Sunday, March 28, 2010

The show must go on...

的確にステップを踏んでいく。一つ踏み間違えることも許されない状況。わくわくもしないし、びくびくもしない。不思議と穏やかな心境だ。

18日(木):27日シンポ・自分の日本語原稿ひとまず完成。
19日(金):『哲学の権利』上映会+ドゥギー&丸川先生講演会+懇親会。何よりの収穫は西山さん&ドゥギー&丸川先生と(再び)会えたこと、そして福岡の学生たち、東京や大阪から来てくれた人々がいたこと。西山さんや私たちを通じて、若い人たちが繋がっていってくれるのが嬉しい。
20日(土):27日シンポ・モンテベロ原稿の邦訳ひとまず完成。
21日(日):27日シンポ・自分のフランス語原稿半分完成。
22~23日(月):24日シンポ・フランス語原稿(+言い訳のような日本語要旨)ひとまず完成+エラスムスの授業準備。

24日(水)福岡は雨。朝、飛行機に乗り、昼、法政大学到着。東京も雨。エラスムスの一コマ目、お題は「現代的生気論とは何か」。夕方からシモンドン・シンポ@明治大学、よく知り合った仲なので、結構盛り上がる。シンポ後の懇親会も結構盛り上がる。エラスムスの学生を連れて二次会まで。

25日(木)東京は曇り時々雨。メールを片付けて、朝11時から昼1時までエラスムス2コマ目(ヨーロッパ人にフランス語でフランス哲学の授業)。2時の飛行機で福岡へ。4時過ぎに到着、その足で大学へ。事務作業。どしゃ降り。夜、27日シンポ・自分のフランス語原稿を完成。

26日(金)一転からりと晴れわたる。午前中、大学で会議と説明会。午後、フランス人三人を空港へ迎えに行く。心をこめたもてなしはするが、ステレオタイプなものはしない。ここらへんも実はセンスの見せどころ。

27日(土)すっきりと晴れ渡った一日。国際シンポ@九州日仏学館。朝10時から午後6時までの長丁場だったが、常時20~30人くらい(!福岡ですよ、ここは!)の聴衆の方々がいてくださって、非常に心強かった。先週の『哲学への権利』からのリピーターが何人もいてくださったこと、九大の院生たちやはるばる東京から来てくれたという学生、名古屋の方など、私の従来の知己でない方々が駆け付けてくださったことは、何にもまして嬉しい。ポスターはキャッチーだったが、中身は直球勝負。発表はどれも平均以上のクオリティ。議論も白熱した。アンケートでも「大変難しい」が「大変満足」が大半を占めた。私たちの情熱が伝わったということだろうか。懇親会・二次会は若い世代が新たな「出会い」――人と人の出会いだけでなく、哲学する新たな方法との出会いや、今まで見えていなかった自分の限界との出会い――を見つけてくれるためのもの。

28日(日)今日もまた快晴。疲れてはいるが、シンポ後のゲストの観光はお約束。ということで、フランス人三人を連れて、一日ぶらぶら大宰府と九博に行って、天満宮裏の山に登ったり、出店やフリーマーケットをひやかしたり。じわりじわりと疲れが押し寄せて来て、何度もこっくり。フランス人たちもおだやかな(疲れた)感じで、これはこれでよかった。

…まだ実はこれですべて終わりではない。

29日(月)シンポの後処理作業+学生指導。
30日(火)エラスムスの授業準備。
31日(水)~4月1日(木)朝、大学で会合、その後、東京へ。エラスムス3コマ目+4コマ目。終わったら、とんぼ返りで夕方から学部の集い。

Sunday, March 21, 2010

3/24国際シンポ「不均衡システムと個体化―ジルベール・シモンドン(1924-1989)の哲学をめぐって」

明治大学文学部フランス文学専攻主催、明治大学国際連携部;ユーロ・フィロゾフィー後援

不均衡システムと個体化―ジルベール・シモンドン(1924-1989)の哲学をめぐって

日時:2010年3月24日(水)15:00-21:10
場所:明治大学駿河台キャンパスリバティタワー19階119J室

第一部 15:00-16:30

15:00-16:00 合田正人(明治大学):ジルベール・シモンドン入門(日本語)

16:00-16:30 質疑応答

第二部 17:30-21:10(司会 藤田尚志、フランス語、通訳あり)

17:30-18:10 米虫正巳(関西学院大学):自然とその不均衡システム――シモンドン、ドゥルーズと共に自然を考える

18:15-18:55 藤田尚志(九州産業大学):ベルクソンとシモンドンにおける想像力と発明

19:00-19:40 ポール=アントワーヌ・ミケル(ニース大学):個体的なものから生命的なものへ

19:45-20:25 ピエール・モンテベロ(トゥルーズ大学):シモンドンと自然哲学

20:30-21:10 質疑応答ならびに全体討議

参加自由、無料(連絡先 合田正人 mg1957[atmark]kisc.meiji.ac.jp)

Saturday, March 20, 2010

Colloque international "Le système métastable et l'individuation - Autour de la philosophie de Gilbert Simondon"

Colloque international "Le système métastable et l'individuation - Autour de la philosophie de Gilbert Simondon"

Le 24 mars 2007 à la Salle de Conférence(119J), 18e étage de Liberty Tour de l’Université Meiji(Surugadai, Kanda, Yokyo)

Programme
Session1
15:00-16:00 Masato GODA (Université Meiji)
Introduction à la philosophie de Gilbert Simondon
16:00-16:30 Discussion

Pose-café(16:30-17:30)

Session 2 (présidence: Hisashi Fujita)
17:30-18:10 Masami Komemushi (Université Kansei-Gakuin)
La nature et son système métastable. Penser la nature acvec Simondon et Deleuze

18:15-18:55 Hisashi Fujita (Université Kyusyu Sangyo)
Imagination et invention chez Bergson et Simondon

19:00-19:40 Paul-Antoine Miquel(Université Nice)
De l'individuel au vital

19:45-20:25 Pierre Montebello (Université Toulouse)
Simondon et la philosophie de la nature

20:30-21:10 Discussion et Discussion générale

Wednesday, March 17, 2010

リマインド

各種イベントが近付いてまいりましたので、再告知です。

3月19日(金) ドゥギー講演会&『哲学の権利』上映会@福岡・九州日仏学館
http://www.ifj-kyushu.org/jp/event/2010/ev_jp100319164048.html

3月中旬~4月中旬 エラスムス・ムンドゥス
http://hitec.i.hosei.ac.jp/~ERASMUS/about/

関連のシンポジウムが幾つも開かれるのですが(全詳細は上記URLで)、自分の関わっているものとして、

3月24日(水) 国際シンポジウム「不均衡システムと個体化――ジルベール・シモンドン(1924-1989)の哲学をめぐって」@東京・明治大学
http://hitec.i.hosei.ac.jp/~ERASMUS/2010/03/15135000.php

3月27日(金)国際シンポジウム「思考と運動――アリストテレス、ベルクソン、メルロ=ポンティ、ドゥルーズ」@福岡・九州日仏学館
http://www.ifj-kyushu.org/jp/event/2010/ev_jp100327150000.html

Sunday, March 14, 2010

最近の読書

ゴーシェ書評会、学生との勉強会のためにいろいろ読んだ。

その他に、
ベルクソン研究:
Florence Caeymaex, Sartre, Merleau-Ponty, Bergson. Les phénoménologies existentialistes et leur héritage bergsonien, Olms, coll. "Europaea Memoria", 2005.
Gilbert Simondon, Imagination et Invention.
アガンベン「記憶の及ばない像」、『思考の潜勢力――論文と講演』、月曜社、2009年12月、406―418頁。

結婚論:

ゲーテ『親和力』、ワーグナー『タンホイザー』、モーツァルト『フィガロの結婚』

大学論:
自戒を込めて言うのだが、「大学」というものの在り方について、これまでなされてきた研究の蓄積を踏まえることなく、独断的な主観や幼稚な印象批評で議論はできない。私は私なりに、自分の知識・考えの欠落を補う努力をささやかながらしているつもりだし、これからも続けていこうと思っている。

猪木武徳『大学の反省』、NTT出版、2009年。特に、4章「産業社会における人文学」と5章「産業と学問」。

竹内洋『大学という病』(初版2001年)、中公文庫、2007年。


どちらもとても読みやすい。例えば、後者は、戦前の東大経済学部の「慢性派閥病」を「大学版・忠臣蔵」に見立てた社会学的ノンフィクションだが、「昔の大学に私語がなかったわけ」など、なるほどと思わされる説明も多い。

一つ違いを挙げるとすれば、後者が最終的には個人レベルでの自省を促すという視点に収束するのに対し、前者には労働経済学者ならではの政策提言的な指摘が目につくところだろうか。ただし、後者は、言ってみれば「直球勝負の教養必要論、これで打たれたら仕方ない」的なさわやか高校球児的提言。1)教養の必要性、2)私学への公費投入の必要性、3)先生という職業の再確立、とどれも「ご説ごもっとも」だが、果たしてどれくらいの政府関係者・財界人、そして何より世論が実現に向けて動いてくれるだろうか。

金子元久『大学の教育力』、ちくま新書。
天野郁夫『大学の誕生』(上)(下)、中公新書。
前者は無難にまとまっている(アメリカの大学を見倣いましょう的提言)。ただ、誤字・脱字・誤植散見される。
後者は明治初期から大正8年までの大学誕生の歴史のうねりを繊細かつダイナミックに描き出している。

Wednesday, March 10, 2010

誤解

『名ばかり大学生』に関して私が先日書いた読後感をお読みになった方から、「私が自分の大学を貶めている」といった評をいただきました。が、これはとても残念な誤解です。おそらく長いので、前半の「校内暴力」と「援助交際」の部分だけをお読みになり、その後の部分を誤って推測された(あるいは読み飛ばされた)のではないかと推測します。もしかすると、長さゆえのこういった誤解をされた方は他にもあるかもしれませんので、一言お答えしておきます。

後半の冒頭で、私は本書の私立大学観を批判し、こう述べています。
本書の欠点(であるように私に思われるもの)は、大学観の薄さである。特に、「偏差値下位の私立大学」(55頁)は問答無用で切り捨てられているように見えて仕方ない。
そして、こうも述べています。
「偏差値下位大学」では、《とにかく「箱」の維持のみが優先され、その中身はどうでもよい状態になってしまう》(38頁)というのもずいぶんと一般化が過ぎるように思う。我々の大学のように、我々なりに知恵を絞り、己を絞って努力しているところもずいぶんあるだろうに。私の印象では、「校内暴力」や「援助交際」に巻き込まれた少年少女への優しい眼差しと、大学教員への辛辣な眼差しは表裏一体のものである気がする。だが、評論であり、分析である以上、バランスはとってもらいたい。
したがって、お手数ですが、私の雑文(長いですが)をもう一度、特に後半部分だけでもお読みいただけますか。私の言葉に舌足らずな点があったかもしれません。そうであるならば、お詫びをするほかありません。ですが少なくとも、私が決して自分の大学を貶めようなどということだけはしていないことがお分かりいただければ幸いです。

Sunday, March 07, 2010

再校終了

1月に書いた論文の再校を終え(ここでも結構な修正)、仏人研究者の論文の翻訳に取り掛かる。

八木雄二の『天使はなぜ堕落するのか――中世哲学の興亡』(春秋社、2009年12月)をちらちら眺めている。600頁近い大著だが、すでに平凡社新書で発揮していた、読みやすく書く才能をいかんなく発揮しており、「中世哲学入門」講義の観あり(全16章だし、ちょうどいい)。一学期間かける予定の再来年・後期には種本の一つとして使わせていただくかもしれない。

Saturday, March 06, 2010

リプライ

書評会のリプライをひとまず書き上げた。遅いし、長い。

次は一月に仕上げた論文の再校。

三月の国際シンポのフランス人の原稿の翻訳(時間も体力もないのでやりたくないが、頼むお金がない)。

そして、これまでのシンポ原稿の添削。

最後に、三月末の二つのシンポの自分の原稿4本(日・仏二本づつ)。

とかいって、もう三月も第一週を終えたわけですが…。

Thursday, March 04, 2010

河本敏浩『名ばかり大学生――日本型教育制度の終焉』を読む

河本敏浩『名ばかり大学生――日本型教育制度の終焉』(光文社新書、2009年12月)を読んだ。

光文社新書にはもちろん読みごたえのあるものも存在するが、総じて書き方が汚い。読後感があまり後味のよいものでない。この本もその点は例外ではない。

ただし、著者の肩書きが予備校講師・「全国学力研究会理事長」であり、学研で教材開発をしていることもあるのだろう、本書の良さは、中高生に対する眼差しの柔らかさにある。

著者の出身地である愛知県の教育政策に関する激越な批判を含む分析は、1967年生まれの著者の個人的な体験を背景としており、最も読み応えがあった。

《80年代に中学校生活を送った者は、中学一年生の夏を経て、友人が急激に不良化していく姿は、本人の資質だけでなく、何か別の社会的要因があることを十分にうかがわせた。現在、かつて不良化した友人が、ごく普通の中年と化し、社会人として当たり前に働いている姿を見るにつけ、そこに何か独特な磁力が働いていたのではないかという思いを強くする。》(63-64頁)

著者の図式化は明快である。根本的な仮説はこうだ。「進学に関わる不公平な圧力や、環境の激変が子供を襲うと、子供は荒れる」(81頁)。より正確に言えば、

「日本の戦後教育においては、進学競争、学力競争の唐突な変化に見舞われると、その最も激しいインパクトを受ける世代の子供たちが必ず反社会的な行為に走るのだ。[…]大人の側が「競争」の設定を誤り、いきなり競争が激化すると、日本の子供は必ず暴れ出すのだ」(62頁)。

この図式をもとに著者は、中高生関連の二つの大きな社会現象の説明を試みる。80年代の「校内暴力」と、90年代の「援助交際」である。

(1)校内暴力

1970年代前半まで日本の各所に名門商業高校、名門工業高校が存在していたが、1970年から75年の間に大きな地殻変動が起きて、普通科進学熱が高まり、全国の実業系高校の「権威」が失墜した。これにより多孔的な構造――たとえば、中学を優秀な成績で卒業し、工業高校に進み、よい成績を修め、終身雇用の製造業の企業に入社するというライフコース――が選択肢を狭められ、「試験の成績が優秀だから普通科、そうでなければ工業か商業」という一つの物差しによる評価が確立する。

普通科高校への進学率が高まると、競争が激化し、当の普通科高校の格付けが微細化する。いわゆる「偏差値」は、この序列の細分化を背景に社会に浸透したのであり、競争の激化に対する社会的な防御反応として学校の外側に現われたのが「塾」である。そして、「偏差値」からも「塾」からも取り残されるという経験に初めて遭遇した世代の成績下位層において、「校内暴力」が劇的な形で噴出したのである。

(2)援助交際

1990年代前半まで日本には多くの短大が存在していたが、女性の社会進出が叫ばれ、女子も進学先を四年制大学にシフトした結果、女子の短大進学意欲が急降下し、定員割れが続出した。これにより多孔的な構造――「短大というのは女子にとって格好の緩衝地帯で、勉強ができる/できない、という単純な区分が通用しない不思議な場だった」(86頁)――が選択肢を狭められ、「試験の成績が優秀だから四大、そうでなければ短大」という一つの物差しに よる評価が確立する。

大学進学を目指す女子高生は、突然、偏差値ランキング表の世界、つまり男子と同じ受験競争の世界に放り込まれたのである。まさにルールの変更である。このとき、偏差値戦争の最も強烈なストレスをもろに、そしてはじめて食らったのが、私立女子高に通う高偏差値の子といっても、「伝統名門校」に通う女子ではなく、短大という逃げ場をなくした「リニューアルして商業科を廃止した新興名門校の進学科」であった。

間違えないようにしよう。十代の少女の売春なら昔から存在した。2010年現在行われているのも「単なる売春」にすぎない。「援助交際」と呼べるのは、「まさに第一期(1993~1995年)だけ、限定された時期に属した女子だけの「荒れ」」なのである。

《「援助交際」の特異さは、自分が将来は大学に行き、普通に就職するだろうと考えている高校生がいっせいに自らを「売った」ところにある。単なる売春とは異なる独特の感覚が、この1990年代の女子高生の「荒れ」にはあった。[…]近年の女子高生は、すでに自らが大学偏差値ランキング表に組み込まれる存在だということを幼い頃から自覚している。彼女たちは、上手くいくかどうかは別として、援助交際世代の女子とは異なり、「学歴」に対してある一定の覚悟を有しているのである。

逆に「援助交際」世代の女子高生は、心の準備がなされていない段階で、急激に高まった四年制共学大学への進学圧力に襲われた。[…]「援助交際」は、この短大の威信低下の時期に現われた特異な現象と言えるものだった。》(88-89頁)

「援助交際」は、《「団塊世代の親の規範の緩さ」にでもなく、「近代化の歪み」にでもなく、進学と学力形成の中で生じた、典型的な「子供の荒れ」と考えるべきである》(87-88頁)という宮台真司批判はなかなか説得力があるように思うが、どうだろうか。



他方で、本書の欠点(であるように私に思われるもの)は、大学観の薄さである。特に、「偏差値下位の私立大学」(55頁)は問答無用で切り捨てられているように見えて仕方ない。

《大学の教員には高校批判、中学校批判、小学校批判、家庭批判は許されない。そもそも何人中何番までが合格と定める試験を続けているのは当の大学である。こういった試験の下で定員を維持、あるいは拡充すれば、自らの教え子たる大学生のレベルは下がって当然である。大学の教員がため息まじりに嘆く、目の前の大学生の基礎学力の欠如については、少なくとも自業自得という他ない。》(36頁)

なるほど。では、企業のトップだけでなく、新人研修や人事の担当者だけでもなく、およそ会社員であるかぎり(その会社の在り方に原理的には介入できるはずだから)、新人社員の質の低さを嘆くことは許されない、ということになる。一見弱者(実はマジョリティ)の側に立つこの手の議論は、大向こう受けはするだろうが、他人の「愚痴」を無暗に咎める類のものだ。

また、「偏差値下位大学」では、《とにかく「箱」の維持のみが優先され、その中身はどうでもよい状態になってしまう》(38頁)というのもずいぶんと一般化が過ぎるように思う。我々の大学のように、我々なりに知恵を絞り、己を絞って努力しているところもずいぶんあるだろうに。私の印象では、「校内暴力」や「援助交際」に巻き込まれた少年少女への優しい眼差しと、大学教員への辛辣な眼差しは表裏一体のものである気がする。だが、評論であり、分析である以上、バランスはとってもらいたい。

「子供に対する罵倒や文句は耳目を集めるが、子供を思う地道な活動は、人知れず取り組まれている。私たちが見ようとしていないところに、可能性は宿っているものである」(192頁)。

この河本氏自身の言葉を借りて、こう言い返させてもらおう。

「大学(特に「偏差値下位の私立大学」)に対する罵倒や文句は耳目を集めるが、学生を思う地道な活動は、人知れず取り組まれている。私たちが見ようとしていないところに、可能性は宿っているものである」と。

間違った情報が右から左に流通しても、本が売れればそれでよいというセンセーショナリズムに則った書き方は、自分の批判している当の対象――勉強しないまま入学し卒業していく「名ばかり大学生」の「偏差値下位の私立大学」による縮小再生産――に驚くほどよく似ている。

Wednesday, March 03, 2010

「思考と運動」ポスター

 
©伴野亜希子(ばんのあきこ)

昨日HP上ではどうもうまく表示できていなかったようで(Googleの添付ファイル表示機能との相性の問題らしいですが)、目のないホラーチックな表示になっておりました。すみません。yhさんの寛大なご協力をいただき、ようやくここまでこぎつけました。メカ音痴は悲しい…。

Tuesday, March 02, 2010

3/27国際シンポジウム「思考と運動――アリストテレス、ベルクソン、メルロ=ポンティ、ドゥルーズ」@九州日仏学館

伴野亜希子(ばんのあきこ)氏による、実にポップなポスターをどうぞ

九州でフランス哲学を展開していくにはこれくらいしないと、と私たち三人はポスターに出来栄えに至極満足しています。あとは、もちろん内容が満足いくものであるかどうか。それは当日、ご来場の皆さまにご判断いただくしかありません。ぜひお誘い合わせのうえ、会場まで足をお運びくださいますよう、よろしくお願い申し上げます。

***

国際シンポジウム「思考と運動――アリストテレス、ベルクソン、メルロ=ポンティ、ドゥルーズ」

福岡でフランス哲学を!PFF (Philosophie Française à Fukuoka)
第一回国際シンポジウム
2010年3月27日(土)、九州日仏学館(福岡・赤坂)・5F多目的ホール

プログラム

セッション1――運動と知覚 (司会:藤田尚志)
10:00-10:30 ピエール・ロドリゴ(仏・ブルゴーニュ大学)
 アリストテレスとメルロ=ポンティにおける知覚・身体・肉
10:30-11:00 平井靖史(福岡大学)
 ブラインドサイトをベルクソン的に解釈する――運動の相のもとに見られた知覚、剥離か非決定か
11:00-12:00 討議

休憩(12 :00-14 :00)

セッション2――運動とシステム (司会:平井靖史)
14:00-14:30 ポール=アントワーヌ・ミケル(ニース大学)
 ベルクソン哲学におけるアリストテレス的カテゴリー(現勢態と潜勢態)の顛倒
14:30-15:00 永野拓也(熊本高等専門学校)
 数学的構成の内省的基礎――ブラウアーの直観主義とベルクソン
15:00-15:40 討議

休憩(15 :40-16 :00)

セッション3――運動とイマージュ (司会:永野拓也)
16:00-16:30 ピエール・モンテベロ(トゥールーズ大学)
 ドゥルーズにおける思考・イマージュ・信じること
16:30-17:00 藤田尚志(九州産業大学)
 デジャヴをめぐって:偽なるものの力と記憶の無為――ドゥルーズか、ベルクソンかIII
17:00-18:00 討議および全体討議

懇親会(18 :30-20 :30) ※どなたでもご参加いただけます(要参加費)。

Monday, March 01, 2010

Colloque international : La pensée et le mouvant – Aristote, Bergson, Merleau-Ponty, Deleuze (27 mars 2010)

La pensée et le mouvant – Aristote, Bergson, Merleau-Ponty, Deleuze

Le premier colloque de la PFF (Philosophie Française à Fukuoka)

Le 27 mars 2010 à la Salle de Conférence, 5e étage
de l’Institut Franco-Japonaise du Kyushu (Fukuoka)

Programme

Session 1 : Le mouvement et la perception (présidence : Hisashi Fujita)
10:00-10:30 Pierre Rodrigo (Université Bourgogne)
Perception, corps, chair chez Aristote et Merleau-Ponty
10:30-11:00 Yasushi Hirai (Université Fukuoka)
Interprétation bergsonienne de la vision aveugle :
Perception motrice, dissociation ou indétermination ?
11:00-12:00 Discussion
Pose-déjouner (12 :00-14 :00)

Session 2 : Le mouvement et le système (présidence : Yasushi Hirai)
14:00-14:30 Paul-Antoine Miquel (Université Nice)
L'inversion des catégories aristotéliciennes d'acte et de puissance
dans la pensée de Bergson
14:30-15:00 Takuya Nagano (Kumamoto National College of Technology)
Le fondement réflexif de la construction mathématique :
Bergson et l’intuitionisme de Brouwer
15:00-15:40 Discussion
Pose-café (15 :40-16 :00)

Session 3 : Le mouvement et l’image (présidence : Takuya Nagano)
16:00-16:30 Pierre Montebello (Université Toulouse)
Pensée, image, croyance chez Deleuze
16:30-17:00 Hisashi Fujita (Université Kyushu Sangyo)
Autour du déjà-vu : la puissance du faux et le désœuvrement de la mémoire
Deleuze ou Bergson III
17:00-18:00 Discussion et Discussion générale

Closing party (18 :30-20 :30)