Wednesday, April 27, 2011

第一線で続けるということ

内田「マンUは成熟したチーム。特にルーニーはすごい」…インタビュー・マンU編

SOCCER KING 4月27日(水)12時47分配信

26日に、チャンピオンズリーグ準決勝ファーストレグでマンチェスター・Uと対戦したシャルケのDF内田篤人。0-2での敗戦により、夢の決勝進出は遠のいたが、内田は世界最高峰の舞台で様々なことを感じたようだ。

(…)

-パク・チソンについて

守備をしっかりしてますよね。前に行かせてくれない。前に行けるときはみんなが戻ってるから出すところがない。

アジア人として、負けたくないという意識はないけど、こういう舞台でずーっとやっていることは尊敬します。こういう舞台で、ずっとやっているということはここでやってみないと分からない。マンUで、こういう舞台で毎年やってるのってすごいなって。

Saturday, April 23, 2011

Colloque SPINOZA – DELEUZE (29 et 30 avril)

Colloque
SPINOZA – DELEUZE
Vendredi 29 et samedi 30 avril

Organisé par Anne Sauvagnargues et Pascal Sévérac
avec le soutien du CERPHI (ENS de Lyon - UMR 50 37) et du Ciepfc (ENS de Paris)




Vendredi 29 avril à l'ENS-Ulm

Matin: salle Jules Ferry

9h45: ouverture

10h00 - 10h45: Chantal Jaquet (Paris 1) : « “Un balai de sorcière” (Deleuze et la lecture de l’Ethique de Spinoza) ».

10h45 - 11h30: Pierre Zaoui (Paris 7): « L'immanence spinoziste: un coup de force deleuzien? ».

11h30 - 11h45 : pause

11h45 - 12h30: Laurent Bove (Université de Picardie Jules Verne) : « Spinoza-Deleuze et la question d’Autrui »


Après-midi: Amphi Rataud

14h30-15h15: Ariel Suhamy (La Vie des Idées): « Le cheval de labour et le cheval de course
».

15h15-16h00: Vincent Jacques (ENSAV): « De Différence et répétition à Mille plateaux, métamorphose du système à l'aune de deux lectures de Spinoza ».

16h00 - 16h15: pause

16h15 - 17h00: Pascal Sévérac (Collège International de Philosophie): « La sensation chez Spinoza et Deleuze: percept et affect ».


Samedi 30 avril à l'Université de Paris 1

Matin: salle Cavaillès

10h00 - 10h45: Charles Ramond (Paris 8 / LLCP): « Deleuze lecteur de Spinoza : la tentation de l’impératif ».

10h45 - 11h30: Antonio Negri: « Spinoza et Deleuze: le moment propice ».

11h30-11h45
: pause

11h45 - 12h30: Anne Sauvagnargues (Paris 10): « De l'interprétation à l'éthologie : les deux lectures de Spinoza par Deleuze ».


Après-midi: salle Cavaillès

14h30 - 15h15: Kim Sang Ong-Van-Cung (Université de Poitiers): « Le pouvoir d’être affecté – Modes spinozistes et singularités chez Deleuze ».

15h15 - 16h00: Thomas Kisser (Université de Munich) : « La réalité du penser. L’interprétation de Spinoza par Deleuze ».

16h00-16h15: pause

16h15 - 17h00: Igor Krtolica (ENS de Lyon): « Deleuze, Spinoza et les signes ».

Friday, April 22, 2011

大学の授業

水曜日の一限に(!)、芸術関係の学部で、実験的に「芸術の哲学」というか「芸術と哲学」の講義をやっている。今週は建築について。古代ギリシア建築と中世ゴシック建築について話す。来週は、20世紀の三大建築家とも言われる、ライト、ル・コルビュジエ、ミース・ファン・デル・ローエについて話そうかと思っている。

それで毎週、授業外に補足のレクチャーをやろうと思っている。木曜5限にDVD観賞会などをしていこうと思っている。今日はフランク・ロイド・ライトについてのDVD。160人いた講義受講者に告知したにもかかわらず、参加者はたったの一人(先週はゼロ)。笑ってしまった。でも、そのたった一人の参加者がえらく興味を持ってくれたようでよかった。彼の話がなかなか面白かったので、来週は彼を授業の壇上に上げて、対話形式で授業を始めてみようかと思っている。

160人のうちの1人。でも、ここにうちの大学で私なりに戦うべき戦いがある気がする。
負け戦だろう。勝つのはいつも時流に乗っていくアクチュアルな「彼ら」だ。だが、それがどうした。



今日はその鑑賞会の時間にちょうど「入学前教育」に関する報告会があったので、それに出席せねばならず、親しい学生にお願いして、代わりに観賞会をしてもらった。

「入学前教育」とは、授業を聞く以前に「人の話を黙って集中して聴く」「大学で友達を作る」ことに極度の困難を覚えている一部の学生たちに対して、「友達づくり」と「コミュニケーション能力の向上」を目指して入学直前に行われる教育のことである。企業の新入社員研修――近頃は「社の精神を叩き込む」場ではなく、やさしく、ソフトに行くのだそうだ――のようなものだと思ってもらってもいいかもしれない。私の理解した限りでは、要するに、ここ十数年、絶大な人気を誇っている「自己啓発」である。

学習困難な学生を大学に定着させようという意図に基づいて行われているこの取り組みには全面的に賛成である。プロジェクトの細部には多々改善の余地があるにせよ(なぜ桁外れの予算が請求されるに違いない外部発注なのかなど)、方向性そのものにはまったく異論がない。

しかし、この措置はあくまでも例外的措置として行われるべきものであり、大学全体がこれをモデルとして進んでいくことには危ういものを感じる。

私たちのような小さな大学の教員が忘れてはいけないこと、それは「私たちが手放してはいけないものは何か」ということだ。

受験者減・定員割れ対策、離学(休学・退学)率の低下が、地方私立大学の最優先課題であることは明白だ。問題は、何によってそれを達成しようとするのか、である。もちろん「あれか、これか」の二者択一ではない。「あれもこれも」の多方面からの同時展開が望ましいことは言うまでもない。

だが、本分が忘れられている気がする。何か新しいアクションを起こすことが、大学改革だと思われている。そのための箱モノ行政、外部発注。

学生と教員がお友達になることが離学率に歯止めをかけ、学生の勉強意欲を増進するのだ、と。そのためには、教員はできるかぎり大学にいて、学生の対応(話し相手!)をしなければならない、と。さまざまな小規模大学で、大学教員の「タイムカード制」が始まっている。

しかし、授業をいかに面白くするのか、それが一番大事であろう。そのために会議を減らし、無意味なお役所仕事的書類を減らし、委員会のための委員会を減らすことこそが、最も重要な大学改革であるという気さえする。どうでもいいことに丁寧に行き過ぎ、大切なことに時間が割けない。本末転倒だ。

直球勝負の学問は面白い。そのことを感じさせずに、なんの大学だろうか。
「そこ一番大事なとこ」をフォーカスせずに、なんの大学だろうか。
家や図書館にこもって、時間をかけて、静かに授業準備する、その当たり前のことが当たり前に理解されなくなりつつある。大量の会議に追われ、大量の書類に追われ、大量の講義を受け持たされ、大量の学生の話を聞かされ、責任ある対応を任される…。二週間ゼミに出てこなかった学生に電話をかけ、悩み相談に乗るというのは、私たちにとってもはや他人事の笑い話ではない。完全に日常になりつつある。

「学生は変わった」?「友達が作れなくなった」?「コミュニケーション力が落ちた」?なるほど、そうなのかもしれない。だが、最も変わったのは、大学が置かれた社会的状況・布置である。それまで「大学で教える」ということの意味について、「哲学と大学」というごく当たり前の考えるべき主題について考えをめぐらせてこなかった、「平和」な時代のツケを、私たちは今、支払わされているという思いが拭いきれない。

***

いえ、DVDも面白かったのでむしろお手伝い出来て良かったです。芸学の男の子の話を聞いていたら「芸術の哲学」にも少し興味を持ったので、水曜日の授業も出てみようかなと思っています。

あと友達から先生宛てのメールが届いているのでそのまま転送しておきます。
なんだかえらくかしこまっていますが(笑)、
とにかく「前に受けた哲学より面白かった」「分かりやすかった」、「授業が始まったらいきなり静かになるのがすごい(神奈川の大学は授業崩壊?したりしていたらしいので)」との事でした^^

帰る頃にはうちの大学気に入ってたようなのでちょっと嬉しかったです。

***

本日はf教授の授業に参加させていただき, また温かく受け入れて下さり有り難うございました。
在学中に哲学の授業を履修していましたが, f教授の生徒との触れ合いを織り交ぜた授業方針は
とても新鮮で, 90分をあっという間に感じる授業になりました。
またもし福岡に来た際は挨拶しに伺わさせていただきたいと思います。
本日は有り難うございました。

Friday, April 15, 2011

これまでとこれから

以下の記事を読んでいて思ったこと。

1)ヨーロッパの中でも、世界の中でも、研究の力関係は長期的に見て変わりうるということ。

2)若手研究者の中にも「これまで」に対する感謝の念と「これから」に対する希望を持っている人がどんどん現れてくるといいな、ということ。

それには長期的な研究者育成の視野が多くの人々に――研究者たち自身のみならず、文科省、政府、ひいては国民――共有される必要がある。そのためにはまず、人文研究者が学問の魅力を、自らのパフォーマンスにおいて示すしかない。

本を出してもらえることが決まった。後押ししてくれた人々に感謝しつつ、なんとか「ゴール」に結びつけていきたい。


欧州CL日本人初対決は内田の圧勝。シャルケvs.インテル戦に2つの意義。

Number Web 4月15日(金)12時1分配信

(中略)

■欧州のリーグで3番手の地位が、イタリアからドイツへ変わった!?

 マン・オブ・ザ・マッチに選ばれたラウールは、こんなことを語っている。

「今夜はみんなにとって歴史的な瞬間になったね。そして、僕はこんな瞬間を味わうためにシャルケに来たんだ!」

 シャルケは、クラブの歴史上はじめてベスト4進出を決めた。

 次は、マンチェスター・ユナイテッドと戦うことになる。

 この準々決勝の結果が意味するのは、ヨーロッパのリーグとして3番手の地位が、イタリアからドイツに代わったということなのかもしれない。

 ドイツの盟主バイエルンではなく、1963年から始まったブンデスリーガの歴史の中で一度もチャンピオンになったことがないシャルケが、セリエAの雄インテルを下したことには大きな意味がある。

 来季以降に与えられるCLの出場権が、ドイツが3枠から4枠に、イタリアが4枠から3枠になることが決定的となったからだ。

 では、日本人にとって、今回の準々決勝は何を意味するのだろうか?

■「これからは僕らが新しい道を作っていく」と長友。

「この結果は受け止めなくてはいけない」としつつ、長友は言葉に力を込めた。

「インテルの一員として、これは僕の大きな経験になると思うので、これから成長は間違いないなと確信しています」

 1992年から始まったCLの歴史の中で、ホームで行われた1stレグで敗れながらも、アウェイゲームで逆転勝ちを収めて次のステージへの進出を決めたのは、わずかに2チームしかない。ファンハールが率いていた往年のアヤックスと、決勝トーナメント1回戦でバイエルンを下した今季のインテルだけだ。この試合に敗れたからといって、偉業を成し遂げた長友の名前が色あせることはない。

 試合後、インテルの広報が取材を切り上げるようにうながす中、長友は「最後に……」と切り出して、感謝を口にした。

「僕らが日本人対決をこの舞台で出来たのもね、本当にこれまで(先輩の)みなさんが道を作ってくれたから。本当に感謝したい。ただ、これからは、僕らが新しい道を作っていかなきゃいけないので。気合を入れて、頑張ります」

■世界最高の右SBマイコンからユニフォームの交換を頼まれた内田。

 対する内田は、試合後にはエトーに「良かったよ」と声をかけられ、ハーフタイムには世界最高の右SBの呼び声高いマイコンに「ユニフォームを交換してくれ」と頼まれたという。喜びを隠さなかった内田は、日本人として初めてベスト4に進んだ感想を求められて冗談まじりにこう語っている。

「(日本のレベルが)上がってきたというか、やれると思うんです。みなさんも、もっとやれるんだっていう記事にしてくれないと(笑)。やっぱり、記者の影響力はすごく強いから。そういうのに乗せられて、選手もどんどん海外に出て、ああやれるんじゃん、って思ってくれば日本のレベルも上がる。海外のレベル高いから、海外に行っても無理だろうって書いたら、選手も行けなくなっちゃう。どうか、ご協力を(笑)」

 そう言って内田は、すっと記者たちに頭を下げた。決して挑発的にならないように。

 日本サッカーのレベルは確実に上がっている。そう気づかせてくれたのがインテルとシャルケによるCL準々決勝だったのだ。

 そんな試合に日本代表の両サイドバックがともに先発フル出場。

 試合後には健闘をたたえ合い、ユニフォームを交換した。

(「欧州CL通信」ミムラユウスケ = 文)

Thursday, April 14, 2011

三池崇史『一命』

三池崇史は『オーディション』しか見たことがなく、まったくいい思い出がないのであるが、小林正樹の『切腹』はとても好きだったので、機会があったら見てみたいと思う。

***

三池監督×海老蔵映画『一命』カンヌ映画祭コンペ部門に出品決定

 市川海老蔵、瑛太出演、三池崇史監督の3D映画『一命(いちめい)』が、『第64回カンヌ国際映画祭』コンペティション部門に出品されることが14日、発表された。同作は、3大映画祭(カンヌ、ベルリン、ベネチア)のコンペティション部門で、実写版としては初めて3D作品として選出された。三池監督は「いつもと同じ春ならば、どんなにうれしかったことでしょう。でも、だからこそ、しっかり顔を上げ、前進あるのみです」と朗報に応えた。

 同作は、1958年に発表され、1962年に小林正樹監督が映画化(タイトルは『切腹』)された滝口康彦の『異聞浪人記』が原作。貧しくとも、愛する人とともに生きることを願い、武家社会に立ち向かった二人の侍の生き様に、心震える感動の物語を、三池監督が時代劇初の3D作品として再映画化した。市川、瑛太のほかに満島ひかり、役所広司らが出演する。日本での公開は10月に予定されている。

Wednesday, April 13, 2011

東京に原発を…

「東京湾に原発作れ」 ビートたけし提言にネットで喝采

J-CASTニュース 4月12日(火)19時22分配信
 タレントのビートたけしさんの「東京湾に原発作れ」という提言が注目を浴びている。

 2011年4月11日夜に放送されたテレビ朝日系「ビートたけしのTVタックル 春の3時間SP」の収録後の発言を、同日発行のサンケイスポーツや東京スポーツが報じたものだ。

■「都知事になったらよかったのに」

  「福島原発の電力を首都圏が利用しているのに、原発のリスクを地方の県や人に押しつけるのはおかしい。東京湾に作って、東京の人がそれで生活したら、何も文句は出ないはず。都心は地盤が悪いとか言うけど、地震が来ればどこも同じだよ」

 たけしさんのこの持論が掲載されたサンケイスポーツの記事に対し、インターネットでは、

  「よくぞ言ってくれた!」「昔からこの意見に賛成」「正論だ!」
  「これぐらい言わないと、みんな原発についてちゃんと考えない」

など賞賛の声が相次いだ。東京都知事選直後ということもあり、「たけしが都知事になったらよかったのに」という声もあった。

 たけしさんは1996年に発売した著書「落選確実選挙演説」でも同じ考えを訴えていた。東京スポーツによると、たけしさんは、今回の原発事故でこの考えが「案外的を射てきたかもな」とし、

  「1300万人もいる東京に原発を作るとなると、どんな地震が来ても、津波が来ても、完璧に絶対に大丈夫な原発を作るはずだもの。そうすっと、東京都は地方にカネをやんなくてもいいわけだし」

と、東京に原発を作るメリットを説明。

  「やっぱり、地方にリスクを押し付けて、東京だけいい生活をしようってのは虫がいい話なわけでさ。だったら、東京は地方にガタガタ言わせないためにも『お台場に原発を』だね」

と提唱した。

■「皮肉で言っているのに真に受けるな」

 拍手喝采の一方で、「現実問題不可能だろ」「そんなことしたら日本が終わる」「もうちょっと考えて発言してくれよ」など、たけしさんの発言に否定的な声も見られる。

 また、「皮肉で言っているのに真に受けるな」「これは例え話」というように、この発言が「東京湾に原発」の実現が難しいとわかったうえでの皮肉だとする声もある。たけしさんは1999年に都知事選出馬が噂されたとき、「独裁者ならやってもいいな。東京湾に原発を作ったりして」と冗談まじりに出馬を否定していた。

 「東京湾に原発を」という提唱は、これまでも原発の危険性を訴える人たちによって、「そんなに安全というならば、地方ではなく東京に作ればいいではないか」という批判的な文脈でされてきた。2000年4月には、都知事の石原慎太郎氏が原発の必要性を強調するために「東京湾に原発を作っても構わない」と発言し、話題となった。

ゼミ

今年の2年生のゼミは、ライプニッツの『モナドロジー』を日本語で読んでいくことにした。正規の2年生の登録者はわずか三人だが、まあ、別に人数を集めたいわけでなし(集めたいなら、それなりの戦略の立て方もあるわけだが)、それでいいかと。 学生と「わいわい楽しくやりたい」ゼミがあってもいいし、学生と「厳しいながらも楽しくやりたい」ゼミがあってもいいではないか。 このゼミには、今年から私のところで研究生になったsさん、スーパー三年生のy君、h大院生のm君、f大生のsさん、商学部なのになぜか哲学好きな四年生のn君が参加してくれることになり、総勢6~8名でライプニッツの難物に挑む。 これが大学(university)のあるべき姿だ。九州でも、大学の枠を超え、学部の垣根を超え、学年の違いを超えた哲学書講読ゼミは可能なはず。そう信じている。

Tuesday, April 12, 2011

8コマ…

怒涛の新学期である。私の大学の最低担当コマ数は6。今学期、私は8つ担当している。これでもし一年ゼミを言われるままに引き受け、卒論があったら、10になっていたところだ…。語学の10ではない。

というわけで、今年は講義6、ゼミ2である。

月2 近現代フランス思想史講義:デカルトからデリダまで
月3 結婚の脱構築ゼミ:キェルケゴール研究
月4 結婚の西洋哲学史講義:プラトンからデリダまで
月5 教職の哲学講義
火2 結婚の近現代日本史講義
水1 芸術の哲学講義
水3 ライプニッツを読むゼミ
木4 西洋哲学史講義:古代哲学篇

国公立、有名私立の先生方、どうぞ研究にお励みください…。

Sunday, April 03, 2011

送電ロス

「有効な代替案を出せないなら、原発を認めるべき」(主体・起源の問題)
「なるべく節電して、原発をやめるべき」(客体・目的の問題)
このような形での二者択一で議論が進むのはまずい気がする。
送電ロスの問題を考えてみてはどうだろうか(中間・媒質の問題)。

「送電ロスは、距離に比例し、送電電圧を高くするほど小さくなります。そこで日本の電力会社は100万ボルトという世界でもまれに見る高圧の送電線を開発しました。しかしそれでも日本全国では、現在でも総発電量の5%ほどが失われていることになるそうです。2000年度、資源エネルギー庁の概算によれば、全国で1年間約458.07億kWhの損失になるそうで、この数字は、「100万kW級の原子力発電所6基分」の発電量に相当します。
 原子力発電所は、火力に比べ消費地からかなり離れたところにあります。(中略)送電ロスの大部分は原発に関係したものといってもいいくらいです。」

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昨今の大学における教師と学生の関係――担任制が広がり、その意味で「大学の高校化」は遅かれ早かれ大多数の大学で不可避的となるだろう――についても同じことが言えないだろうか。とてつもなく不毛な送電ロス…。

リターンエース――入学式に思う

付き添う親の数が昔と違って段違いに多い。大学生が「幼児化」したと結論するのは――そう言いたくなる気持ちはよく理解できるが――早計だろう。

「大学選び」が就職活動の第一歩であるのなら、入学式付添いは大学の「品質保証」に対するこれから始まる厳しい「値踏み」の最初の一歩と考えねばなるまい。

私たち大学教員は親の要望に「応える」だけでなく、その要望自体の性質をより深く理解する仕方を提供するという形で、学生とその親に、ひいては社会に「答えて」いかなければならない。

この場合、必要なのはリターンエースである。

Saturday, April 02, 2011

知り続けること

私は知識人がどんな問題にでも口出しできるとは思っていません。けれども、この件に関しては、日本の知識人は少しでも知りうる限りのことを知ろうとする「義務」――とても強い意味で――があると思います。

傷つき、心疲れた人々を和ませ、ほっとさせ、気持ちを癒す。それは大切なことでしょう。「感動秘話」によって、「センセーショナルな映像」によって人を動かす(千羽鶴を折り、支援物資を送る)。それは役に立つことかもしれません。

けれども、そういったこととは違う何か――違うというだけで優劣関係はなく、むしろ含みあう関係でしょう――、「知ること」、「知り続けること」、それもまたやはり大切なのだと思います。感性と知覚を伴った知。

偉そうなことを言っても、私自身、再び始まった日本での日々の生活に追いまくられ、何ができているわけでもありません。友人から送られてくる情報に目を通し続けること。本当にごくささやかな、小さすぎる一歩…。




Friday, April 01, 2011

利害関係

3月28日(月)、パリで行われた西山さんのCIPhのゼミにゲストとして招かれ、発表させてもらった。当日、あらかじめタイトルは用意していかなかったのだが、全体をまとめると、
Négociations - à partir de Derrida
という感じだろうか。日本語ですでに発表したものに、今回のフランス滞在中のユーロフィロゾフィー・ゼミで練ってきたものを加味した。

学生さんたちの滞在記(フランス体験)を読んで、自分の学生たちにも声を掛ければよかったかなあと少し後悔。

でも、最近はリスク管理ばかりうるさく、斬新な発想には極度に保守的な態度を示すという風潮を感じてもいるので、西山さんのような試みはまたいずれ、自分のスタイルが認められてからということにしよう。

私の発表に日本人留学生の数が少なかったということを西山さんはしきりに嘆いておられたが、私は別に気にしていない。フランスの友人edが来て、議論を仕掛けてくれたというだけで十分。むしろ他のフランス人の友人たちに声を掛けなかったことを悔いている。

日本人に限らず、また留学生に限らず、人というのは正直なものである。面白そう(intéressant)、何か起こりそう、と思えば来るし、思わなければ来ない。広い意味で「利害関係(intérêt)がある」と思えば来るし、ないと思えば来ない。そういうものだ。これから国際的に活躍していきたいと望む若手の哲学・思想研究者がそういう姿勢でいいかどうかはともかくとして。

認知度が低いのは仕方がない。実力がないだけのことである。また、実力がないのに、あるふりをしようとも思わないし、無理に獲得しようとも思わない。やりたいことをやり、やれることをやるだけだ。

今までもむしろそれを基本にやってきた。振り返らない。人のせいにしない。自分の直すべきところだけを見つめる。探すべき未来はその先にある。

ひとまず新学期が始まる。