Thursday, July 30, 2009

イタリア語

目下最大の懸案事項はmさんの書評を書くことなのだが…

そして事実それに最大限の力を注ごうとしているのだが…

今秋のシンポの準備が重くのしかかっている。今日も日本語、フランス語、英語で、何通メールを書いたことか。プロヴァンスの太陽を満喫しているらしいedからは、「自分の勉強する時間取れてる?」と心配そうなメールが来た。さらに…

rrからイタリア語のメールが来た。まあ、たしかに「今あなたの本をイタリア語で読んでます」とは言ったが…

時間がないのに、デリケートな事態なので、辞書を引きつつメールを読む。

というわけで書評、もうしばしのご猶予を…

Tuesday, July 28, 2009

prepare

学問も同じ。日頃からのprepareが大切。

「prepare」を大切にするのは好打者の共通点?

 マウアーと会話していて気づいたことがある。それは「prepare(準 備をする)」という単語をよく使うことだ。「僕はまだメジャー6年目。シーズンや試合に向けた準備の仕方をもっと学びたい。それが何より大事だと思うん だ」。準備を人一倍大切にしているのはイチローも同じこと。次の機会には、試合前のルーティンからマウアーをじっくり観察して、好打者の共通点を見出して みたい。

***

■腎臓手術で4月は全休

 その柔和な表情を見ていると、史上最強捕手というイメージは全くわいてこないし、クラブハウスでの立ち居振る舞いも控えめで、26歳という若さで 首位打者を2度も獲得したスーパースターとは思えない。気のいい隣のお兄さんというのが率直な印象だ。ジョー・マウアー(ツインズ)はしかし、静かに熱 く、イチローとの一騎打ちの様相を呈してきたバットマンレースを制して、捕手として史上初の3度目の頂点を目指す――。

 おそらく最後の最後までしのぎを削ることになる2人は、偶然にも今季の開幕に出遅れた。イチローが胃潰瘍(かいよう)を患ったのに対し、マウアーは腎臓手術で4月の試合をすべて欠場した。

「ベッドから起き上がれないほど痛かったこともあった。以前から腎臓の具合がよくなかったので思い切って手術した。おかげで長年の痛みから開放されたよ」 と、ソフトな口調で微笑さえ浮かべて語る。そんな病気を抱えながらセンセーショナルな活躍を続けてきたとは、驚きというほかない。

 5月に戦列に加わると、いきなり打棒爆発。得意の広角打法で打ちまくり、一時は4割打者誕生か、という気の早い報道もあった。しかし、それよりも何より も驚かせたのは本塁打の量産だった。わずか2カ月ほどで自己最多の13本を更新し、7月27日(日本時間)現在で17ホーマーをマークしている。

「パワーアップの秘訣? そんなものはないよ。経験を積んできたことが実を結んできたのだと思う」と、いたって謙虚だ。

■地元ミネソタで生まれ育ったスーパースター

 (…)運動能力は並外れて高く、リトルリーグでは投手を始め、あらゆるポジションをこなした。捕手に落ち着いたのは中学のとき。高校時代にはアメリカンフットボールのクォーターバックとして大活躍、オールアメリカンにも選ばれ、ミネソタでは最も知られた高校生だったという。

「ジョーのすごいところは、10代からスターだったのに、そういうそぶりが全くないところだ。地元出身で期待もプレッシャーも高いのに、最初から動じるこ ともなく、プレーに集中している。試合に臨む姿勢、練習態度、研究熱心さ、どれをとっても素晴らしい。どこまで進化していくのか。本当に楽しみな選手だ」 と、ツインズのロン・ガーデンハイヤー監督は褒めちぎる。

Sunday, July 26, 2009

雨のち雨

土曜日。雨模様の福岡を傘をさして出発。朝9時の飛行機で東京へ。着くと快晴…。折り畳みにしてくればよかった。

午後ずっと今秋のシンポのための打ち合わせ。

毎回、海外の研究者を招聘する際には、その人たちの仕事を日本の研究者に読んでもらい、報告していただくという会合をやっているのだが、今回がまさにそれであった。

日本でも世界でもほとんどのシンポは打ち上げ花火、一部の大物の話以外まともに聞いていないという状況だが、それではダメだと以前から強く感じていたので、このような「読み合わせシステム」を導入したのである。

ちまちましているし、「大物」の先生方はなかなか分担を引き受けてくれないのだが、私はこういう地味な仕事はとても大切だと思っている。制度を変えていくのは、抽象的な理論だけではなく、こういう地味で地道な作業の継続でもある、と信じている。

6時に会合を終え、飲み会に…と行きたいところだったが、ビールを一気に飲み干し、羽田へ急ぐ。翌朝9時半からオープンキャンパスがある。福岡に帰ってくると、また雨。



翌朝も雨。早朝、家から駅に着くまでに、横殴りの雨でびっしょり。ベルを鳴らすのを忘れて、バス停を一つ乗り過ごしてしまう。大雨の中で…。大学につくまでに、再びぐっしょり。

オープンキャンパスは、雨にもかかわらず盛況だった。一年目の新人に「研究室紹介」で何を話せというのかと思っていたが、みんなこのような機会に少しずつ大学のことを自分で学んで(学ばされて)いくのだなと実感。おかげで勉強になりました。

最寄駅に着くとまた雨。家に帰ると今年呼ぶedからメール。「プロヴァンスの太陽が勉強させてくれないよ」って…。

明日は1限から試験監督。

Friday, July 24, 2009

大雨

ベルクソン研究のごくごく一部をやりつつ、来週の書評執筆の準備作業をしつつ、再来週のテスト採点の準備作業をしている。他にも公私、大事小事がさざ波のように押し寄せる。

そういえば、今日はとてつもない大雨で、全身びしょ濡れで帰宅した。福岡にいるんだなとあらためて実感。

Tuesday, July 21, 2009

夏休み

などあるはずもなく、仕事漬けの日々が始まる。

今週は、今秋のシンポの準備会合があり、そのための資料を作成せねばならない。
というわけで、辞書と首っ引きでイタリア語の本を読んでいる。これはこれで楽しい。

来週は、とある書評を書く。常々敬意を表している方の本だけに力を入れたいのだが、自分がそもそもどれくらいの「力」を持っているのか、今どれくらいの力を発揮できるのかも、もはや分からなくなってしまった。時間もないし、不安だ。

再来週は、仏語アクトの校正&テスト採点週間。苦痛である。

その次は後期の授業準備、と同時に、とある雑誌の論文&紹介文、シンポ原稿、英語論集のための論文…。楽しいのか、不安なのか、苦痛なのか、それら全部なのか。

いつ、どれくらい自分の「本」に取り掛かれるのか…。

Sunday, July 19, 2009

トマス・アクィナス関係読書リスト

前期の哲学史が終わった。古代も中世も、もう一つ突っ込めず不満が残った。もちろんそれぞれの専門家にかなうはずもないのだが、やるからにはもう少し深めたい。来年からこうしよう。

1年目前期:古代、後期:中世
2年目前期:近世・近代、後期:現代
3年目前期:現代、後期:近世・近代
4年目前期:中世、後期:古代



最後二回は、スコラ哲学の面白さをどう表現しようかと一思案。平凡だが、ゴシック建築との並行性を前フリに。

エルヴィン・パノフスキー『ゴシック建築とスコラ学』(前川道郎訳、原初1951年)、ちくま学芸文庫、2001年。
割注が読みすぎて読みにくい。この手の博学本によくありがちな悩み。

馬杉宗夫『大聖堂のコスモロジー――中世の聖なる空間を読む』、講談社学術文庫、1992年。

建築の部分については分かりやすく詳しい。ただ、肝心のスコラ学との並行性の部分はイマイチ。

酒井健『ゴシックとは何か――大聖堂の精神史』、講談社現代新書、2000年。

パノフスキーやマールらの「スコラ学のゴシック建築への影響」説を否定し、並行説を主張。まあそれが妥当でしょうね。

西田雅嗣(まさつぐ)編『ヨーロッパ建築史』、昭和堂、1998年。
スコラ学についての言及はまったくないが、ロマネスクとの対比でゴシックの特徴を分かりやすく説明してくれている。ただ、建築専門チームなのだから、もう少し見やすい図版の収集ないし作成に努力してほしい。図版にセコハンが多く、見づらい。


*中世哲学一般(アウグスティヌスの項に追加)

Alain de Libéra, La Philosophie médiévale, PUF, coll. "Que sais-je?", 1989. 大著の『中世哲学史』の簡略版。

ジャック・ルゴフ『中世の知識人――アベラールからエラスムスへ』、岩波新書、1977年。ある時期までの岩波新書には「こんな素晴らしい翻訳書が新書で!」というのが幾つかあった。その好例。

J.B.モラル『中世の政治思想』(柴田平三郎訳)、平凡社ライブラリー、2002年。

ジルソン『中世哲学の精神』、既出。
Gilson, Introduction à la philosophie chrétienne...
Gilson, L'Être et l'essence (1948), Vrin, 2e éd. revue et augmentée, 1981.手元に持っているのはこの第二版なのだが、第三版(1984年)が最終らしい。大きな変更があるのだろうか…。

山本耕平「スコラ哲学の意味」、『新岩波講座』、既出、292-319頁。ごく基本的な概説。

*トマス

Jean-Pierre Torrell O.P., Initiation à saint Thomas d'Aquin. Sa personne et son oeuvre (1993), 2e éd. revue et augmentée d'une mise à jour critique et bibliographique, 2002. 後述の日本のトマス研究の大家である稲垣氏の著書でも、「この二十年の間」で「トマスの人と思想の全般を取り扱った著作として特に注目に値する」ものとして挙げられているが、私はこの著作を畏友CdMから勧められて、フランス滞在中に購入しておいたのだった。ただし、かなりの大著なので、「90分でトマスを」という人には向かない。

Thomas d'Aquin, Commentaire du traité De l'âme d'Aristote, introduction, traduction et notes par Jean-Marie Vernier, Vrin, coll. "Bibliothèque des textes philosophiques", 1999.

ジルソン/べーナー『アウグスティヌスとトマス・アクィナス』、既出。

水田英実(ひでみ)・藤本温(つもる)・加藤和哉「トマス・アクィナス」、中公新社『哲学の歴史』第三巻、既出、429-531頁。

クラウス・リーゼンフーバー『中世思想史』(村井則夫訳)、平凡社ライブラリー、2003年。前著『西洋古代・中世哲学史』(平凡社ライブラリー、2000年)よりいいが、宗教的観点があまりに勝ちすぎており、おまけにジルソンのようにある程度の哲学的な冴えもないとなると厳しい。解毒剤としてラッセルを併読することは必須。ただ、そのようなものとして読むなら、勉強にはなる。

フェルナンド・ファン・ステンベルゲン『トマス哲学入門』(原書1983年 稲垣良典ほか訳)、文庫クセジュ、1990年。私にとっては悪いクセジュの典型。

稲垣良典(りょうすけ)『トマス・アクィナス』、講談社学術文庫、1999年。

Saturday, July 18, 2009

約束は真面目ではない?

今年の結婚論講義は、毎回、

1)重要な思想家を一つのイメージで印象付け、
2)その思想家の生きた時代と生涯を、彼の思想と関連づける形で簡単に紹介し、
3)その思想家の基本的な思想を概説し、
4)結婚論がその思想体系に占める位置や意義、ならびにその結婚論の概説

という形で進行したので、結婚論自体としては、それほど深い次元までは行けなかった。これはジレンマで、結婚論講義としてはもちろん4が最重要なのだが、2や3の基本的な知識が前提としてないと、インパクトも薄れてしまう。そこで、2や3に時間をかけた結果、4がいつも駆け足になるのである。

来年度は、思い切って4を前面に押し出してみることにしようか。「ヘーゲルって結婚の思想家だと思ってた」と学生に言われることを恐れないならば、の話だが…。



結婚論の最後二回は、ドゥルーズ=ガタリとデリダ。来年あたり仏文学会で「結婚の形而上学とその脱構築(デリダの場合)」に関する発表をしてみようかな。

前にも書いたが、結婚論の重要な論題の一つに「誓い」や「約束」の問題がある。それは結婚の哲学が時間の哲学でもあるからだ。というのも、「誓い」や「約束」の問題とは「不可逆性」の問題だからである。東さんは『絵葉書』を情報伝達経路、コミュニケーションの話として読み解いたが、私はこの観点から読み解けるという直観を持っている。

《オックスフォードのよきスコラ哲学に従えば、約束は約束することしかできない。到達すること、自分の約束を果たすに至ることを約束することは決してない。可能なら約束を果たすに至るよう全力を尽くすことを約束するだけだ。

人は到達することを約束するのではない。到達する意図があること、到達するために自分の能力のすべてを傾注することを約束するのだ。もしそれが私の能力のうちにないために、また私のうちの、あるいは私の外のあれやこれ、あれこれの人が私の到達を妨げてしまったために、私が到達するに至らないとしても、私は自分の約束に背いたわけではない。私は相変わらず到達を望んでいる。だが、私は到達するには至らないのだ。

私は一貫して自分の約束=契約に忠実であろうとしてきた。君はこう言うだろう、そんなのはおよそ真面目な話とはほど遠い、オックスフォードの人間は不真面目だ、そういう「私のうちの、あるいは私の外の」とかいうのは恐ろしく曖昧か偽善的だ、可能とか意図などという観念は失笑を誘うだけだ。あなたは自分がその一語たりとても信頼を置いていない言説から論拠を引き出している、と(いや、いや、信頼している――他でもない真面目さの名において、オックスフォードの人々は話しているのだ[…])。

それに約束、誓約は真面目さに属するのだろうか、それは真面目なのだろうか、言ってごらん? それは真面目さより、はるかに深刻で危険で、はるかに軽く、より多くのものからなっている。だが真面目ではない。》(デリダ『絵葉書』)

Friday, July 17, 2009

てはつたえる→てつだえる

来週で前期が終わる。授業もあと一つ二つで終わる。

講義のほうはほぼ出来る限りのことをした。どこの大学でやっても恥ずかしくないレベルのものをやっていると思う。難しいことを可能なかぎり簡単に、しかし分かりやすさのために細部を犠牲にしない、というチャレンジ。アンケート結果が出てみないと学生の満足度は分からないが。

ゼミのほうは反省点がいろいろある。特に学生との距離。他学部の先生に伺うと、1年生ゼミでは、

・前期で少なくとも二回は、「レクリエーション」と称して、土曜日などに、近くのレクリエーション施設に学生を連れていき、ドッジボールやミニサッカーを一緒にやる。そうすると、学生たちとの連帯感のようなものが生まれ、結果としてゼミへの溶け込み具合が違ってくるのだそうだ。学生に幹事をやらせることで、責任感が生まれたり、「リーダー格」の学生の発見にもつながる、と。

・最終回には、お菓子やジュースを買っていって、みんなで「打ち上げ」をするのだそうだ。これも上と同趣旨の試み。学生と親しくコミュニケーションをとる中で、欠席学生の身辺にそれとなく探りを入れることもできる。

こういうことを書くと、「嘆かわしい」「馬鹿馬鹿しい」「そんなことは大学でやるべきことか」とおっしゃる先生方の顔も浮かぶのであるが、現実は現実として受け止めなければならない。学生たちを少しずつ「大学生らしく」変えていくためには、私たちのほうも少しずつ現実に合わせて変わっていく必要がある、ということだろう。

デリダの次のような言葉に完全に共感しつつ、でもそれだけでも駄目だとも感じている。

《例えば、言い回しの難解さを、襞を、パラドックスを、追補的矛盾をあきらめること、それらが理解されないだろうという理由で、あるいはむしろ、その読み方を知らない、本のタイトルそのものの読み方さえ知らないあれこれのジャーナリストが、読者あるいは視聴者はなおさら理解できないだろう、視聴率とその稼ぎ手が害を被るだろうという理由であきらめること、それは私には受け入れられない猥褻事です。それはまるで、私に頭を下げろ、隷属しろ――あるいは愚劣さで死ねというようなものです。》

「上から目線」に過剰なほど敏感な2009年の日本で、このような言葉を受け入れられる人はどれくらいいるだろう。そしてその「られる」という能力ないし可能性の問題、「どれくらい」という数の問題は何を意味するのだろう。これもまた、哲学の問題ではないのか。

「人文系研究の衰退を食い止めるのは、制度改革への批判ではなく、人文系研究の成果そのものである」? 私はそうは思わない。あれか、これか、ではない。あれも、これも、なのだ。人文系研究の衰退を食い止めるのは、研究者としての振る舞いと同時に、大学教員としての振る舞いである。

子育てはとても参考になる、大学生との付き合いばかりでなく、いろいろと(笑)。『クーヨン』2009年7月号「上手にNOを伝える育児」の特集「イライラせずにすむ「やっちゃダメ」の伝え方」から。

おもちゃを片づけるとき――声をかけるだけでなく手を添えて導いて。

「片付けなさい!」と声だけかけても、ラチがあきません。そんなときは、おもちゃを持つ手首を引いて、おもちゃ箱へ。「はーい」という気持ちが励まされます。》

声をかけるだけではダメなのだ、大学教員も。

Wednesday, July 15, 2009

ウェイト・トレ

一つ一つのプレーの質を上げる以前に、もう少し基本的なことがあった。スタミナだ。

怒涛のように仕事が押し寄せてきて、さまざまな悪条件が重なっても、疲れきっていても、

ただ翻弄されるがままになるときでさえも、

その翻弄のされ方を或る程度コントロールできる、というような意味でのスタミナ。

この部分を強くしていくには、普段から仕事量を上げていくしかない。

ウェイト・トレと同じようなものか。ふたたび、プロに入りたての高卒ルーキーみたいな気分になる。

Tuesday, July 14, 2009

大切なこと

若い世代の育成、自分自身の体力(哲学的な)アップ、ワンプレーワンプレー(哲学的な)の質の高さ。

今は我慢の時。ひとつひとつこなしていく。


ヒディンク監督来日、ユース世代の育成を実践指導

6月23日0時27分配信 スポーツナビ

チェルシーの前監督で、ロシア代表を率いるフース・ヒディンク監督は22日、埼玉スタジアム2002で開催された「ナイキ・コーチング・フォーラム」に登壇し、ユース世代の育成論について熱弁を振るった。 ユース世代を教える指導者を対象とした同イベントで、ヒディンク監督は「重要なのは練習の中で9割はボールとかかわっていること。テクニカルなスキルの習得は14~18歳では遅い。その年齢では完ぺきに近くないといけない。6~13歳までに毎日のようにボールコントロールを教えることが大事」と話した。

 また、クリエーティブな選手の育成については、「プレーを押し付けるのではなく、練習でさまざまなシチュエーションを提供し、その中で選手が試行錯誤して身につけていくもの。監督は介入しすぎてはいけない」と持論を展開。これまで自身が指導した選手の中で、最も発想豊かで直感的な選手としては、PSV時代のロマーリオ、レアル・マドリー時代のミヤトビッチ、そしてオランダ代表を率いていたころのベルカンプの名前を挙げた。

 さらに、ヒディンク監督は2002年のワールドカップ日韓大会で韓国代表を指揮した当時のチーム作りやパク・チソンの成長についてのエピソードを披露。韓国代表に関しては「就任当初、イニシアチブ(主体性)が欠けていると感じた。これは文化的なことかもしれないが、選手はミスを怖れていた。わたしはその否定的な考えを改革し、パフォーマンスを向上させようと思った。時には選手のミスさえ称賛した」と語り、パク・チソンについては「彼はシャイだった。韓国代表でもPSVでも最初は実力を発揮できなかった。しかし、その後話し合うことでポテンシャルを引き出すことができた。彼がチャンピオンズリーグでプレーするような選手に成長したことを誇りに思う」と述べた。

 同イベントでは講演会に続き、ヒディンク監督が実際にユース選手を指導する実技講習が行われた。ヒディンク監督はボールを使ったウォーミングアップからミニゲームまで1時間以上にわたって指導。ファーストタッチ、積極性、1対1の重要性を選手に説いた。


ヒディンク監督、日本に“体力サッカー”のススメ
6月23日7時54分配信 サンケイスポーツ

来日中のロシア代表のフース・ヒディンク監督(62)が22日、埼玉スタジアムでユース指導者に向けた講演と実技講習を行った。02年日韓W杯で韓国をベスト4に導いた名将は「日本は技術的な問題はない」と評価した上で、「最近のサッカーは90分間、走らないといけない」。W杯4強を目標にする岡田ジャパンに“体力サッカー”のススメを説いた。

 韓国時代は長期的な練習プランを立て、回復能力の向上に努めた。「15~20秒で心拍数が元通り回復した。そうなれば相手が疲れ、得点のチャンスは増える」。06年ドイツW杯は豪州を指揮し、初戦の日本戦で3-1の逆転勝ち。「当時の日本はDFとMFの間にかなりスペースがあった。後半に疲れるのは明白だった」。ムダ走りを減らす体力温存も、キーワードになりそうだ。


中沢、4強厳しく感じれば「1次突破も無理」

 1-2の逆転負けを喫した豪州戦は、スタンド観戦。「1プレー1プレーの質の高さが日本と違った。最低、あのレベルという位置付けがわかりやすい相手だった」と分析。岡田監督が掲げるW杯ベスト4へ「何気ないパスを意識してビシッと出すとか、そこから始めないと」と、普段のJリーグから意識の高さを持つ必要性を訴えた。
 「(4強を)厳しく感じる選手も出てくると思うけど、厳しいと言っていたら1次リーグ突破も無理」。W杯予選突破を祝う花束をクラブ職員から受け取っても、厳しい表情は変わらなかった。あと1年。中沢はより高みを見る。(志田健)

Tuesday, July 07, 2009

教育社会(七夕に)

京都教育大学の事件報道:大学とメディア、双方のあり方に疑問」という記事を見つけた。多くの点で賛同できる。例えばこれ。

《日本では、メディアが「謝罪」の画にこだわります。
メディアの側は、「そうしないと世間が納得しないから」と言いますが、本当はそうしないと映像的にオチをつけられないからでしょう。
だから、「世間を騒がせたことに対して、謝罪はないんですか!?」なんて、いまひとつ意味が分からない要求と共に、臆面もなくマイクを突き出せるわけです。》

ただ、個別大学の個々のコメントや個別メディアの個々の対応に疑問はあっても、事態を理解する(intelligere)にはその視点では十分ではない。なぜメディアは謝罪の絵にこだわり、なぜ謝罪側は結局のところ「謝罪」「責任」をとらねばと感じるのか。問題はそこにある。



世間では日々数々の犯罪が起こっている。大学は公的性格をもつ以上、何か事件が起きれば、その「社会的責任」が厳しく問われるのは当然のことである。

会社員が犯罪を犯したとしよう。その社員の働く企業が有名企業であった場合、すなわち「ニュース」になりやすい場合は必ず、「社会的責任」から、トップの謝罪、組織としての対応が問題とされるだろう。

だが、先に取り上げたような度を越した犯罪(準強姦)の場合、トップの辞任といった責任問題に発展するだろうか?事件の規模や性格によってはそういう場合もないとは言えないが、考えづらい。なぜか?問題行動を起こした「原因」が、社内教育の欠如ないし不備にのみある、と断定できないからであろう。

社内でのセクハラなどであれば、「よりいっそう(社内)教育を徹底し、再発防止に努めて参ります」と言えるが、度を越した異常な犯罪――例えば、テレビ局の社員が同僚に爆発物を送りつけた事件が少し前にあったが――について、トップは謝罪すべきだろうか。企業は責任をとれるだろうか、とるべきだろうか?コンプライアンス研修会と心理カウンセリングの社員への周知をさらに徹底するくらいが関の山であろう。

大学だけでなく、教育界だけでもなく、あるいは官公庁だけでもなく、おそらく現在の社会情勢においては、責任がとれるか否か、取るべきであるか否かにかかわらず、「よりいっそう(社内)(学内)教育を徹底し、再発防止に努めて参ります」という言葉が、すべての社会構成員に対して、一般的に求められているのだ。

まさかいい歳をした大人に「腹がたっても、爆発物を送りつけてはいけません」とか、大学生に「強姦は重罪です」としっかり諭すことが真に有効な防止策だとは思えないし、効果を上げる部分よりむしろ非効率な部分のほうが圧倒的に多いと思うが、それでもなおエクスキューズとしての「コンプライアンス研修会」と「心のケア」は増える一方であろう。なぜなら、それをしていなかった場合にその組織は「責任」を問われるからだ。

要は、対外的なエクスキューズとしての〈教育〉が、至るところで求められているわけだ。問題は、この〈教育〉の内容ではなく、その本質である。

日本は十数年前、「訴訟社会アメリカ」を嗤っていた。熱いコーヒーで訴訟になる国、濡れたプードルを電子レンジで乾かそうとして訴訟になる国、と。そして、今、日本製のありとあらゆる電子機器の説明書には、過剰なほど「注意書き」が溢れている。ありとあらゆるお節介な看板やポスター、電車やバスの車内放送は、ますます過剰になる一方だ。

逆説的なことだが、これほど教育の不足が叫ばれながら――「ゆとり教育」の放棄――、「教育社会」なのだ。生涯教育の時代に、人間はすべて、いつまでも陶冶の対象である。

どこでも教育が強調されるが、それはエクスキューズとしての教育である。外部からの指摘に備えて行なわれる教育、教育される対象よりも本当は目が外部からの視線に行っている教育、それが管理社会で行なわれる一般的な教育ではないか。これが先に言った〈教育〉の本質であるように思われる。

「モンスターペアレント」とは一部の異常な親ではなく、「クレイマー」の一種であり、このようなエクスキューズ社会の産物、「教育社会」の鬼子なのだろう。

教育にとって困難な時代である。

Monday, July 06, 2009

近くて遠きは田舎の道…と学術交流

京都や東京にいた頃は古本屋巡りが趣味だったのだが、福岡に来てからゆっくり見て回る時間がない。そもそも古本屋街といったものが存在するのかも知らないのだが…。



三浦信孝さんのおっしゃるように、

《日仏交流で日本のことを説明する局面が増えています。
日本のことをミニマムわかってもらわないと、
どんな分野でも学術交流にならないと痛感しています。》

でも、これは三浦さんのように、すでに数多くの交流を通してその「下地」を作った人だからできること。

我々のフランス哲学研究の分野では、まだまだ我々自身のアウトプットが少ない。そこで「日本思想に興味を持て」といっても、欧米の研究者から儀礼以上の関心が引き出せるか。まずはフランス哲学研究の実力を認めさせたうえで、日本のことをもっと多く混ぜていく、という戦略が必要だと思う。

ともあれ、遠くからご成功をお祈りしています。


日仏シンポジウム《「日本の近代化」再論:「近代主義」の何を継承するか?》

2009年7月11日(土)12日(日) 日仏会館ホール

共同座長: マルク・アンベール(レンヌ第1大学-日仏会館フランス事務所)+廣田功(帝京大学)

7月11日(土)

10:00〜12:30

三浦信孝(中央大学) 「日本の近代化という問題:発展段階論か文化類型論か」

ピエール・スイリ(ジュネーヴ大学) 「明治日本における歴史学の成立:権力の掛金・過去の支配・抵抗」

杉山光信(明治大学) 「戦後啓蒙と戦後民主主義」

14:00〜15:40

松本健一(麗澤大学) 「脱亜論とアジア主義:日本の近代化とアジアの近代化」

フィリップ・ペルティエ(リヨン第2大学) 「島国:日本の近代化と領土化」

16:10〜17:50

水林彪(一橋大学) 「日仏比較:二つの近代法」

望田幸男(同志社大学) 「日独比較:二つの近代、二つの戦後」

7月12日(日)

10:00〜12:30

加藤哲郎(一橋大学) 「日本マルクス主義と社会主義運動の遺産」

クリスチーヌ・レヴィ(ボルドー第3大学) 「大逆事件:例外的裁判か抑圧の近代的モデルか」

藤井隆至(新潟大学) 「未完の日本近代:柳田国男『遠野物語』はなぜ読まれるか」

14:00〜15:40

ベルナール・トマン(国立東洋言語文化研究院) 「戦前の日本における労働者の管理:人口の管理技術としての近代化」

落合恵美子(京都大学) 「脱欧入亜する日本:アジア家族の比較研究から」

16:10〜17:50

アラン=マルク・リユー(リヨン第3大学) 「近代の理論:比較論をどう打ち立てるか」

総合討論


Colloque de la Maison franco-japonaise

La modernisation du Japon revisitée :

Que reste-il de l’approche moderniste ?

Les 11 et 12 juillet 2009, à l’auditorium de la Maison franco-japonaise

Sous la co-présidence de Marc Humbert (Bureau français de la MFJ) et d’Isao Hirota (Univ. Teikyô)


Samedi 11 juillet

10:00 ~ 12:30

Nobutaka Miura (Univ. Chûô), La modernisation du Japon en question : évolutionnisme linéaire ou typologie culturelle?

Pierre Souyri (Univ. de Genève), La constitution de l’histoire comme discipline académique dans le Japon de Meiji : enjeux du pouvoir, contrôle du passé, résistances

Mitsunobu Suguiyama (Univ. Meiji), Lumières et démocratie de l’après-guerre

14 :00 ~ 15:40

Kenichi Matsumoto (Univ. Reitaku), La sortie de l’Asie et/ou l’asiatisme : la modernisation du Japon et la modernisation de l’Asie

Philippe Pelletier (Univ. de Lyon 2), «Shimaguni » : modernisation et territorialisation au Japon


16:10 ~ 17:50

Takeshi Mizubayashi (Univ. de Hitotsubashi), Comparaison France-Japon : deux droits modernes

Yukio Mochida (Univ. Dôshisha), Comparaison Allemagne-Japon: deux modernités, deux après- guerres


Dimanche 12 juillet

10:00 ~ 12:30

Tetsuro Kato (Univ. de Hitotsubashi), Héritage du marxisme et du mouvement socialiste au Japon

Christine Lévy (Univ. de Bordeaux 3), L’affaire du crime de lèse-majesté (1910): un procès d’exception ou un paradigme moderne de la répression?

Takashi Fujii (Univ. de Niigata), La modernité japonaise inachevée: Pourquoi lit-on encore « Tôno-Monogatari » de Kunio Yanaguita ?


14:00 ~ 15:40

Bernard Thomann (INALCO), Gouverner les ouvriers dans le Japon d'avant guerre: la modernisation comme technique de gestion des populations

Mieko Ochiai (Univ. de Kyôto), Le Japon qui quitte l’Occident et entre en Asie : approche comparatiste du modèle familiale asiatique


16:10 ~ 17:50

Alain-Marc Rieu (Univ. de Lyon 3), Théorie du moderne: Comment fonder le comparatisme?

Débat de synthèse

Friday, July 03, 2009

ボーヴォワール関係読書リスト

哲学史は、アウグスティヌスに2回を割き(『告白』と『神の国』)、トマス・アクィナス(『神学大全』)へ。本音としてはもう少し中世の哲学に浸かっていたい。「プラトンからデカルトまで」と銘打ったので、最後はデカルトで締めねばならないのだが…。

結婚論は、マルクス、フロイトを終えて、ボーヴォワールへ。

「ボーヴォワール 画像」で検索するのと、「Beauvoir image」とでは、結果がかなり違うので驚いてしまった。日本での古典としての地位の低さは、少し異様な気もする。中公新社版『哲学の歴史』に「ボーヴォワール」はおろか、「フェミニズム」という章すらない…。

今回の読書で一番気に入ったのはこれ。

青柳和身『フェミニズムと経済学――ボーヴォワール的視点からの『資本論』再検討』、御茶の水書房、2004年。

なんというか、この手の、肩に力の入りすぎた仕事が好きだ。

「本書の直接的な問題関心は、2005年から2015年までの時期を中心とした女性のM字就業の解体を中核的内容とする日本におけるジェンダー革命の端緒的展開の予測と21世紀の世界史的なジェンダー革命の展望を明らかにするための歴史的・理論的考察である。そのためにフェミニズムの古典としてのボーヴォワール『第二の性』と、マルクス経済学の古典としての『資本論』とを比較検討しつつ、マルクスが検討しえなかった歴史と現状の資料、とくに性・生殖史と近現代の人口史の資料によって『資本論』を再検討することが直接の課題である。」

「2015年には予測の結果はほぼ判明しているので、予測に失敗した場合には一切の自己弁明をせず、筆者の学問的方法論、認識論まで含めた根本的な自己批判をすること、これが学問上の意味での「笑い者」のなり方である。」

真正面から直球勝負、いいですね。かっこいい現代思想家の威を借りて、キャリアを駆け抜けていくより、よほどいいです。



大越愛子『フェミニズム入門』、ちくま新書、1996年。

京都にいた頃に買ったのに、まともに読んでいなかった。13年ぶりに読みました…。やっぱり好きになれませんでした、とても残念ですが。



シモーヌ・ド・ボーヴォワール『女性と知的創造』(朝吹登水子+朝吹三吉訳)、人文選書2、1967年。1966年の滞日講演集。

セルジュ・ジュリエンヌ=カフィエ『ボーヴォワール』(原書1966年 岩崎力訳)、人文選書6、1967年。

ジョゼ・ダイヤン監督『ボーヴォワール――自身を語る』(映画1979年 朝吹三吉+朝吹登水子訳)、人文書院、1980年。

アリス・シュヴァルツァー『ボーヴォワールは語る――『第二の性』その後』(原書独語版1983年)、平凡社ライブラリー、1994年。

村上益子(ますこ)『ボーヴォワール』、清水書院、センチュリーブックス「人と思想」74、1984年。

佐藤泰正編『フェミニズムあるいはフェミニズム以後』、梅光女学院大学公開講座論集第28集、笠間選書163、1991年。以下二篇、視点は興味深いが…。

常岡晃「フランス文学におけるフェミニズムの諸相――スタンダールとボーヴォワールを中心に」
広岡義之「女性の現象学――ボイテンディクとボルノーに学びつつ」

クローディーヌ・セール『晩年のボーヴォワール』(門田眞知子訳)、藤原書店、1999年。
『第二の性』五十周年記念出版。