Tuesday, August 31, 2010

新たなる旅立ち

数日後に福岡を発つという2歳年下の後輩とランチを食べた。
いろいろな事情が折り重なって、研究者の道を断念するのだという。
新たな道でのご成功を心から願っています。

これから研究者を目指すという学生の方々には、
あなたが進もうとしている途はとても険しいものだと
再度念を押しておきたい。

私だって決して他人事でない。気付けば息苦しいことばかり。
数年後、いや一年後どうなっているか。

昨日着いた本のうち、幾つかを「デカルトとパスカル」「哲学と哲学教育」執筆のために、ぱらぱらめくる(もちろんこれまでにもいろいろ読んでましたよ)。
Victor Cousin, Cours de philosophie. Introduction à l'histoire de la philosophie (1828), Fayard, coll. "Corpus des oeuvres de philosophie en langue française", 1991.

Bernard Bourgeois (éd.), La philosophie et la révolution française, Vrin, coll. "Bibliothèque d'histoire de la philosophie", 1993.

Jean-Marc Levent, Les ânes rouges. Généalogie des figures critiques de l'institution philosophique en France, L'Harmattan, coll. "Philosophie en commun", 2003.

最後の本は、19-20世紀に講壇哲学が確立してきた様子と、それを批判する思想家たち(表題の「赤いロバたち」とはアランの言葉である)が誕生してきた様子を同時発生的・構造的なものとして描き出していて興味深い。

さて、そろそろ今まで書き散らしたものを一気にまとめて、原稿に仕上げていかないといけない。

Monday, August 30, 2010

デカルトとパスカル

今日は引き続き大学の仕事で半日つぶれる。その他の時間にいろいろ少しずつ読む。
夜、amazon.frから配達。

Jean-Claude Brisville, L'entretien de M. Descartes avec M. Pascal le jeune, éd. Actes Sud, 1986.

これは1985年に初演された戯曲でつい2年ほど前にCD化もされたので、それも一緒に買ってみた(Le Livre Qui Parle, JC980)。

ごく短い文章なのだが、とある文化辞典に「デカルトとパスカル」という項目を書かないといけない。その一環である。CDも、戯曲自体も、二人のごく基本的な違いを分かりやすく見せてくれており、17世紀の思想家に対する現代人の今なお尽きせぬ関心を示している点で貴重である。

文化辞典なので、思想的な事柄に深入りするつもりはまったくない。二人のフランスにおける文化的受容をごく簡単に描き出せればと思っているのだが、それにしても字数が短い。

『デカルトとフランス』についてはアズーヴィの本があるのだが、あと問題は、「パスカルとフランス」である。こちらはどちらかというと伏流なので、ちょっと厄介。

Saturday, August 28, 2010

哲学教師の肖像(カニヴェ、パントー)

André Canivez, Jules Lagneau professeur de philosophie. Essai sur la condition du professeur de philosophie jusqu'à la fin du XIXe siècle, tome I : Les professeurs de philosophie d'autrefois, Publications de la Faculté des Lettres de l'Université de Strasbourg, 1965.

この本は、フランスの哲学教育論や哲学制度論、哲学教師論をやるときには必ず引かれる古典中の古典である。

それと現代の哲学教師像についての社会学を併せ読む。

Louis Pinto, La vocation et le métier de philosophie. Pour une sociologie de la philosophie dans la France contemporaine, éd. Seuil, coll. "Liber", octobre 2007.

まあ正直な感想を言うと、ここまで来ると、徴候的だと思う。哲学は純粋な観念からなる天上の王国から降ってきたわけではない、哲学者もまた、個人的な利害関心を持ち、ある理論的な場(業界)の中に位置を占めることで理論的生産を行なうのだという、それは別にいい。問題はその後だ。

パントーは、ブルデューの『パスカル的省察』の次のような一文を引いて、「哲学の社会学」の正当性を訴えるのだが…。

《哲学的な場に固有の論理と、その場の中で生み出され遂行される傾向や信仰が社会的に「哲学的」と認められるその論理を分析することほど[…]哲学的な行為はない》

まあ、そのとおりなのだが、ならば、哲学の社会学はやはり哲学に属するのであり、ことさら学問分野としての「社会学」と「哲学」を対立させる必要はない。

これは実は(少なくともフランスにおける)哲学と社会学の覇権争いの伝統を忠実に(不毛に)継いでいるのである。

Saturday, August 21, 2010

近況

まあ、いろいろと大変である。

8月23日まで、重要な雑務。
8月22日、大学論読書会。
8月末日まで、辞書項目執筆。
8月末日、ギリシャ語勉強会。
9月6日まで、エピステモロジ―発表の準備。
9月6日以降、後期授業準備。
9月17日まで、韓国遠征、発表原稿の準備。

Sunday, August 01, 2010

「計測」しえないものを「計測」すること――テストの採点にまつわる感慨

テストの採点の季節である。具体的な採点に関する感慨はさておいて、しかし、採点とは一体何をどのように計るものであるべきなのか?

例えば、答案の記述の中で、ソフィストについて「感情的に言葉を用いていた」という表現が用いられていたとする。この表現は間違っており、「感情に訴えるように言葉を用いていた」という表現が正しいとする。

このような文章表現能力は、ほとんどの場合、講義内で得られたものではない。それまでの蓄積であり、言ってみればどれだけの教育資本がその学生に投下されてきたかということを示している場合が多いのであろう。これで点数をつけることは、究極的には学生のそれまでの勉強歴全体を「採点」することではあっても、当該講義の理解度・習熟度だけを適正に計ることになりはしないのではないか?そんな疑念が頭をよぎらなくもない。

そこで、当該講義内で、このような文章表現の繊細さ、そして概念的区別に意識的に目を向けさせたとする。「感情的に言葉を用いる」のと「感情に訴えるように言葉を用いる」のは二つのかなり異なる事態なのだ、と。すると、今度は、この記述は、知識を問う問題になってしまう。要は聞いていたかどうか、知識としてこの区別を習得したかどうかになってしまう。すると、自分で考えて答案を練り上げてくるという、哲学の試験にとって本質的な作業に結びつかなくなってしまわないか。

つまり、講義内で試験対策をしなければ、講義以前の学生の「実力(テスト力)」が計られることになり、試験対策をすれば、講義の目的(自分で考えを練り上げてくること)が破壊されるような気がするのである。

ある講義の中で学生がどれだけ学び、どれだけ努力したかを正当に計るには、私たちはいったい何を測るべきなのか?「計測」しえないものを「計測」するにはどうすればいいのだろうか?