Tuesday, May 22, 2012

遠近法の歴史のために(ダニエル・アラス)

毎週の授業準備に追われて、研究に時間が割けない。

そんな中で今取り組んでいるのは、遠近法の問題。芸術学部向けの哲学の授業で、建築・絵画・写真・音楽・演劇・オペラ・映画の本質に迫るという趣旨の「芸術の哲学」をやっているのだが、建築から絵画へと移行する地点で取り上げている。

去年はパノフスキーの抜粋を配り、彼の説を紹介した。まあ常識的な線だと思うが、正直スノッブに感じた(もちろんパノフスキーをではなく、パノフスキーを知識としてしか伝えられない自分を)。

芸術学部の学生たちは、知識はないが知性や好奇心はかなりある。その彼らに、「絵画の思考」――絵画に関する思考、絵画を通した思考ではなく、絵画そのものが持つ思考――を感じてもらうには…。

それでいろいろと遠近法に関する著作を読んでみた。日本人の文献で面白かったのは、

中村雄二郎・小山清男・若桑みどりほか『遠近法の精神史――人間の眼は空間をどうとらえてきたか』、平凡社、1992年。

連続講座の講演記録なので読みやすいし、何よりいずれも話し上手な方がそろっている。

だが、一番しっくりきたのは、ダニエル・アラス。彼の著作はこれまで二冊邦訳されており、それらはいずれも素晴らしい邦訳である(コイレのことをコワレと訳したりしているのはご愛嬌だが)。

ダニエル・アラス『なにも見ていない――名画をめぐる六つの冒険』、白水社、2002年。
ダニエル・アラス『モナリザの秘密――絵画をめぐる25章』、白水社、2007年。

特に「遠近法とその潜在的な意味の歴史」について実に興味深く、また具体的な分析を示しているという意味で、この主題に関心のある方々にはぜひ『モナリザの秘密』をお勧めしておきたい。内容が刺激的であるのに加えて、「本書は、2003年夏に、ラジオのフランス・キュルチュールで25回にわたって放送され評判を呼んだシリーズ番組を、ほぼそのまま原稿に起こしたもの」なので、実に読みやすい。例えば、遠近法と受胎告知の密接な関連の必然性が明快に説かれる。

《多くの「受胎告知」の絵が15世紀に、とりわけ絵画における遠近法が定義される時期に描かれたこと〔…〕それは偶然ではありません。遠近法は、人間にとって測定可能な、人間が計測することのできる世界の像を構築するのに対して、「受胎告知」とは、フランシスコ会の説教僧であるシエナの聖ベルナルディーノによれば、無限が有限の中に、測定不可能なものが尺度の中にやってくる瞬間です。

「受胎告知」はしたがって、遠近法をその限界とその表象可能性に向き合わせる特権的な主題であり、15世紀において、何人かの画家やいくつかの知的集団は、それを十分に利用したのです。実際、「受胎告知」とは、天使が聖母マリアに挨拶をしにくるという眼に見える物語であるだけでなく、この可視的な物語の中に潜む「受肉」というキリスト教の根幹をなす〔不可視の〕神秘でもあるのです。》

彼の提唱する「近接絵画史」は、一般美術史、芸術の社会史など「遠くから見た歴史」と対をなす、近くから細部を眺める歴史である。「図像的細部」と「絵画的細部」、「パルチコラーレ」と「デッターリオ」といった対概念や、「観念連合の歴史的図像学」といった手法を駆使しつつ、彼はいわば美術史の放火魔、あるいは火事の通報者になろうとする。

《あらゆる美術史家は、とりわけ図像学に、したがって図像学的細部に興味をもつやいなや、細部を扱うことになります。しかし私は、通常の美術史の実践は、むしろ細部を消すことに意を用いていると思うのです。美術史家はやや消防士に似ています。気に障る細部があると、それを消さなければならない、ふたたびすべてがなめらかになるように、それを説明しに駆けつけなければならないのです。

細部の機能は、私たちを呼ぶこと、逸脱し、異常を作ることです。図像学(イコノグラフィー)の歴史は、すべての細部は正常であると考える傾向があります。ところが、ちょっとした偏執狂者である私の興味を引いたのは、その反対に、それは正常ではないと言うことであり、この異常の可能性を探しに行くことだったのです。

このときに近接的な歴史が開かれますが、それは遠くから見た歴史と同じくらいの、おそらくはもっと多くの資料を読む作業を含んでいるのです。》

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