる一方で、大学側は海外 からの留学生を集めやすくなる利点がある。政府は、秋入学を人材育成の柱と位置づけ、「日本再生戦略」に課題などを盛り込む。推進会議議長の古川元久国家 戦略・経済財政担当相は同日、記者団に「秋入学は社会のあり方に一石を投じるもの。官民を挙げてしっかり議論する」と述べた。【赤間清広】


<経済同友会>大卒就活、3月開始を 通年採用も提言

毎日新聞 2月23日(木)21時24分配信
<経済同友会>大卒就活、3月開始を 通年採用も提言
拡大写真
大学生の就職活動の流れ
経済同友会は23日、大学生の採用について提言をまとめた。新卒採用の会社説明会を3年生の3月、選考活動を4年生の8月から始めるとともに、将来的に は東大が打ち出している秋入学などに対応、春の一括採用に加え、秋や通年の採用など「採用の複線化、多様化を図るべきだ」とした。卒業後も内定を得られな い学生に配慮し、既卒3年以内は「新卒扱い」とするなど、企業側に変革を求める内容となっている。

【リアル30’s】続・反響特集第3回 親の手助けも必要/国や財界は何をしているのか

大学新卒者の就職活動は、3年生の10月から会社説明会が始まる早期化が問題となり、経団連が昨年から説明会の開始を12月に遅らせるよう採用活動の指針(倫理憲章)を改定したものの、選考開始は4年生の4月に据え置かれている。

同友会は提言で、説明会の開始をさらに遅らせたうえ、経団連が据え置いた選考開始を4年生の8月とした。

同友会は「行き過ぎた就活の早期化だけでなく、人気のある大企業へ応募が殺到し、多くの学生が内定を得られない事態は学生、企業の双方にとって問題だ」 と指摘。全国の大学や自治体、非営利組織(NPO)などと協力し、中堅・中小企業に学生を紹介する「マッチングシステム」を構築すべきだとした。

当面は就職活動を3年生の3月スタートとするが、秋入学の本格導入や海外留学にも対応できるよう「将来的には通年採用への移行を目指すべきだ」とし、経 済界や大学などを巻き込み、「採用活動改革の国民的運動を起こしたい」としている。経済界には就活の早期化是正や通年採用導入の機運が高まっており、今回 の提言は経団連の倫理憲章の見直しにつながる可能性がある。【川口雅浩】


企業は採用基準や実績の開示を 経済同友会が新卒採用で提言

産経新聞 2月23日(木)18時33分配信
経済同友会は23日発表した新卒採用に関する提言のなかで、企業が求める人材像や採用基準を明確に示すよう求めた。エントリーシートの応募条件に専門知 識や語学能力、大学での履修内容の記入などを課すほか、出身大学など過去の採用実績を開示すれば、新卒の応募が大企業に集中し就職活動が加熱するミスマッ チを改善できるとしている。

昨年3月に大学を卒業した学生は約55万人。既卒者も含め45万人が就職を希望したが、大手企業に就職できたのは7万人だった。人気企業に数万人の応募 が殺到する一方、中堅・中小の優良企業への応募は少なく、企業の求人数は求職者を上回っているのに毎年10万人近い就職浪人が出ている。

提言は背景には安定を求める学生の根強い大企業志向のほか、企業からの情報発信不足があると指摘。学生が自ら適正を判断できる材料を具体的に示し、大学も指導すべきとしている。

また新卒採用の早期・長期化を是正するため、東京大学などが導入を検討中の「秋入学」に支援を表明。企業は春だけの新卒一括採用にこだわらず採用の複 線・多様化を図り、将来は既卒者に1年中門戸を開放する「通年採用」に移行すべきだと改めて主張。国際競争力のあるグローバル人材を育成するために企業と 大学が連携協力すべきだとしている。

Tuesday, February 28, 2012

絶体絶命?再試について

卒業の季節が近づいてきた。ということは、再試の時期でもある。

知らない方のために言っておけば、再試とは、卒業間近の学生が、本試験に落ち、どうしてもその単位がないと卒業できないため、特別に実施される再試験のことである。



大学で過ごす時間の中でしか培えないものがある――回り道の時間、散歩の時間、パサージュの時間、媒介の時間、遅れの時間。そういったものを守り、将来に引き継いでいくのは、私たち大人の務めであり、国家や社会の務めである。

哲学そのものの中に回り道、散歩、パサージュ、媒介、遅れを許容するのでなければならない。なぜなら哲学とはつまるところ、回り道、散歩、パサージュ、媒介、遅れであるからだ。


と前に書いた。だが、すべての「遅れ」「回り道」が等価であるわけではない。



「試験に落ちておいて、こんなことを言うのは何ですが、父は来年定年で――あるいは、父が病気で長期入院しており、あるいは母と弟と三人で生計を立てていかねばならず、などなど――、どうしても今年の春から働きたいのです。僕が留年すると、家計に大きな負担をかけることになってしまいます。内定も決まっており、どーしても卒業したいのです。よろしくお願いします!」

こんな文言を試験の最後に書き込む学生が後を絶たない。しかも、試験問題自体はほとんど空白のまま、である。ちなみに、私の再試はいずれも、本試験とまったく同一の試験である。

彼らの卒業、彼らが苦労して獲得した「内定」、大げさに言えば、彼らのその後の「人生」も、ひとえにこの追試にかかっている、それはよく分かっている。通してやればいいじゃないか、という「大人」の考えも分からないではない。

しかし、である。なぜ彼らは事がここに至るまで事態を放置したのか。必要とされる勉強をせずに、絶体絶命の状況になったから超法規的措置で助けてくれというのは、どう考えてもおかしい。


こじんまりした大学なので、顔見知りの学生であることも多い。「顔見知り」であることを利用し、「情状酌量」にしてもらおうというのであろう。しかし、顔見知りであるということは、こちらも彼らのこれまで四年間の行状を知っているということである。彼らが「日中は仕事に精を出し、夜は勉学に励んだ」というような親孝行な学生であったら、私の考えはまた違ってくるかもしれない。

だが、事実はそうではないのだ。一年生の頃から「最低限の勉強はしておけ」と口を酸っぱくして言い聞かせたにもかかわらず、四年間バイトと遊びに明け暮れておいて、いざ卒業が近づいてきたら、この有様である。

そんな彼らに以下のようなことを言いたいのだが、彼らは直接私の前に現れないので、言う機会がない。だから、ここに書きつけておく。

1)「試験に落ちた」ということは、「合格に必要とされる勉強を十分にしなかった」ということである。大学というところは、なるほど、勉強ばかりをするところではないかもしれないが、遊びとバイトばかりするための場所でもない。勉強しなかった→単位が取れなかった→卒業できない、は論理的必然であり、どこにも情状酌量の余地はない。

2)父が定年になることは(あるいは、家庭内のあれこれの問題は)、すでに試験前から分かっていたことである。そんなに家計が苦しいというなら、どうしてきちんと最低限の勉強をして――遊ぶなとは言わない。しかし後々自分が困らない程度には勉強しておく要領のよさは社会に出ても必要であろう――、単位に困らないように大学での「人生設計」をしておかないのか。どうして「この単位をとらなければ卒業できない」というぎりぎりのところまで追い詰められるようなことをするのか?

3)「内定が決まっているから、卒業させてください」という。では、「卒業が決まっているので、内定をください」という論理は、企業に通用するのだろうか?

大学と企業は異なる論理が支配する別の組織であり、大学を卒業するための努力と、企業に入るための努力は、別物である。

「内定が決まっているので、勉強はしませんでしたが、単位をください、卒業させてください」というのは、「もうすぐ飛行機が出発するので、パスポートは持ってきませんでしたが(必要とされる所定の手続きは踏んでいませんが)、出国させてください」というのと同じである。そんなことを認めていたら、大学は成り立たない。

学生は「内定」と言えば道理(大学の論理)が引っ込むと思っている。それは、彼らが、就職活動中に味をしめた「超法規的措置」のせいである。彼らは授業に出なくても、「就職活動をしていました」「説明会に行っていました」「内定をもらった企業の研修があるので」――四年生の10月や11月にまるまる一カ月研修で上京させる企業があるのだ!大学での勉学を何だと思っているのか――と言えば、出席と(ほぼ)同じ扱いにしてもらえる。

4)しかも、 彼らは「絶体絶命」であると言いながら、私に会いに来ない。直接会って、事情を話し、再試のために一生懸命頑張るので、あらかじめ試験問題を教えてくださ い、試験のポイントを解説してください、勉強の仕方をアドバイスしてください――そう頼みこむのが「絶体絶命」の時の振る舞いではないのか?

彼らの「絶体絶命」は本気度が足りないと思う。どこか甘い。何とかなるだろう、どうにかしてくれるだろう、そういう甘さは社会に出て通用しない。大学が大人になっていくパッサージュ・過程であるならば、彼らはここで痛みをもって学ぶべきだろう。


5)そして、何より言いたいのは、上記のような非合理的な論理を振りかざして、私に精神的負担をかけるようなことを彼らはすべきでない、ということである。どうして教師を苦しめるようなことを平気でするのか?再試をせねばならない教師の心理まで思いやる余裕がないのは分かるが、私たちがなぜこのようないわれなき苦しみを負わねばならないのか?

6)再試の失敗は人生の終わりではない。絶体絶命ではない。必要な勉強をしなかったから単位が取れず、大学を卒業できなかった。それで内定を取り消された。それを教員のせいにするべきではない。それは、これまでの自分の生き方がもたらした結果、その学生のそれまでの生き方の「総決算」だ。甘んじて受け入れるしかない。

ひとは時に失敗する。ひどく失敗する。何度公募に出しても落とされる。何度論文を出しても落とされる。何度科研を出しても落とされる。それも、よくわからない基準で落とされる。

落第する。それもまた人生だ。そこから予想もしなかったまったく別の道が開けるかもしれないではないか。

いや待て、考えてみると、学校の試験ほど、客観的な基準で自分を計ってもらえるのは、人生の中でむしろ稀なことではないか…。


というわけで、再試であろうがなかろうが、内定が決まっていようがいなかろうが、他の受験者と同じように、客観的に、中立的に採点するほか手はない。

うーむ、「嘘をつく権利」を斥けたカント恐るべし。

Monday, February 27, 2012

占拠運動と19世紀パリの民衆騒乱 ― 喜安朗 『民衆騒乱の歴史人類学―街路のユートピア』を読む

WINC関連の情報から一つ抜粋。

(…)

第二企画は、3月10日土曜 日に通常のWINC例会形式にのっとって行います。
喜安朗さんが昨年末に『民衆騒乱の歴史人類学--街路のユートピア』を出しました。
喜安朗さんが描く十九世紀の世界を読んでいると、
それがまさに、わたしたちの 目の前で起こっているチュニジアやエジプトなどの街頭の光景、
ウォール街占拠の息遣い、

そ して日本でも長い間なかった盛り上がりを示している街頭デモの場面と、
どうしてもダブってきます。
わたしたちの今を、十九世紀 の想像力とショートさせて読む機会として立案しました。
提題者には、やはり横浜で反 原発の運動にも関わっておられるドイツ史家の山根徹也さんが

引き受けてくださいました。


第二企画(…)の内容は、 具体的に以下のとおりです。

********************************
■第二企画 占拠運動と19世紀パリの民衆騒乱

        ― 喜安朗 『民衆騒乱の歴史人類学―街路のユートピア』を読む
□日時 310日(土)14時~17時 
□場所 東京外国語大学海外 事情研究所427
□提題者:山根徹也(横浜市 立大学)
□リプライ:喜安朗(日本女 子 大学名誉教授)
*********************************

Sunday, February 26, 2012

大学の時間、あるいは暗誦の効用



院生の頃からいくつかの詩を暗誦するようになった。これもお気に入りの一つである(ちなみに、彼の暗誦は若干正確さを欠くが、しかし実に素晴らしいものだ)。

最近、自分のゼミでも、学生たちに何かしら詩を暗誦してくるよう、求めることにした。素敵ですねと言ってくれる学生もいるので、うれしいかぎりである。

なるほど、詩を覚えることなど、社会に出てから何の役にも立たない。「御社」の情報を徹底的に調べ上げたほうが面接の受けもいいだろう。ゼミ中にSPI対策の試験勉強をするという先生方も現れてきているご時世である。

(ちなみに、「SPI」という語も知らないという人は、現在の大学が置かれている状況について語る資格はない。もちろん、それに盲従せよというのではない。敵を知らなければ有効に戦えないといいたいのである。)

だが、では、社会に出て数年も経てば時代遅れになる「すぐに役立つ」情報、「即戦力になる」=その時々の産業界のご都合主義的な要望に完全に従順になるための訓練こそが大学でやるべきことなのか?

現在、(一握りの有力大学を除く)大学はいよいよ就職活動用の専門学校と化しつつある。

だが、大学は就職活動のためにあるのではないし、あるべきでもない。そのことに社会全体が気付くべきであり、特に政府と産業界は、「大学の就活専門学校化」は、長期的に見れば、自分たち自身のためによくないと気付くべきだ。彼ら自身がきわめて近視眼的な、ショートリターンの論理に呪縛されていることに気付くべきだ。

東大の秋入学が話題になっているが、まずもって見直すべきは産業界における「新卒採用偏重」であり「学歴(大学名・偏差値)偏重」であることは疑いを容れない。前にも引用したが、

《一見すると公平そうで、水面下で学歴差別を行い、絶対にエントリーシートを読まない大学の学生にもムダな努力をさせている》企業、《楽しいパンフレット、説明会を作り上げ、どうせ採らないのに選考に学生を呼び、楽しいイメージを植えつけて人気企業ランキングに投票させている企業》のほうをこそ、政府および産業界は問題視すべきなのだ。なぜなら、若い学生たちがそれらの真にブラックな企業に対して投入した努力の総量こそ、途方もないエネルギーの無駄遣いであるからだ。

「エコ」を売りにしている政府および産業界は、若い人的エネルギーの天文学的な損失に敏感であるべきだ。就活を苦に自殺する学生が年々増えている現状をどうしたいのか。

大学は、就活用の、せいぜい数年先までの力を養成する場ではなく、就活で失敗しようがどうしようが、その先数十年を生き抜いていけるだけの力を涵養する場でなければならない。

大学で過ごす時間の中でしか培えないものがある――回り道の時間、散歩の時間、パサージュの時間、媒介の時間、遅れの時間(昨年、ベンヤミンの大学論を扱ったのはこのような意図の下でのことである)。そういったものを守り、将来に引き継いでいくのは、私たち大人の務めであり、国家や社会の務めである。

他人任せではなく、大学頼みでもなく、私たち一人一人が――大学教員だけでなく、市民一人一人が――、たとえささやかであれ、このような動きに身を投じなければならない。

私は私の持ち場で、教壇の上から、あるいはゼミ室の中で、「大学の時間」を固守しようとしている。なるほど、詩を暗誦させるなど、笑えるほどささやかな「抵抗」かもしれない。だが、それは確実に一つの抵抗であることを、私は信じて疑わない。

哲学のゼミでありながら、哲学者の名前やら著作名、年号やら概念やらではなく、「詩」を覚えさせるという点に、実はもう一段深い意図が隠されている。哲学内にも「就活用の専門学校化」の危険性が潜んではいないか。「哲学一直線」は決して精神の優れたバランス感覚を生み出すまい。

哲学そのものの中に回り道、散歩、パサージュ、媒介、遅れを許容するのでなければならない。なぜなら哲学とはつまるところ、回り道、散歩、パサージュ、媒介、遅れであるからだ。

詩にも、語学にも、また時事ニュースにも、学生の目を向けさせるゆえんである。

Enivrez-vous, de vin, de poésie ou de vertu, à votre guise !

Thursday, February 23, 2012

脱線の作法――『トマト大学太平記』を読む(3)

奥本大三郎『トマト大学』太平記(幻戯書房、2011年12月)には三つの良さがある。

1)大学教員の生態誌として。主人公を化石的な教員に設定することで、現実にあまりに追従的な現在の趨勢に対して、風刺的な距離感が保たれている。

2)フランス文学の教授法の実践例として。一見すると迂回的・余談的・雑談的・非効率的・非生産的にも見えるこの手法が、実は文学や哲学にとって、きわめて重要なのではないか。

3)日本のフランス文学研究の「洋食的」(和食でも純粋フレンチでもない)独創性に関する思考の萌芽として。これは示唆されているにすぎないが、発展させられるべきものではないか。

第一点については先に述べたので、ここでは第二点について、少し発展させてみたい。



『ファーブル昆虫記』として日本で知られている書物の原題は、Souvenirs entomologiques、つまり『昆虫学的回想録』。「虫の話だけじゃなく、ファーブルの自伝風の文章が交えられているんだ。それを『昆虫記』と簡潔な題名に訳したのは大杉栄という人でね、無政府主義者の。まあ、そういう話はさておいて、と」(25頁)。

ドゥルーズもそうだが、アナーキストは時に実に簡潔な文を好む。しかし、ベルクソンも、ファーブルも、アナーキストではない。

ファーブルは、蝶がさまざまな植物の間をひらひらと実に悠長に舞っていくように、一見脱線にも見える記述を続けていく。

大学の時間は、遊歩の時間、散歩の時間、逸脱の時間、遅延の時間である。

奥本氏は、第1章「落日のフランス文学」において、「スープを飲む」がなぜmanger de la soupeとなるのかについて、まさに『ファーブル昆虫記』の一節を引き、逸脱に次ぐ逸脱とも見える雑談を重ねつつ、その実、まっしぐらに謎の核心へと迫っていく。その手さばきは、見かけの「胡乱さ」「茫洋さ」とは逆に、実に鮮やかである。



もう一例挙げよう。第5章「アメリカに落ちのびた王太子」では、マーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』のある挿話から始めて、アメリカとフランスとの因縁浅からぬ関係を論じるともなく論じている。

アメリカ大陸には昔モンシロチョウはいなかった、あれはフランス系の移民が持ってきたキャベツに卵か蛹がついていたんだ、日本のもそうかもしれない、日浦勇の『海をわたる蝶』を読めと、デリダのように「哲学の国籍(ナショナリティ)」ではなく、「哲学の植物相(flora)」を提唱したい私の関心を引く言葉をつぶやきつつ、英語では生きている家畜とその肉とで単語が違うのに――cow/beef, sheep/mutton, pig/pork――、フランス語は一つしかなく――boeuf, mouton, porc――、しかもそのどれもが、英語の肉のほうに近いことに注意を喚起しつつ、その理由を実に鮮やかに説明してくれる(わざと間のページを抜いています)。


文学や思想の授業において、見た目に手際の良すぎるのは考え物である。

落語とは無駄話の集積である。それを聴いたからといって、得になることは一つもない。にもかかわらず、落語家の芸には明らかに優劣がある。芸の良し悪しは必ずしも見た目の手際の良さとは比例しない。

蝶のように舞い、蜂のように刺す。逸脱にも優劣があり、脱線にも作法がある。

Wednesday, February 22, 2012

無用の用、でもなく――『トマト大学太平記』を読む(2)

奥本大三郎『トマト大学太平記』(幻戯書房、2011年12月)の第一の長所として、大学教員の生態誌たりえていると言ったが、著者自身が大学教員であるためか、同種の著作と見られもしよう筒井康隆の『文学部唯野教授』(初版1990年)よりも、大学とは何か、学問とは何か、学生はどうあるべきかに関する思考はもう少し実態に寄り添っているように思う。この点を今少し補足しておこう。

「先生、私たち何のためにフランス文学なんか勉強してるんですか」
「彼氏が言うんです、文学部なんか出たって何の役にも立たないじゃないかって」(いずれも第2章「喋るエレベーター」69頁)




古くて新しい問題である。新しいというのは、この問いが今や大学全体、学問の全領域を覆い尽くしつつあるという事態を指してのことである。

私自身の所論と、よくある「無用の用」論との違いをはっきりさせておきたい。それはおそらく、脱構築的所作と批判哲学的所作との見極め難い境界線を探る試みと無関係ではないだろう。

文学は(哲学は、あるいは人文学一般は)、役に立たないからいいのだ、役に立たないからこそ貴いのだ、という「無用の用」論は、ある種の貴族主義的・エリート主義的身振りを宿命的に背負っている。

カント的「哲学と大学」論は超越論的である。実際的な国家権力と結びついた上位学部(現在でいえば医学部や法学部)に対して、哲学部だけが「権力なき力」「忌憚なき批判の力」をもち、特権的な位置にいる。

私の考えでは、大学も人文学部も無条件ではない。哲学は売れる。それも偶発的・事後的に売れるのではなく、根本的・原則的に売れるし、売る「営業」的努力をすべきである。古典や訓詁学に閉じこもるべきではない。

ただし、大学は企業でも専門学校でもない。哲学はマーケティング、営業部ではない。売れ筋やら、アクチュアリティを追いかけすぎるべきではない。

現代思想の巨人たちの翻訳や解説で売れることと、グーグルなどの先端的な技術現象や大災害などの社会・自然現象に関する考察で脚光を浴びることの間に、目くじらを立てるほどの違いはない。それらはどちらも「アクチュアル」の呪縛に、とても健全に、縛られている。

大学の時間は、アクチュアルでもなく、時代遅れでもない、「反時代的」(イナクチュエル)なものである。哲学者(文学者)の時間は、ヘーゲルの日曜日(祝祭としての大学)でもなければ、デリダの週日(ウィークデー)(学的真理探究の純潔な聖域としての大学)でもない、常にそのあいだ、「土曜日」的なものである。



したがって学生には断固として言わなければならない。哲学や文学の古典を買って、読むべきだと。

むろん非常に深刻な、同情の余地がある場合もあるにはあるが、たいていの場合、「学生には本を買う金はないけれど、ロックコンサートのチケットを買う金ならある。そして本を読む時間はないけれど、チケットの行列に徹夜で並ぶ時間ならある」(第6章「洋食の話」180頁)のだから。



大講義室での授業ならずとも、学生は教師と目が合うと、あわてて視線をそらす。

《いや、あわてて、ではない。長距離列車に乗って長旅にうんざりしている乗客が、車内販売のワゴンを押してきた売り子と目が合って、「間に合ってます」とでも言いたげに目をそらすのにそっくりである。》(第4章「宿り木」118頁)

「ソコニウッテルモノハ、ナンニモホシクナイヨー」、知識の押し売りは迷惑だ、と。だが、「すぐ役に立つ」「すぐ使える」知識がほしいという彼らの欲望をこそ、正面からの「強制力」(force)ではなしに、斜めからのソレル的な「暴力」(violence)で挫かねばならないのだ。

「我々はつけっぱなしのテレビだとさっき言われましたがね、それで言えば、つい、教育テレビになってしまうんですね。ところが、テキはお笑いかバラエティ番組しか見たくないんですよねえ」(同上、121頁)

学生たちは表面的な抵抗を示すことなく、心の中で静かにチャンネルを変え、あるいはスイッチを切っている。スイッチを入れさせ、チャンネルを変えさせるには、「無用の用」ではまったく足りない。

Tuesday, February 21, 2012

足軽の気軽さで――『トマト大学太平記』を読む(1)

「大学の時間」が「回り道の時間」であるなら、センター試験のような「お手軽」を標榜しつつ、その実、学生に依然として不毛な受験戦争を継続させつつ、大学教員に恐るべき心理的・身体的負担を強いるという点で何重にもコスト高な制度はやめるべきだろう。

そして、試験は大学ごとの入試だけにするか、あるいはいっそのこと入学試験をなくし、フランスのバカロレアのような高校卒業資格試験にすべきであろう。この場合、バカロレアは「筆記試験」、つまり書いて書いて書きまくる試験であることに注意してほしい。

人生の途上で限られた選択肢に出会うことはない。社会はマークシートでできていない。

たしかにこの場合、採点は教員にとって大きな負担になるだろう。けれど、それは大人が担うべき正当な代価ではないか。どのみち、今のマークシート方式にしても、作成に大きな犠牲が支払われているのだから。



最近、大学の同僚が奥本大三郎『奥山准教授のトマト大学太平記』(幻戯書房、2011年12月)を貸してくれた。奥本さんと言えば、ファーブル昆虫記の訳者としてしか知らなかったが、その知見が随所に活かされていて、楽しくフランス語の勉強になり、しかも大学教員の悩みがユーモラスに描かれた「内輪話」も知れるので、興味のある方はご一読を。

特に第7章「センターテスト狂騒曲」は、大学教員に押し付けられたセンター試験監督の悲喜こもごもを実にリアルに描写しているので、その辺りの事情を知らない方にはぜひとも読んでいただきたい。

まったく持つべきものは友である。「本人たちは教育界の大問題を論じているつもりだが、時代劇ならお城警固の足軽が二人、焚火にでもあたりながら文句を言っているような具合である」(221頁)。

いいではないか、足軽の気軽さで進んでいくのも。「王様は裸だ」と子どもが叫んだ時、彼はKYだったかもしれないが、たしかに物事の本質を突いていたのだ。


Monday, February 20, 2012

Après "Après la finitude". Reprises et prolongements

Ecole normale supérieure (45, rue d’Ulm), Salle Dussane

mercredi 22 février, 14h30-18h
Dans le cadre des activités du stage intensif de printemps du Master Erasmus-Mundus Europhilosophie, organisé en partenariat avec le CIEPFC (CIRPHES, ENS USR 3308), Quentin Meillassoux participera à une demi-journée d’études autour de son livre et de ses prolongements actuels.

年賀メール

年賀メールに今ごろ返事を書いている(それも少しずつ)
ような状態です。各種メール、各種作業が滞っています。すみません。

Sunday, February 19, 2012

二項対立を脱する

なぜ北にしか哲学がないのか。なぜ哲学は、南に憧れつつ、北へと向かうのか(ニーチェ)。
北/南

痛みと哲学の相性(ニーチェ)。かゆみに耐えながら哲学することはできるか。
痛み/かゆみ
かゆみは常に皮膚=表面で生じる。表面の哲学。

悲壮なもの/笑い(笑えないもの)
笑いの哲学。

粋/野暮
彼女は福岡出身・「在住」だったのですね。同じ病気というのも、なるほど言われてみれば…。







Monday, February 13, 2012

創造と模倣(落語の形態模写)

あらゆる芸事(ars)は模倣から始まる。落語の一ジャンルに形態模写がある。


映像の中で談志の言う通り、「物真似のうまいのは芸がよくなるよ」である。私は談志の狂信的な信奉者ではないので、彼の言葉くらいではそうも思わないのだが、小三治の実演を見て、かなり感心した(1本目の5:43あたりから)。


柳橋、金馬、可楽、どれもうまい(私はもちろんラジオやCDを通じて声やしゃべり口調を知っているだけだが)。


続き。圓生、志ん生もうまい(1:12くらいまで)。


小朝も真似ていた八代目正蔵(いわゆる彦六の正蔵)の真似と言えば、その弟子の林家木久扇(木久蔵)による『彦六伝』が有名だ(彼のほとんど唯一のレパートリーと言ってもいい演目である)。



ちなみに、上方落語篇。小三治、小朝より少し劣るが、吉朝もなかなかうまい(千朝も悪くない)。


Sunday, February 12, 2012

笑いの理論



「緊張の緩和」にしても、「サゲの四分類」にしても、いずれも枝雀の笑い論としてよく知られたものであるが、彼の「爆笑王」的な側面だけではない、笑いの理論家的側面も、それを実に明快にわかりやすく説明してくれる教育者としての側面も、存分に堪能できる貴重な映像である。

ちなみに、彼の練習(ネタ繰り)風景が残されている。


病のイメージ





病気にはイメージというものがありますね。


例えば、「うつ」は、昔は難しかったかもしれませんが、最近では映画にできるようになった。《ツレがうつになりまして》など。

では、アトピーはどうか?非常につらいものであるにもかかわらず、また非常に多くの方々が罹患しているにもかかわらず――数十年前までは子どものかかる病気と言われていましたが、最近では高年齢化しており、また世界的な広がりを見せているようです――、ドキュメンタリーならともかく、映画化は非常に難しいように思います。イメージ(=見た目)がよくない、見せたくない、見たくないものです。罹患していない他の方々にとってというよりも、アトピー患者自身にとってまずそうでしょう(というか、私個人はあまり見たいと思わないかなあということです)。

かゆみというのは、非常に人に伝えづらい(これは、うつも同じだと思いますが)。自分がどうつらいかが他人にわかってもらいにくい。



また、効果的な治療薬と言われている「ステロイド」に関して激しい論争があるのです。「体制側=日本皮膚科学会(+製薬会社)」の側に立てば、「副作用については、医師に確認しながら治療を続けていけばなんら心配する必要はありません」ということになります。もちろん、彼らとて、「薬には何の問題もない」とはさすがに今は言いません。「医師を信頼すれば大丈夫」と言っているのです。

しかし、できるかぎり中立的に考えたとすると、こういうことになりそうです。「ステロイドの正しい知識」より。

ステロイド外用薬は、そもそもアトピー性皮膚炎を完治させるための薬ではなく、炎症がひどく保湿剤では症状をコントロールできない場合に、期間を限定して炎症を鎮めるために使用するための薬です。

そして、ご存知の通り、様々な副作用があるため、正しい知識を持たずしてむやみに使用することは確かに危険といわざるをえません。

しかし、塗る箇所や症状の度合い、また、顔や腕などによる吸収力の違い、そして、使用期間の限度や使用を中止する際の方法などを考慮して正しく使用すれば、副作用を発生させることなしに使用することも可能なのです。

今日、マスコミや民間療法によって作られたステロイドに関する様々情報が氾濫するなか、患者の不安と混乱をなくすため、ステロイドに関する正確な知識は、医者が患者にきちんと説明すべきなのですが、そのような医者が数少ないことも事実です。

それらの状況から自分自身の身を守るためにも、私たちは、ステロイド外用薬の薬効や副作用などの知識を自ら持って、その上でステロイドを使用するかしないか、また、使用するならば、いつどのように使用するかを冷静に判断していく必要があるのです。

そして、最終的にはステロイドを使用しないでも症状をコントロールできる技術を自分で身につけることが最善の治療法なのです。
つまり、「副作用については、医師に確認しながら治療を続けていけばなんら心配する必要はありません」(体制側)が、「ステロイドに関する正確な知識は、医者が患者にきちんと説明すべきなのですが、そのような医者が数少ないことも事実」であるとすれば、患者は自分で正しいと思う道を探すほかはない。他のあらゆる病気でも、原理的には同じはずですが、アトピー治療におけるステロイド使用に関しては、「自立」「自律」「自己選択」「決断」を求められる度合いが高いように感じています。
 
というわけで、試行錯誤しつつ、家から一歩も出られない苦しい状況が続いていました。オーバーだと思われるかもしれませんが、『エクソシスト』のように悪魔と対決している感じです。苦しく、憂鬱で、惨めな一週間が終わり、ステロイドを使わないで、ようやく少しずつ回復しつつあります。

Saturday, February 11, 2012

フラグメント:今日の美学を支配する四原理

   Innovation
Le fragment
Cette université reviendra sur 4 des nombreux principes esthétiques qui semblent gouverner aujourd'hui la production architecturale en lui permettant de répondre aux problèmes spécifiques de notre contemporanéité. Quatre principes qui ne convergent pas (comme les cinq points de Le Corbusier) pour mener Vers une architecture...  

Monday, February 06, 2012

ダウン

今日は会議で大学に行く予定だったのだが、アトピーが急激に悪化しダウン。

Sunday, February 05, 2012

苦手

今日の仕事は二つ。

連作「ドゥルーズか、ベルクソンか」の第3弾デジャヴ篇を英訳してもらえることになり、引用の原文とか、もしあれば英訳がほしいとのことで、コツコツと探し出し、打ち込んでいる。

もう一つはようやく書き上げた辞書項目の再校。何行かはみ出ているのをカットしたり、表現をより適切なものにブラッシュアップしたり…。

どちらも、とても苦手な作業…。というのも、新しい論文を書くための調べ物をしたり、新しい論文を書いている最中に表現を練ったりするのは好きなのだが、一旦書き終えてしまったものに戻るのはどうにも苦痛で。。。

しかし、そんなことを言ってはいられない!

残念…

今年こそは自分の「本」を出すと決めて、いろいろなお誘いをお断りしている。

ルーマニアで毎年行われているフランス人哲学者たちの夏期大学、今年のテーマが「大学論」だそうで、本当に気持ちを込めて何度も誘ってくれたのだが、やはりお断りすることにした。

誠に断腸の思いだが、仕方がない。今年だけで4つか5つの原稿の約束をすでにしてしまっているわけで、こうでもしないと、意志薄弱な私は永遠に本を出すことができないに違いない。

一般意志

来年度は(4月から)、ゼミでルソーを読もうと思っている。17世紀前半のデカルト、後半のライプニッツと来たので、次は18世紀のルソー、という私のゼミ固有の理由で選んだのだが、そう言えば、今年はルソー生誕300年である(ちなみに、ジャンヌ・ダルク生誕600年だ)。 で、まあ、学生たちに政治や社会について考えてもらうことも大事であろうと、『社会契約論』を読むつもりである。 これなら、東さんの『一般意志2.0』と接続することも可能である。私は最近の彼に特段の意見を持たないが、うちの大学の平均的な学生たちは彼の名前を聞いたことすらない。別にそれでもいいようなものだが、まあ、21世紀初頭の日本を生きているのだから、彼の本を少しかじったことがあるというのは、大学で学んだ証しとしての「教養」という意味では、意味があるであろう。だから、彼の本も読ませるつもりである。 そう言えば、次のような見解が書いてあったので、紹介しておこう。 

一般意志2.0に漂う素人臭

(一部抜粋)ソフトウェア技術者から見ると、「一般意志2.0」は素人の妄想にしか思えない。
まず、(…)人々が好き勝手な思いで何かを主張しているソーシャル・ネットワークから、それら全てと相反する可能性もある「一般意思」を抜き出そうと言う発想に無理があるだけではない。「一般意思」の ─ 情緒的な記述ではなく ─ 数理的な特性が分からない以上、ロボットが計算した「一般意思」が本当に「一般意思」なのかが分からない。

次に、「一般意思」の特性が分かっているとして、コンピューター・ネットワーク無しの、例えば既存選挙制度で「一般意思」が取得できない理由が分からない。膨大な計算量で人手では実現できない可能性はあるが、アルゴリズムが提示されていないとそれも評価できない。

現代思想は専門外だし、興味はもてない。しかし、「一般意志2.0」にはテクノロジーの単語をついばんで、中身を理解しようとしない何かを感じる。具体的な最終目標を設定しないで、データベースを分析するアルゴリズムが開発されると言っているわけで、それは本当に仕様無きコーディングだ。(後略)

Saturday, February 04, 2012

[クリップ]岩波書店の「コネ採用」報道に同情してみる

岩波書店の「コネ採用」報道に同情してみる - 常見 陽平

アゴラ 2月4日(土)13時2分配信

より一部抜粋。

(…)

とはいえ、今回の岩波書店の取り組みは、就活界に問題提起したことは間違いありません。応募数がいたずらに肥大化していき、採用担当者も疲弊している実態 がよく伝わったように思います。一見すると公平そうで、水面下で学歴差別を行い、絶対にエントリーシートを読まない大学の学生にもムダな努力をさせてい る、黒い手を使っているよりもよっぽどマシだと思います。楽しいパンフレット、説明会を作り上げ、どうせ採らないのに選考に学生を呼び、楽しいイメージを 植えつけて人気企業ランキングに投票させている企業もあるわけですよ。この仕組まれた嘘っぱちの自由をそろそろ暴くべきです。

小宮山洋子厚生労働相はそういうことも分かって発言してください。

ついでに言うと、日本経済新聞は「日経ン出るって面接で聞かれた」というCMを流していますが、あれはそれこそ厚労省が打ち出している公正選考のガイドラ インに抵触しています。詳しくはこちらをご覧ください。小宮山洋子厚生労働相は岩波書店にツッコミを入れるなら、ちゃんと日経にもツッコミを入れてあげて ください。

この岩波書店の炎上事件が、限りなく透明に近く、納得感のある採用とは何か、議論のキッカケになるといいなと思っております。単に「けしからん」で終わらせてはいけない取り組みと言えますね。

こういう感情的なけしからん論、タテマエをこえたところに納得感のある採用はあるのではないでしょうか。

皆さんはどう思いましたか?

不信の信(今度はクリッチリー)

The Faith of the Faithless: Experiments in Political Theology [ハードカバー]

Simon Critchley

The return to religion has perhaps become the dominant cliche of contemporary theory, which rarely offers anything more than an exaggerated eco of a political reality dominated by religious war. Somehow, the secular age seems to have been replaced by a new era, where political action flows directly from metaphysical conflict. The Faith of the Faithless asks how we might respond. Following Critchley's Infinitely Demanding, this new book builds on its philosophical and political framework, also venturing into the questions of faith, love, religion and violence. Should we defend a version of secularism and quietly accept the slide into a form of theism - or is there another way? From Rousseau's political and religion to the return of St. Paul in Taubes, Agamben and Badiou, via explorations of politics and original sin in the work of Schmitt and John Gray, Critchley examines whether there can be a faith of the faithless, a belief for unbelievers. Expanding on his debate with Slavoj Zizek, Critchley concludes with a meditation on the question of violence, and the limits of non-violence.

著者について

SIMON CRITCHLEY is a professor of philosophy at the New School for Social Research, and at the University of Essex, Colchester. His many books include Infinitely Demanding, Ethics-Politics-Subjectivity and, most recently, The Book of Dead Philosophers.

  • ハードカバー: 291ページ
  • 出版社: Verso Books; 1版 (2012/02)
  • 言語 英語, 英語, 英語
  • ISBN-10: 1844677370
  • ISBN-13: 978-1844677375
  • 発売日: 2012/02

単独者と99匹、枝雀と米朝

この三つの書評には何か関連がある気がする。福田論は多数派と単独者の関係を問うもの。統計とは99匹の羊と1匹の羊の区別を明らかにしたり、ぼかしたりするもの。そして、

《若き心理学者の研究では、「危機的状況を目撃した人数が多ければ多いほど、なにか行動を起こす人が減る」との鉄則があり、その通りの現実が各国で起こっている。一人なら認識できることが、集団では見えなくなるのだ。》




この点について、枝雀と米朝の対談はなかなか面白い見解の相違を示している。時間のない方は、13:50あたりからどうぞ。米朝が『枝雀寄席』の第一回ゲスト、1979年の対談である。


1979年と言えば、枝雀は40歳、米朝は54歳。対談のほとんどは、枝雀は控えめの中に泰然自若、春風駘蕩、ペースをつかんでいる様子、米朝がむしろ(若干ではあるが)そわそわしている感じがあるが、最後にぐっとひっくり返す、引き分けの感じ。米朝は「自分の落語を最大限継承したのは吉朝で、枝雀はライバル」と言っていたらしい。まったくそのとおり。

「人間イケイケ」についての註。



さて、先の対談の10年後、二人はまた対談をする。米朝は「99匹」的な「メートル原器」を体現せざるを得ない苦悩を語っている(「手本くらいおもろないもんないで」)。3:40くらいから。




ちなみに、最初の対談を聞いていると、『茶漬けえんま』を思い出す。

原発と女性、それに戦争(新聞記事)

《作家はある著名人が3・11について述べた言葉を引用する。「ぼくはこの日をずっと待っていたんだ」と。「この日」とは、震災によって、この国の中で長い間隠されていたものが顕れた日のことだ。その意味で3・11は、まったく新しい出来事ではない。「おそらく、『震災』はいたるところで起こっていたのだ。わたしたちは、そのことにずっと気づいていなかっただけ」なのだから。》



原発労働に関する新聞記事



教育委員会についての新聞記事



読書(希望)リスト

読みたい本をメモ。

講談社学術文庫で、

マックス・ウェーバー『権力と支配』。

土屋恵一郎『怪物ベンサム』

あと、こういうのも図書館で借りたいかも。


今年の予定


3月末 とある公募論文締め切り。

5月末 kエピステモ論文締め切り。

同5月末 Annales論文締め切り。

夏休み中に何としても「本」を完成させる!

9月末 n「人文学と制度」論文締め切り。

12月末 デリダ『哲学への権利』翻訳締切。

Friday, February 03, 2012

投稿

昨年、とある仏語雑誌のVariaに連載原稿の第一弾を載せてもらったので、第二弾をと送ったら、今年は他の大規模な特集が増えてVaria欄が削られることになったので、 載せられませんとのこと。

うーん、どうしよう。困った。今さら他の雑誌に掲載を打診すると言っても、続き物の途中から(しかもまだ終わりじゃない)載せてくれるなんてこと、有名人でもない著者の論文で、ありうるだろうか…。

不信を信じてみる――ロザンヴァロンの『カウンターデモクラシー』

読みたい本をメモ。

齋藤純一・田村哲樹編『アクセス デモクラシー論』、日本経済評論社。

それから興味深かった記事をクリップ。ロザンヴァロンの『カウンター・デモクラシー』。
私の幻となってしまった論文「宗教的なもののゆくえ」でも使う予定だったのだが…。


祭典、採点

一月半ばに風邪をひき、その後、アトピーが再発してしまい(今回は軽度で終息しつつあります)、そうこうするうちに、試験やレポートの祭典、いや採点がようやく終わりました。今は大学内の最重要業務(と思われているもの)に携わっております。

各種メールの返事が滞っておりますが、これからできるかぎり早急にお返事を出していきますので、今しばらくお待ちください。各所にご迷惑をおかけしてすみません。

ゴミ学(ordurologie)

Technique
Révolution numérique : et si le cinéma perdait la mémoire ? (1/3)
La révolution numérique transforme brutalement la cinématographie telle qu'on la connaissait depuis 1895 : disparition ou mutation de la pellicule comme support des images, numérisation et restauration en 4K, imagerie de synthèse (motion capture et performance capture) accompagnée de la 3D, transmission des films par satellite, remise en cause des bases fondamentales de la technique ...
Sociologie
Résistance !
A Saint-Ouen, une poignée de retraités du quartier Pasteur-Zola se mobilisent depuis quelques mois pour lutter contre le trafic de drogue. Rencontre avec Abdellah, Claudie et leurs voisins. Reportage : Leila Djitli Réalisation : Assia Khalid
Musique
L’ordurologie
« Tu est ce que tu jettes ». Nos déchets dressent un excellent portrait de nous, dirait Sherlock Holmes. Mais on peut prolonger cette réflexion aujourd’hui et dire : « Tu es ce que tu ramasses ».

Thursday, February 02, 2012

After Spinoza

ある日、哲学に興味のないはずの女子学生が興奮気味に朝日新聞の半面以上ぶち抜きの記事を持ってきて、「先生、この人知ってますか?すごいハンサムですよね~」。國分さんであった。ハンサムの力、恐るべし。

いや、それは冗談として、最近の彼の仕事ぶりは本当に素晴らしいと思う。UTCPに寄せられたエッセイ「部分的な政治哲学」もよかった。ゼミの学生たちにも読ませましたよ。

経験論というか、内在の哲学というか、現在もしドゥルーズの後を私たちなりに辿ってみるとすれば、こういう形になるのではないかと思わせるところがある。

スピノザ論を仕上げた後、スピノザに従って、『暇と退屈の倫理学』、いい感じですね。私もまずは「本」を仕上げないと…。2012年1月29日付、朝日新聞の書評欄。

ジャンヌダルク生誕600年

Jeanne d'Arc La Fabrique de l'histoire consacre cette semaine à Jeanne d'Arc dont on célèbre le 600ème anniversaire de la naissance cette année. Focus sur sa brève vie avec, dans ce 1er volet, Gerd Krumeich, historien et professeur émérite de l'Université de Dusseldorff.