Thursday, October 28, 2010

Francisco NAISHTAT, ACTION ET LANGAGE Des niveaux linguistiques de l'action aux forces illocutionnaires de la protestation

ACTION ET LANGAGE
Des niveaux linguistiques de l'action
aux forces illocutionnaires de la protestation

Francisco NAISHTAT

Collection La Philosophie en commun

24 €- 262 pages/ISBN : 978-2-296-12494-3

Dans cet ouvrage savant, mais parfaitement lisible, Francisco Naishtat explore une question philosophique majeure, qui est aussi l’une des « questions vives» de la pensée politique : celle des conditions de l’action collective et de la formation de ses acteurs, telle que permet de la repenser la pragmatique du discours. Mais il va au-delà d’une application, même créatrice, des catégories de “speech acts” et de « force illocutionnaire», pour déboucher sur un renversement du point de vue dominant quant aux rapports du performatif et de l’institution. Tirant parti de l’expérience des mouvements protestataires et utopiques liés à la « crise argentine » de la dernière décennie, il entreprend de refonder la pragmatique en lui incorporant la thèse (venue de Benjamin et d’Arendt) d’une force illocutionnaire non conventionnelle, qui déjoue les jeux de langage établis et institue l’horizon d’une “violence non violente”. Cette proposition forte et originale ne restera évidemment pas sans effets.

Etienne Balibar

L'AUTEUR

Après une thèse sur l'action et l'intentionnalité, Francisco Naishtat a été élu (2004-2010) directeur de programme au Collège International de Philosophie où il a dirigé des recherches sur la crise du politique dans le cadre de la mondialisation. Chercheur du CONICET, il enseigne la philosophie contemporaine aux Universités de Buenos Aires et de La Plata.

TABLE DES MATIERES


Présentation
Introduction
Première étude
LES APORIES DE L’ACTION ET LA PERSPECTIVE
PRAGMATIQUE
Introduction
Chapitre 1
L’ACTION DANS LA PERSPECTIVE DE LA
PILOSOPHIE MODERNE
1.1. Spectres de Descartes
1.2. La philosophie de l’action de Locke
1.3. La philosophie de l’action de Hume
Chapitre 2
L’ACTION DANS LA PERSPECTIVE DE LA
SÉMANTIQUE NATURELLE. LES IMPASSES DE LA
THÉORIE DAVIDSONIENNE
2.1. Rationalisations et explications causales d’après
Davidson
2.2. Les impasses de la théorie davidsonienne
2.3. L’ouverture pragmatique
Chapitre 3
LE TOURNANT WITTGENSTEINIEN DANS LA
PENSÉE DE L’ACTION ET LA CRITIQUE DE LA
SÉMANTIQUE RÉFÉRENTIELLE
3.1. Action et langage ordinaire
3.2. Wittgenstein Philosophische Untersuchungen
Deuxième étude
L’ACTION COLLECTIVE AU CRIBLE DE LA
PRAGMATIQUE
Introduction
Chapitre 4
SUJETS D’ACTION COLLECTIVE
4.1. Les foules dans la perspective de la
tradition positiviste
4.2. Max Weber : atomisme logique et agnosticisme
ontologique
4.3. Dialectique benjaminienne des collectifs dans les
Passagen-Werk
Chapitre 5
QUAND FAIRE C’EST DIRE ET AGIR. L’AGIR
COLLECTIF COMME FORCE ILLOCUTIONNAIRE

5.1. Performatif-causatif
5.2. Le caractère suspensif de l’agir collectif en tant que
disruption méta-communicationnelle
5.3. L’émergence Illocutionnaire du « nous »
5.4. L’agir collectif comme force illocutionnaire
RÉFÉRENCES BIBLIOGRAPHIQUES
TABLE DES MATIÈRES
NOTES

Saturday, October 23, 2010

制度と運動(ささやかなアイデア)

とあるシンポジウムの開催通知と同時に、若手の「参加者」を募集する告知もあった。

8名ほどの研究者が発表する生命倫理系のシンポに、「医療の現場で起こる倫理的な問題に対して人文学ならではの応答をしてもらいたい」との考えから、若手に対して、コメンテーターとしての発表の希望を募るという。

活躍する研究者の発表に若手がコメントをするという形式はあまり人文系では見ない気がして面白いし、発表者たちのアブストラクト集を公表し、「この人の発表にコメントしたい」という申し出を募るという手続きもいい( もちろん候補者多数の場合はなんらかの方法で選抜)。

さらにいいのは、このシンポは出版が予定されているらしいのだが、その際、若手のコメントについても優良なものを選抜して本に収録するそうだ。「制度」というとおおげさだが、こういった「システム」が一つの選択肢として広まっていけばいいと思う。

今、若手の研究者は、発表の場を必要としており、活字化の機会を欲している。これを単に業績主義だと笑うのはたやすい。だが、彼らの置かれた状況を踏まえつつ、良質なものを育成しようとしていくのなら、査読などの入口を厳格化するだけでは(あるいは逆に、就職前の若手を優先するだけでは)足りず、入口自体を多種多様化していくのでなければならないだろう。

やはり、〈制度〉と〈運動〉の問題である。

Monday, October 18, 2010

11/20国際シンポ「結婚の脱構築―レヴィ=ストロース、ボーヴォワール、クロソフスキー、デリダ」

九州日仏学館のHP上ではすでに告知されておりましたが、

ようやくポスターが出来上がりました。前回(3月27日)同様、伴野亜希子さんの作品。とてもポップな仕上がりで、大変満足しております。意味ありげな赤い糸…(笑)。

なにぶんにも地方でのフランス語の国際シンポ開催。負け戦は重々分かっていますが、やっていくしかない。

宣伝・告知をしていただけますと、大変助かります。
皆様のお手元での印刷用には、こちら(画面下にPDFが添付されているはずです)をお使いください。

なお、関連企画として、フレデリック・ケック氏の東京(立教大学)・京都(立命館大学)での講演、パトリス・マニグリエ氏の大阪(大阪大学)での講演が決定しております。ご関心がおありの方はぜひ足をお運びください。

よろしくお願い致します。

Sunday, October 17, 2010

11/13日仏社会学会シンポ「文化的経験の多角的照射――ライシテの多様性を巡って」

日仏社会学会の大会全体のプログラムはこちらをご覧ください。

14:20~17:20 シンポジウム
   テーマ:「文化的経験の多角的照射――ライシテの多様性を巡って」 
                          司会:菊谷 和宏(和歌山大学)
  1.ライシテの彼岸と此岸――フランス現代思想における宗教の問題  
                            藤田 尚志(九州産業大学)
  2.多面体としてのライシテ――政教関係の国際比較のために  
                            伊達 聖伸(東北福祉大学)
 3.フランス社会におけるムスリムの「脅威」   鳥羽 美鈴(横浜国立大学)

  討論者:長谷川 秀樹(横浜国立大学)、出口 雅敏(東京学芸大学)

場所:東洋英和女学院大学(東京都港区)
 東洋英和女学院大学六本木校地                 
 法人事務局・大学院棟地下1階フロアー                 
 〒106-8507 東京都港区六本木5-14-40


●東京メトロ日比谷線をご利用の場合六本木駅下車。3番出口から徒歩10分。
●東京メトロ南北線をご利用の場合麻布十番駅下車。5a番出口から徒歩7分。
●都営大江戸線をご利用の場合麻布十番駅下車。7番出口から徒歩5分。
http://www.toyoeiwa.ac.jp/daigakuin/index.htmll

Saturday, October 16, 2010

大学教員の「仕事」

silvalibrorumさんのブログにあった記事「日本の研究者、内向きに…海外派遣10年で半減」。先日のノーベル賞受賞者の対談などでも「学生が内向きに…」という話があったが、森本さんのおっしゃる通りである。

それは別に海外への挑戦云々もさることながら、大学が端的にギチギチな体制を敷くようになった──授業が増え、補講を強制し、会議だらけになった──とい うことと相関しているように思うのだけど、違うのだろうか。こんなに業務だらけで夏休みも浸食されてどうやって海外へ行けというのか。文科省も支援策など というのなら、こういう大学の体制自体について考えてもらってほしいものだと思う。正直、「分身の術」でも身につけないともはや教育と研究は両立しないよ うに思う。あるいは「影武者」か。
私の勤める大学では来年から一学期15週になる(ちなみに、補講は絶対に行なわれる)。四月第二週から始めると、七月最終週に授業が終わり、試験が八月第一週に終わる計算だ。採点に一週間程度。そして九月第二週から後期の授業が始まる。

夏休みが一カ月「も」ある、と友人のサラリーマンたちは言うだろう。だが、次の学期の授業準備もある(授業準備というものに相当の時間がかかり、まともな授業準備が学期中にできないことが、あまりにも理解されていない)。そして、大学の雑務は容赦なく一か月の「夏休み」にも食い込んでくる。

そのうえに、今年は前期も後期も8コマ(講義が4つ、ゼミが4つ。語学は一つもない)、来年はさらに増えるであろう授業の内容も充実させて(学期中の微調整)、大学の雑務もできるかぎり引き受けて、学生の履修(勉強)指導からキャリア(就職)指導、果てはメンタルケアまで引き受けて(学生に個別に電話をかけ、悩みを聞く)、さらに研究も発展させて…。

もちろん、ここでカフカの『法の門前』よろしく、こう付け加えておかねばならない。「それでも、わしなどはまだほんの下っ端で、中に入るとそれぞれの地位・役割に応じて、すごいことが待っている。このわしにしても、一つ上の世代の仕事量を見ただけで、すくみあがってしまうほどだ」。

文科省は、ひいては国民は、大学教員にいったい何を求めているのだろうか。

三年前、私は「膨大な量の事務作業は、大学教員の仕事なのか?サッカーにおける「ホペイロ」の役割を、日本で大学を論じる人々はもっと知るべきだ。」と書いた。そして、そこで、レディングズの次のような言葉を引いた。

「短絡的な考えがもたらす害の例の一つは、多くの教授たちは週六時間しか働かないという現在の認識である。

野球選手が、打者としてバッターボックスに立つ時間によって報酬が決まるとは誰も考えない。

他の選手が走るのに、キャッチャーはしゃがんでいるからといって、報酬が他の人より少なくて当然とは誰も思わない。

スポーツの世界からもう一つ例をとれば、例えば、冬季オリンピックのフィギュア・スケートの相対的人気は、速さを競う他の種目とは違った意味をもっている」(レディングズ、『廃墟のなかの大学』)

サッカー選手が自分の道具の最低限の手入れをするのは当たり前のことだし、ファンサービスをするのも当然だろう。だが、ファンは、サッカー選手が、自分でボールやユニフォームの発注作業をやり、事務書類を書き、靴の修繕をやることを望むのだろうか?単純に、試合で勝つことに専念し、ベストを尽くしてほしいと望むのではないだろうか。

大学教員の「仕事」とは何だろうか。何であるべきだろうか。それは、デリダの言うような、高貴な「profession」や「profession de foi」だけでは片付かない、日々のtravail、さらにはboulotの問題なのだ。

Friday, October 15, 2010

デリダの教育論

一連のラジオ番組が復活してますね。特に教育論・制度論は私の現在の関心を惹きます。
、mal aimé, mais aiméのあたりとか、日本語で読んだ気もするけれど。

Sunday, October 10, 2010

近況

もちろんこのブログにはまったく現れてこないが、
目に見えないところで自分なりの努力を続けているつもりである。

今日は土曜日、先週の韓国遠征の分、4コマ連続補講…。

土曜日という特別な感じを出すよう工夫しつつ、
しかし授業として妥協しない。

授業のための読書も可能な限り続けている。

ロック、ルソーにおける社会契約論のために、
Jean Terrel, Les théories du pacte social. Droit naturel, souveraineté et contrat de Bodin à Rousseau, éd. Seuil, coll. "Points Essais", février 2001.

デカルトにおける神の存在論証のために、
Emanuela Scribano, L'Existence de Dieu : Histoire de la preuve ontologique de Descartes à Kant, éd. Seuil, coll. "Points Essais", septembre 2002.

卒論指導のために、
東浩紀『動物化するポストモダン――オタクから見た日本社会』、講談社現代新書、2001年。
宇野重規『〈私〉時代のデモクラシー』、岩波新書、2010年。

可能な限りレベルを保ちつつ、学生のレベルにも合わせる。
ぎりぎりの努力を続けているつもりだ。哲学の魅力に目覚めてくれたらしい学生も何人かはいる。

研究のほうもいろいろやっているが、労多くして、報われること少なし。まあ、みんなそう思ってやっているんだろうけど…。
ライシテ・シンポのための読書…はネタばらしになるからやめとこ。