Monday, November 29, 2010

シンポ報告(続)

「ご来場いただいた方々」とさらりと書いてしまいましたが、大分や佐賀など九州各地から、さらに遠くは東京(oさん)、大阪(kさん)、神戸(hさん)から遠路はるばるお越しいただいた方々、本当にありがとうございました。全部で30人弱だったでしょうか。東京や京都でのシンポの規模には遠く及びませんが、それでも福岡でのシンポに(しかも私どものような手作りシンポに)ご参加いただけたこと、本当にうれしく思っております。今後ともよろしくお願い致します。

さて、第二セッションの主題は、セクシュアリティと所有でした。

パトリス・マニグリエは、藤田が大阪でした話を巧みに取り入れ、それに呼応する形で、しかも随所に昨今のフランスの結婚事情に関する数字や制度改革の話をちりばめながら、自分の話の外枠を形成した。結婚の歴史は、制度から契約化(contractualisation)へと移行しつつあるかのように語られるが、実際に必要とされているのは自由にして空虚な制度としての結婚なのではないか。性も、人数も、子どもを持つか持たないかも自由な、ただお互いの「約束」だけが――したがって国家や法制度を介した「契約」がではない――お互いを縛るような結びつき。それは何が性的であるかを国家に規定させない「ポスト・セクシュアリティ社会」においてはじめて実現されるのではないか。

藤田は、結婚の2000年の歴史を概観した後――これについては、結婚の自然誌を人類学的規模で考えるべきだというご指摘を大阪でいただいた。構造主義的な観点との兼ね合いでどう考えるか。いずれにしても考えてみる価値はある――、結婚の形而上学の根本諸概念のひとつとして「所有性」をとりあげ、アドルノにおけるその「脱構築」の模様をその一例として概観した。その後、デリダにおける「結婚の脱構築」の両義性を幾つかのテクストを用いて説明しようと試みた(が時間の関係でまたも宙吊りに…)。ただ、パトリスとの議論の中で、少しは私の所論が明らかにできたのではないかと思う。

Sunday, November 28, 2010

シンポ無事終了!



ご報告が遅れましたが、結婚論シンポ福岡篇は盛況のうちに終了致しました。ご来場いただいた皆様、宣伝・告知・開催にご協力いただいた方々には、厚く御礼申し上げます。今後ともご厚情を賜りたく、何とぞよろしくお願い致します。


当日のプログラムは、

第1部:交換とコミュニケーション

フレデリック・ケック氏は、まず、英国の人類学者タイラーの生物学的・進化論的・自生的結婚観――「外で殺されるか、外で結婚するか」というタイラーの言葉に集約されるこの結婚観は、インドとイギリスなど、大英帝国内における植民地主義的結婚政策に加担するものでもあった――に対して、レヴィ=ストロースが『親族の基本構造』において、象徴的-文化的・構造主義的・構築主義的結婚観を対置したことを強調する。また、ボーヴォワールが刊行直後に書いた書評で、後の多くのフェミニストたちとは異なり、「女性の交換」というレヴィ=ストロースのテーゼを評価し――ケック氏自身の言葉で言えば、レヴィ=ストロースとボーヴォワールの立場は「外で結婚するか、内で行き詰まるか」(インセスト・タブーの回避から生じる族外婚)――、彼女自身の小説群においては、このような構造主義的視点から現代社会における「男性の交換」が描き出されてはいないかと示唆した。

大森晋輔氏は、「侵犯の思想家」というクロソウスキーの通俗的なイメージと、そこから安易に生じうる彼の「逸脱的結婚」観を拒絶し、むしろクロソウスキーにおける言語の次元に注目することを提案する。二十年を隔てて書かれた二つのサド論の変遷――二つ目のサド論は、クロソウスキーの特異な結婚観が端的に表れている『歓待の掟』のすぐ後に刊行されたものである――に如実に見られる、このような思索の深化は、しかしながら、クロソウスキーにとって強迫的とさえ言える主題であった「結婚」との訣別を意味しない(『生きた貨幣』は1970年に刊行されている)。したがって、「結婚か言語か」の偽の二者択一を峻拒し、「結婚と言語」を同一地平において、「切り離しえない」ものとして扱う視点が要求されるのではないか、と大森氏の発表は示唆している。

二人の発表に(そしてもちろんレヴィ=ストロースとクロソウスキーに)共通する主題、それは結婚という現象を「交換とコミュニケーション」の視点から眺めるという姿勢である。レヴィ=ストロースが「未開」部族という「冷たい社会」の構造化要因として取り出した「女の交換」を、ボーヴォワールが、現代社会という「熱い社会」においては「男の交換」も存在するという形で変換してみせたのだ、というケック氏の指摘と、「非言語による言語の侵犯」という説から「古典的言語そのものの徹底による言語の侵犯」という説へのクロソウスキーのシフトには、『歓待の掟』における夫・男の「分身」の問題が関係しているのではないかという大森氏の発表に見られる示唆は、共鳴しているように思われる。

第二部は、セクシュアリティと所有の問題である。これについては、また改めて報告することにしたい。

Saturday, November 27, 2010

Colloque international : La déconstruction du mariage Lévi-Strauss, Beauvoir, Klossowski, Derrida

Le samedi 20 novembre 2010 à l'Institut Franco-Japonais du Kyushu (Fukuoka)
2e colloque international de La PFF (La Philosophie française à Fukuoka !)
La déconstruction du mariage
Lévi-Strauss, Beauvoir, Klossowski, Derrida

Programme (tous les titres de communication sont provisoires)

13h30- Discours du directeur & de l'oragnisateur

La 1re session : échange et communication

13h 45- Frédéric Keck : « Beauvoir lectrice de Lévi-Strauss »

14h 20- Shinsuke Omori : « Le mariage selon Klossowski – autour des Lois de l’hospitalité »

14h 55-15h 30 Discussion

15h 30-15h 45 Pause-café

La 2e session : sexualité et propriété

15h 45-16h 20 Patrice Maniglier : « Le mariage selon Lévi-Strauss »

16h 20-16h 55 Hisashi Fujita : « La déconstruction du mariage – à partir de Derrida »

16h 55-17h 30 Discussion

17h 30-18h Discussion générale et clôture

18h 30-20h Closing Party

Friday, November 19, 2010

リマインド:11/20結婚シンポ

阪大での結婚論シンポは盛況でした。パトリス・マニグリエの仕事のほんの一端でも日本で紹介できたこと、そしてそれを堂々と自分の問題関心の中に取り込みながら行ないえたことは、うれしいことでした。

「結婚の脱構築」というプロジェクトを少しは理解してもらえたかなと思っています。

次は福岡。大阪では「ドゥルーズを例に」とって喋りましたが、福岡では「デリダから出発して」
喋ります。

まず言っておくべきは、結婚の脱構築(déconstruction)は決して結婚の破壊(destruction)ではないということ。姦通・不倫など呼び方は何でもよいが、二人の人間を実体的存在、「主体」として捉えたうえでの「結婚からの逸脱」などが問題になるわけではないということ。その程度の「侵犯」なら、わざわざ20世紀思想・文学の到来を待つまでもない。

次に、私は「結婚の脱構築」を、「哲学と大学」という、もう一つのプロジェクトと同じ問題意識で進めているということ。すなわち、哲学・思想研究者が最も目をそむけている自らの「唯物論」的な基盤、自らの思考を枠づけているものの省察である。私は大した哲学研究者ではないが、自分が足を置いて考える「思考の場所」への意識だけは大学生のころから持ち続けてきた。個人的にいかなる選択肢をとるとしても、「結婚」が多くの人々にとってと同様、哲学者にとっても重要な問題の一つであるという自明の事実をその選択肢が覆い隠してはならない。

最後に、結婚は我々の手によって脱構築されるのではないということ。我々の手によってなされる「べき」という未来のプログラムというよりは、「結婚が常にすでに脱構築されつつある」そのプロセスを明らかにするのが我々のプログラムなのである。だからこそ、最近の諸々の徴候や、最低限の歴史はおさえておく必要がある。結婚の歴史を…。


à partir de とは「~から出発して」という意味ですが、「~から立ち去るべき」という意味をも持ちえます。

何度も言っているが、デリダやドゥルーズ、あるいはベルクソンでも同じことだが、哲学研究者にとって、彼らの「ファン」や「訓詁学者」になることが重要なのではない。彼らが言ったことをただ反復・パラフレーズしたり、彼らの価値基準を押し戴いたりすることが重要なのではない。

彼らの思想の可能性の中心を、彼ら自身に抗して掴み取ることが重要なのだと思っている。そして、いかに稚拙な形であれ、常にそれを実践しようとしているつもりである。

「結婚の脱構築」という名を付したから、このプロジェクト全体がデリダ思想の庇護のもとに置かれているに違いないと考える人は多いようだ。もしそうであるならば、それはマルクスの『資本論』の副題「経済学批判」がカント哲学の庇護のもとに置かれているのと同じ程度においてである。

Sunday, November 14, 2010

近況

1)事典項目…(8月末締め切り)。
2)09シンポ原稿…(9月末締め切り)。
3)11/17大阪・結婚論シンポ原稿
4)11/20福岡・結婚論シンポ原稿
5)田母神先生科研・論文英語化に向けて再検討(12月下旬)
6)鈴木先生COE・デジャヴ原稿論文化(12月下旬)
7)12/26「大学と哲学」研究会予習
8)ライシテ・シンポ原稿論文化(1/10締め切り)
9)2/10パリ・シンポ「アジアにおける現代フランス哲学」原稿
10)トゥールーズ・ベルクソン・シンポ原稿
11)3/28パリ・CIPhセミナー原稿
12)白水社・政教論文(2011年3月末)
13)デリダ翻訳(2011年3月末)
14)ベルクソン&ドゥルーズ科学論(2011年8月)

Saturday, November 13, 2010

ライシテ・シンポ

11月13日(土)、東洋英和女学院大学にて、日仏社会学会のライシテに関するシンポに登壇させていただいた。お招きいただいた菊谷先生、裏方としてさまざまなご配慮をいただいた事務局の方々にお礼申しあげます。他の登壇者の方々のご発表、議論にも大変刺激を受けました。ありがとうございました。

発表は、私が哲学、伊達さんが宗教学、鳥羽さんが社会学の観点から、それぞれライシテを考察。今までにない多角的な視点からのライシテ・シンポになったと多くの方々から喜んでいただけたようで、まずは一安心。三者の発表内容に関しては、次号の『日仏社会学会年報』に掲載されるので、ご関心がおありの方は、そちらをご覧ください。

私個人としては、「宗教的なもののゆくえ」が気になっている。信、信仰、信頼、社会的紐帯といった概念群を介して、この問題は、私の中では結婚論とつながっている。

というわけで、二つの結婚論シンポに突入…。

Thursday, November 11, 2010

11/17結婚の形而上学とその脱構築:フランス現代思想の視点から

第4回ときめき☆セミナー(大阪大学最先端ときめき推進事業 バイオサイエンスの時代における人間の未来 研究代表者 檜垣立哉)

「結婚の形而上学とその脱構築:フランス現代思想の視点から」

発表者:
パトリス・マニグリエ(エセックス大学・講師)
藤田尚志(九州産業大学・講師)

日時:2010年11月17日(水) 15:30-18:30
場所:人間科学研究科・東館303

【セミナーの概要】
ソクラテスと「悪妻」クサンチッペ。哲学と結婚は最初から折り合いが悪かったというべきだろうか。哲学は愛(エロスないしアガペー)について、性(セクシュアリティないしジェンダー)について、家族(共同体ないし市民社会)について語ること夥しいが、結婚という日常の中の日常を語りはしない。だが、愛・性・家族の結節点としての「結婚」という現象は、プラトンからパウロを経てルターまで、ルソーからヘーゲルやキェルケゴールを経てニーチェまで、ボーヴォワールからレヴィ=ストロースを経てクロソフスキーやデリダまで、常に「哲学」にとって厄介だが避けて通れない、永遠にして喫緊の分析対象であり続けた。おそらくは人類とともに誕生し、古代・中世と絶えず形を変えながら生き延び(イエのための結婚)、近代(モダン)の所産であると同時に(ロマンティック・ラブ・イデオロギーの帰結としての「恋愛結婚」)、すぐれて生権力、生政治の現代的な問題――未婚化・晩婚化・少子化、「パラサイトシングル」から「おひとりさま」まで、幼児虐待からDVまで――でもある「結婚」という制度は、脱構築されるべき一つの(あるいは複数の)形而上学を背後に隠し持っている。フランス現代思想は、結婚の問題に本質的な解明をもたらし、逆に、結婚は、フランス現代思想の臨界点を明らかにする。

Wednesday, November 10, 2010

BIOLOGIA E METAFISICA : IL FILOSOFO, IL MATEMATICO E IL BABBUINO

FORLÌ, 3 e 4 dicembre 2010

Prima sessione
Venerdì 3 Dicembre ore 9,00 – 13,00
Aula 3.1 - Facoltà Scienze Politichevia G. della Torre 1

Ore 9 Apertura dei lavori Saluto del Prof. Paolo Terenzi – Facoltà di ScienzePolitiche “Roberto Ruffilli”

Presiede : Arnaud François

Ore 9.30 Giuseppe Longo
Dalla psicologia del babbuino alla metafisicadell’infinito, l’unità fra biologia e conoscenza neifondamenti della matematica

Ore 10.30 Elena Gagliasso
Trasversalità nuove nell'alternativa Ambiente/Mondo

Ore 11.30 Paul-Antoine Miquel
Épistémologie non fondationnelle et métaphysique dela nature


Seconda sessione
Venerdì 3 Dicembre ore 15,00 – 18,30
Fabbrica delle Candele – Piazzetta Corbizzi, 9

Ore 15 Apertura dei lavori Saluto del Presidente dell’Associazione “NuovaCiviltà delle Macchine”, Prof. Pantaleo Palmieri

Presiede: Giuseppe Longo

Ore 15.30 Rossella Fabbrichesi
Coralli alberi e pennacchi. I filosofi nel giardino di Darwin

Ore 16.30 Arnaud François
Santé et irréversibilité

Ore 17.30 Federico Leoni
La vita come problema di ordine pubblico

Dibattito


Terza sessione
Sabato 4 Dicembre ore 9,00 – 13,00
Aula Multimediale - Liceo Scientifico“F.P. di Calboli”, via A. Moro 13

Ore 9 Apertura dei lavoriSaluto del Dirigente Scolastico del Liceo “Calboli”Dott.ssa Morena Mazzoni

Presiede: Federico Leoni

Ore 9.30 Frédéric Worms
La vie est polarité

Ore 10.30 Rocco Ronchi
Grammatica e pragmatica del vivente

Ore 11.30 Davide Tarizzo
La vita e l’ambiente. Metafisica, biometria edecologia


Quarta sessione – aperta al pubblico
Sabato 4 Dicembre ore 16,00 – 19,00
Fabbrica delle candele – Piazzetta Corbizzi, 9

Ore 16 Apertura dei lavoriSaluto del Sindaco di Forlì, Prof. Roberto Balzani

Presiede: Rocco Ronchi

Ore 16.30 Florinda Cambria
Metafisca e materia del vivente

Ore 17.30 Carlo Sini
La verità del babbuino

Dibattito

Monday, November 08, 2010

Deleuze et la musique - un séminaire nomade

ソヴァニヤルグからお知らせが来たので転載。

16 novembre 2010
Cdmc (Paris)
18 et 19 janvier 2011 – Paris 8 / INHA (Paris)
7 et 8 février 2011 Université Jean Monnet (Saint-Étienne )
8 et 9 mars 2011 – Paris 4 / ENS (Paris)
17 mai 2011 Université Panthéon-Sorbonne Paris I


Les enjeux d'une pensée-musique
Mardi 16 novembre

Centre de Documentation de la Musique Contemporaine (Cdmc)
16 place de la Fontaine-aux-Lions 75019
Métro Porte de Pantin


Programme - Informations pratiques:
Deleuze s’est intéressé à la musique en philosophe, et, si la musique n’a pas fait l’objet d’un ouvrage spécifique, celle-ci occupe néanmoins une place privilégiée dans sa pensée. Comme il s’est tourné vers le cinéma, la peinture ou la littérature pour élaborer sa philosophie, la musique est pour lui l’occasion d’une rencontre spécifique avec les champs opératoires propres au musical. On en repère les effets dans son œuvre avec, par exemple, les notions de multiplicités spatiales et temporelles, de codage et de transcodage, de pensée par diagrammes ou d’affects. Au cours de ces journées itinérantes, nous proposerons un état des lieux de l’approche du musical par Gilles Deleuze, domaine qui n’a pas encore fait l’objet d’une recherche approfondie en France. En effet, il a très souvent fait référence au corpus de la musique contemporaine, largement convoqué de Berg à Messiaen, de Boulez, Berio, Xenakis à Cage et Steve Reich.
C’est d’ailleurs à l’ensemble des signaux sonores et à leur expression dans l’espace et dans le temps qu’il porte une attention renouvelée.
Nous examinerons, dans un mouvement croisé, l’impact de ces outils de pensée sur la recherche et la création contemporaine en musique. Il s’agit, non seulement de se demander comment Deleuze s’inspire et s’instruit de la pratique musicale qui lui est contemporaine, mais aussi de montrer quelle incidence les lectures de ses textes ont sur la création, la musicologie, l’esthétique musicale, l’ethnomusicologie, les techniques et les technologies...
Le séminaire contribuera à établir le contexte historique, à explorer les références musicales, à élucider les rencontres avec la musique, dans l’œuvre du philosophe, mais aussi à parcourir ces interférences entre musique et philosophie, avec les inflexions et tensions qui s’en dégagent pour la musique aujourd’hui.
Vers le programme général:

Pascale Criton
Jean-Marc Chouvel
Anne Sauvagnargues

Saturday, November 06, 2010

リスク社会におけるベルクソン Bergson dans la société du risque

公開講演会

『危機の社会におけるベルクソン
Bergson dans la société du risque』

(フランス語・入場無料・通訳あり)

日時:2010 年 11 月 15 日(月) 18:30 20:00

場所:立教大学池袋キャンパス 5 号館 5301教室

講師:Frédéric Keck フレデリック・ケック氏

司会:澤田直(立教大学文学部教授) 通訳:平林通洋

略歴:フランス国立科学研究所 専任研究員

1974 年生。2003 年リール大学にて哲学博士号取得。

2010 年度 立教大学国際センター招聘研究員。

気 鋭の若手哲学研究者であり、特にレヴィ=ストロース研究を中心に行い、そのプレイアード版編者として世界的に高い評価を得ている。氏はレヴィ=ストロース のみならず、ベルクソン、バタイユ、レヴィ=ブリュールについても精力的に論考を発表。文化人類学、宗教学にも造詣が深く、哲学・思想を人類学や宗教との 関連において読み解く論考を多数発表している。

問い合わせ先:立教大学 文学部文学科仏文専修
澤田直 naosawada@rikkyo.ac.jp