Saturday, October 31, 2009

続く。

ようやく、予定されていたイベントのすべてが終わった。若いさわやかな人たちとの付き合いはいつも楽しい。

しかし仕事はまだまだ続く(まあすぐに大学の仕事に引き戻されるんだけどね)。今日も一つ、岩波の校正を終えたばかり。

1)校正の仕事あと二つ。

2)大学紀要次号の校正がいきなり。なんでこんなに早いの。でも、可能なかぎり直したい。いつまでも、どんな評価に対しても、そこから何かを汲み取る努力を続けたい。

3)11月21日の「ネオジャクソニスム研究会」にお誘いいただいたので、おそらく参加する予定。

4)12月中に、すでに書いたベルクソン/ソレル論文をバージョンアップしつつ英訳。

5)1月までに今回のエリーとのデジャブ・セッションで行なった発表を論文化。

6)来年3月のパリ・シンポのための発表原稿準備。

7)同時期にCIEPFCで、ドゥルーズとグールドについて発表をさせてもらうつもり。

8)同時期にトゥールーズ大学で、ベルクソンについて発表させてもらおうかな。

9)デリダ大学論の翻訳のお手伝い。

Thursday, October 29, 2009

阪大でのワークショップ

昨日は、エリーと私がデジャヴ現象についてのベルクソンとドゥルーズの解釈から出発して、絡み合うセッションを展開。分かる人には非常にスリリングな概念的な探究だったはず。聴衆は少なかったけれど、駒場や本郷の優秀な若手研究者が来てくれたのは嬉しい収穫。中身はこんな感じ。

1)鈴木さんによるDの潜在性概念の要約・整理・幾つかの疑問の提示

2)エリーによるデジャヴの病理学的研究史概観(特にジャネ)、およびBがその中で占める戦略的な位置、彼の解釈のポイント。

3)私のBデジャヴ解釈とメルロの幻影肢解釈の比較

4)エリーによるDのデジャヴ解釈のポイント。ランシエール、バディウによるD潜在性概念の批判

これらの発表は、議論の大筋も含めて、『死生学研究』の特集として収録されるはずなので、お楽しみに。



明日は最後のイヴェント。ベルクソン物理学研究の精鋭・三宅岳史さんが「哲学者の時間は存在するのか」について、現時点での研究の到達点を示し、エリー・デューリングが「現代美術における空間の使い方」のほうへと話を発展させる。一見関係のない話を、司会の檜垣立哉さんがどう絡ませていくのかはお越しいただければ分かります。関西方面の皆様、14時から阪大人間科学部です。ぜひお越し下さい

Monday, October 26, 2009

関連イベント情報

エリー・デューリングの甘いマスクと議論の鮮やかな手さばきに魅了された方は、

28日の東大でのエリーと鈴木泉さんと私のセッション(デジャヴをめぐって)

30日の阪大でのエリーと三宅さんのセッション(現代物理から現代芸術へ)

にぜひ足をお運びください。損はさせません。

詳細は法政ベルクソンHPで。ポスターPDFをクリックしてください。

シンポ無事終了!

昨日、無事にシンポジウムが終了しました。連日、90人以上の方々が来てくださり、おかげさまで、ポール=アントワーヌ・ミケルも懇親会でのスピーチで述べていたように、

「日曜日、午前、雨という三つの悪条件の中、マニアックなフランス哲学の話を聞きに駆けつけてくれた大勢の人に囲まれていると、議論にも自然に熱が入る」

のも自然なことでした。会の成功は、これはエリー・デューリングがやはり懇親会のスピーチで述べていたことですが、

「オーガナイザーや発表者、聴衆にかかっているのはもちろんですが、フランス語でpetits mains(小さな手たち)と言われる人たち、つまり会場運営や大量の資料作成や送迎に携わってくれたこんなにも多くの人々の存在抜きには語れないことですね」

と如実に感じられました。最終日はとりわけ、ヴィデオ・コンフェランスがあり、どうなることかとひやひやしましたが、むしろちょっとしたサスペンス、ほどよく肩の力の抜けた緊張感があって、ジョン・マラーキーのスリリングかつどことなくユーモアのある発表と相まって、これも上々の仕上がりでした。

もちろんすべてに満足しているわけではありません。まず第一に、私自身の発表には自分自身、忸怩たるものがあります。大学の仕事をそつなくこなしながら、完璧なオーガナイズをして、そしてかつ優れた発表をする、というのが目標だったのですが、今回はそのいずれもボロボロでした。中身ももちろんですが、何より、人にはさんざん「長い発表など論外」と言っておきながら、自分がかなり長くしゃべってしまい、相当落ち込んでいます。私は相変わらず長く発表してしまう人を評価しないし、今後は自分が絶対にやらないようにしないといけない、と強く思いました。

また、オーガナイザーとして言えば、やり残したことも多々あります。私の一存ではどうにもならなかったことも、私の意図がうまく伝わらず、結果として実現できなかったことなど、数え上げればきりがありません。そのことについては思うところが多々ありもします。

でも、そうやってでも、自分が正しいと思う方向に、日本のフランス哲学研究が向かっていくことに少しでも尽力できればと思う。もちろん、自分の拙い研究の向上・発展にも日々努力しつつ。とりわけ、シンポの成果を「形」にしていくこと、つまり何らかの形で論文集を出すだけでなく、そこで行なわれた発表、質疑応答の中で示唆された事柄を次の研究課題と して追究していくことも忘れてはならないと思っています。徐々に落ち着いてきたら、この三年間のすべての原稿を読み返し、そこから自分なりに何が引き出せるか、考えてみるつもりです。

今後も、さまざまな形でこの種のイベントに携わっていければと思っています。これで三年間の長きにわたる国際プロジェクトは一応の完結を見たわけですけれども、まさにシンポの仏語タイトル(Tout ouvert=開かれた全体/まったき開け)のように、また次への一歩を踏み出せればと思っています。すでに次の小さな無数のプロジェクトが動き出しているようです。

関わってくださったすべての方々に篤くお礼を申し上げるとともに、

今後ともご支援・ご協力のほどをよろしくお願い申し上げます。

Tuesday, October 20, 2009

シンポ近づく

フランス大使館UTCP、友人たちの掲示板などで宣伝していただいていますが、あと3日で始まります。

前にチームで動くことの重要性を書きましたが、すべての人に過不足なく情報を行きわたらせるというのは本当に難しい。きちんと分業体制を敷いても、必ず境界線上の事例が出てくる。あるいは誰かの(例えば私の)ケアレスミスで、他の誰かに支障が出る。そのリカバリーに努める。そんなことの連続です。水道工事屋かビルのメンテナンス係になった気がします。

例えば、今回は英国とつなぐヴィデオ・コンフェランスなどもあり、慣れている人々には何でもないんでしょうが、準備というか、関係者全部のコーディネーションはけっこう大変でした(です)。双方の大学のヴィデオ・チームがこの種の国際行事をやり慣れていれば問題はないのでしょうが。まあ、こういった一つ一つは大したことのないプロセスの積み重ねが短期間に一挙に押し寄せてくると、けっこうな仕事量になります。大学で働いている人はみな同じようなものでしょうけれど。

そんなこんなですが、中身としてはいいものになっていると思います。ベルクソンだけでなく、フランス哲学の生き生きとした一面を実感したいという方はぜひ会場にお越しください。

Saturday, October 17, 2009

マシュレ『カンギレムからフーコーへ。規範の力』(2009年)

マシュレが新刊を送ってくれた。『カンギレムからフーコーへ。規範の力』(2009年)である。

De Canguilhem à Foucault. La force des normes, éd. La fabrique, 2009.

彼が一番最初に書いた論文は、カンギレム論だった。以来、四十年以上、地味な読解作業を続けてきた人だ。哲学のテクストを「読む」ということを私が学んだのはこの人からだった。「倦まず弛まず」ということを身をもって教えてくれたのもこの人だった。

地味だが、アカデミシャンではない。きらびやかな読解もいいし、渋い訓詁学もいいが、しかし、人々はどうしてこの両者の間には実に広大な空間が広がっていることに気づかないのだろうか。どうしてああも簡単にどちらかに「イカれる」のだろうか。そしてとりわけ、どうして自分なりの「思考のスタイル」――un style de penséeは本書に収められたある論文のタイトルである――を産み出そうと努めないのだろうか。

本書は、1963年の処女論文から1993年までに書かれた5篇のカンギレム・フーコー論を収めたものである。この本を訳すのは私の仕事ではないが、私は彼の処女作『文学生産の理論のために』をいつか訳すだろう。



病院に行ってきた。ここ数カ月胸が苦しく、ここ数日ぜんそくがひどかったから。



ひとつずつ小さいものを乗り越える。

小さい他人を乗り越えるのではない。小さい考えを乗り越える。

大きな流れに身を委ねるために。

Saturday, October 10, 2009

お仕事

・シンポ詳細が更新され、レジュメが公開されております。ご覧ください。これらはこれからも随時アップデートされていきますので、来場を予定されている方は、法政ベルクソンHPのチェックをお願い致します。

・岩波の『思想』12月号がベルクソン生誕150周年記念の特集号になります。合田・金森・檜垣の三先生の対談をはじめ、最新の研究事情紹介など、ベルクソン研究の現在の活況を知ることができます。ぜひお買い求めください。

・数奇な運命(実に奇妙な…)を辿った私の論文も、ようやく公開されました。よろしければ、大学図書館などでご一読ください。

仕事の大半は苦しいだけで何の見返りもないものだが、ときどき嬉しいことがある。
学生が授業を面白いと感じてくれたとき、誰かが自分の仕事を見てくれているとき。
面白い仕事だけが、つまらない仕事の疲れをいやすことができる。

Thursday, October 08, 2009

石の上にも…

大規模でありながら、細やかな神経の行き届いたシンポというのを実現させようと思うと、チームとしての分業体制が整っていないとできない。

正直言って、我々が三年かけて築き上げてきた体制は、もちろんさまざまな瑕疵はあるだろうけれども、世界屈指であると思う。

オーガナイザーの仕事はもちろんけっこうきつい(冗談抜きに…)。しかしそれは措こう。翻訳チーム、通訳チーム、会場整理・コピー・送迎チーム、皆さんそれぞれ本当によくやってくださっている。

例えば、翻訳チームだ。皆さんが会場で何げなく手に取る「海外研究者の発表原稿の翻訳」は、質向上のために、ダブルチェックをかけてくれている。複数人数で互いの翻訳をチェックするのである。

この行程が願わくば、若手研究者にとって(塾のバイトなどよりは)研究に密着したアルバイトであり、かつ多少の研鑽の場として機能してくれると本当に嬉しいと思う。上の世代の「責任」は、研究内容において果されると同時に、まさに「場」をつくりだす――そのための予算を獲得する――という制度的な創造性においても果たされるべきである。



フランス人たちは、一般にシンポを互いの社交の場として考えており、彼らには往々にして、シンポを聴きに来る人たちへの配慮が欠けている。レジュメを一切配らない、とかね。

私はフランス人の同世代の友人たち――上の世代は残念ながら出来上がってしまっていて通じない――に口を酸っぱくして言う、「社交じゃないシンポ、研究の場として機能するシンポをつくらないとダメなんだ」と。一般聴衆に開かれると同時に、研究としても質の高いシンポはいかにして可能か。

そのためには、老・壮・青のどの層が欠けても駄目だ。小さな自我を捨てて、国際的な研究の場をつくりだすこと。それもまた、哲学の一部であるはずだと信じている。とりわけ現在の日本の哲学研究においては、それを強く言うべきだとも。

Saturday, October 03, 2009

ようやく…

ベルクソン・シンポ2009の詳細について、法政ベルクソンHPが更新されました。ぜひご覧ください。

ただ、最後の調整が行なわれており、プログラムの順序など、若干の変更が生じるかもしれません。変更については当該HPで告知致しますので、ご来場の際には必ずご確認のほどをよろしくお願い致します。

苦労した甲斐あって、素晴らしいメンバー、素晴らしい内容のシンポになると思います。フランス語と英語での発表ですが、ペーパーには日本語の翻訳があり、議論には優れた通訳の方々が付き添ってくださいます。多くの方のご来場をお待ちしております。