Saturday, May 30, 2009

一時ダウン。

水曜日の夜、いつものように夕食を食べ終わった直後、猛烈に体調が悪くなった。それでも風呂に入り、子供を寝かせつけ、さあいつものように徹夜で授業準備の仕上げ…と思っていたら、蕁麻疹がうっすらと浮かび始め、それがまたたく間に全身に広がった。体中が脹れあがり猛烈にかゆい。

食当たり?けれど家族には何の変調もない。いずれにしても、授業準備が終わっていないのだから、寝るわけにはいかない。結局予定していたレベルを下げ、なんとか授業にまとまりをつけるだけで満足することにしたのだが、それでも朝5時くらいまでかかってしまった。

授業の関係で、起床は6時半。でも一時間半の間、かゆくて寝られずずいぶん苦しんだ。朝起きると、体がだるくて動く気がしない。朝食も半分も食べられない。

木曜日は最も授業の多い日で、1・3・5限と3コマあり、しかも最初と最後が大人数の講義である。結局、1限と5限の講義は椅子に座って行なった。普段はマイクをもって教室中を歩き回り、学生たちにマイクを向けながら、「対話」しつつ授業を進めていくのだが、この日はとてもそんな力はなかった。

3限はゼミの図書館ガイダンスで、ずっと立ちっぱなしは堪えたが、おしゃべりは図書館員にまかせて…ともいかず――率直に申し上げて、図書館員の説明はいずれも要領を得ず、ただでさえ集中力を切らせやすい学生をまったく制御できていない。教職員にFDというなら、事務職員その他のFDもはかってもらいたい――、合いの手という形で、学生の緊張感を保たせつつ、どんな風に図書館を利用すべきか伝える。余計に疲れる。

昼休み、大学の保健室で診てもらった。直接の原因、トリッガーになったものは分からないが、大元の原因は疲れでしょう、と言われた。ただでさえ心臓に負担がかかっているので、ゆっくり歩くようにとのこと。言われなくても、もうゆっくりしか歩けない。抗ヒスタミン系の薬を処方してもらい、空き時間は研究室で放心状態。夕方頃には体中の赤身がほぼとれていた。



金曜は一日静養に努めた。気分転換に、前から計画していた部屋の家具の配置換えと掃除。

Thursday, May 28, 2009

たかが入門書、されど入門書

「映画俳優」でなく「テレビ俳優」を志すとしても(前日のポスト参照)、入門書を馬鹿にするなかれ。細かい書き方が気になる。アリストテレスはプラトンの敵、それはそのとおりなのだが、もうちょっとニュアンスがほしい。例えばこういう入門書は感心できない。

《アリストテレスは、プラトンの弟子、アレクサンドロス大王の家庭教師として知られる。ギリシアのポリスが限界を迎えた時代を生きたアリストテレスの考えは、師プラトンとは鋭く対立するものだった。》(貫成人(ぬき・しげと 1956-)『図説・標準 哲学史』、新書館、2008年、24頁)

この後、貫氏はすぐさま、アリストテレスの中心的な学説「1.四原因説」「2.実体」「3.実践三段論法」「4.『詩学』」「5.形而上学」を解説していくが、そこでは先の伝記的記述は何の意味も持たない。すると、先の数行は、たとえ著者の意図がそうでないとしても、「私は意味ないと思うけど、出版社の意向なので、一応哲学者の生涯など事実関係にも最低限言及しておきます」という姿勢に見えてしまう。

私は哲学史の授業である哲学者を取り上げるときは、必ずまずその哲学者を一つのイメージで捉えられるように配慮する。味気ない伝記的事実を淡々と最初に与えたところで、学生たちが興味を持つはずもない。まずその哲学者についての一つの中心的なイメージを与え、多少なりとも興味を持たせた後で、重要な伝記的事実を彼の哲学と密接に結び付く形で与えるからこそ、学生は興味を持ちうるのである。

(だからこそ、私は熊野純彦氏の『西洋哲学史』(岩波新書、2006年)全二巻を断然支持する。内容は平均的な学生たちには少し難しすぎるだろうけれども、彼がやろうとしていること――一つのイメージを与えることから始める――は正しい。)

そして「対位法」ということを重視する。例えば、初期ギリシア哲学に関する授業では、真っ青なエーゲ海の写真を見せて、自然哲学者たちの自然や宇宙への関心をイメージづけ、その次の授業では、カプリ島「青の洞窟」の神秘的な濃い青の写真を見せて、南イタリアのピュタゴラスやヘラクレイトスを解説する、といった風に。

あるいは、ソクラテスの生きたアテナイとプラトンの生きたアテナイの大きなずれから、二人の哲学の違いを説き起こしてみたり、師への思いからエクリチュールとの関係に悩む人プラトンと書きまくる「教授」アリストテレスを対比的に見ることから始めたり。

哲学とは学説の歴史、概念の歴史、たしかにそのとおりなのだが、それを語るのは人であり、それを聴くのも人である。池田晶子のように大向こうに媚びる自称「哲学書」も嫌だが、誰に向かって話しかけているのか分からない、物知りだが味気ない「標準」哲学概説書にも――特に貫氏ほどの人であればこそ――がっかりさせられる。

Wednesday, May 27, 2009

「俳優」より「映画俳優」と言われたい

浅野忠信のインタヴューから一部抜粋させていただく。テレビと映画の関係は、哲学の世界では、ジャーナリズムとの距離感ということになるのだろう。映画界の世代間のバランスや国際化について語っていることにも注目してほしい。

――10年ほど前からテレビドラマなどに出演しなくなっていますが、なぜでしょうか?

浅野: 最初の頃はテレビにも結構出演していましたが、マネージャーと喧嘩することも多く俳優を辞めたいと思う時期もあったんですよ。それと僕の感覚ですが、テレビはシステムに縛られて撮影している感じがして、撮って放映されて、また撮ってすぐ放映されてというサイクルが自分に合わなかったんですよね。映像という意味では同じですが少し機械的というか。

 逆に映画は感情的につくる印象が強かったんですよ。撮影は本当に大変で、徹夜してまた次の日も朝早くて。それでもいい大人が時には喧嘩しながら、同じ目標に向かって頑張る姿がなんだかすごく自分の中で信用できることに思えましたね。僕が若い頃に関わった映画の中には、公開されるか分からない作品も結構あって、それでもみんながむしゃらに撮り続けているのを肌で感じて、この世界だけでやりたいと思うようになりました。

 実際に映画中心の活動になると、今度は映画スタッフから「これからもお前は映画だけでやれよ!」と愛情を込めて言ってくれるようになったんです。すごく大切にしてくれるし、そう言われると、いまさら俺がテレビでやってもしょうがないかなと思うんですよね(笑)。

俳優より「映画俳優」と言われたい!! 

――では、俳優というより「映画俳優」と言われる方がうれしいのでしょうか。

浅野: はい、ありがたいです。20代の頃から多くのベテラン共演者の方に「浅野君は映画俳優として頑張ってね」と言ってもらってここまで来ました。誰かが映画俳優と呼んでくれることで、映画一筋でやっていけることを示せていると思います。

――映画監督も若い人が増え、助監督経験を踏まずにいきなり監督ができる環境にもなっています。ひと昔前とは大きく変わっている現状をどう思いますか?

浅野: それは全然ありだと思います。ただ、若い監督は、映画しかない時代からやっている人たちの経験や知識を機会があるなら学ぶべきだと思います。今の技術しか知らずに映画を撮るのはもったいないと思います。

 もちろん、その逆も言えます。ベテランの映画人も新しい技術や映像を学ぶべきだと思います。自分の世界に固執せずに映画の持つ自由さを受け入れるべきで す。お互いがリスペクトし合って相乗効果を生む必要があると思います。僕も俳優として壁を作らずに、若い人たちの野心的な撮影の仲間に入れもらいたいし、 ベテラン監督の持つ手法もきちんと教えてもらいたいです。

 それと、海外とも手を組んでどんどん映画を作るべきだと思います。特にアジアは距離も近いので、もっと仲良く映画を撮ってほしい。どうしても日本は閉鎖的な部分があり、海外の人と話をすると、そこを指摘されるのでまず閉鎖的なところを取っ払うのがいいと思いますね。

 多少、騙されることや変だなと思うことがあっても、それは最初だけですから、慣れて相手を理解すれば、解消されていくと思います。違和感はあるかもしれ ないですけれど、それならなおさら早いうちに解消したほうがいい。世界中の人と一緒に作品を作れるのが映画の良さだと思うので。

(写真/菊池 友理、文/永田 哲也=日経トレンディネット)

Tuesday, May 26, 2009

アテナイの学堂

というわけで、アリストテレスである。プラトンに講義三回分を費やし、身も心も疲れたと思っていたが、考えてみれば、哲学の歴史は真面目にやれば重量級ハードパンチャーの連続だ。またもや入門書・概説書の類を読みふけり、原典を可能な限りフォローし、画像を探しまくる(今時の学生たちには必要なのだ、目を休ませる偶像が…)。

ラファエロの有名な「アテナイの学堂」。今道大先生は1502年完成とされているが(『アリストテレス』、講談社学術文庫)、1509-10年が正しいようである。「美の巨人たち」は、この絵が、数十メートルしか離れていないシスティーナ礼拝堂で同時に進行中だったミケランジェロに対する讃嘆の念から、ある重要な変更を加えたことを指摘していて興味深かった。番組HPにはこうある

「ラファエロの受けた衝撃の強さを知るヒントが、この下絵の中に隠されています。当初ラファエロは、中央階段部分を広く開ける構図を考えていました。 しかし実際の作品はこうなります。

そう、当初予定していなかった人物が、そこに描かれたのです。 右手にペンを持ちながら考え込む男・ヘラクレイトス。 このギリシャの哲学者のモデルこそ、ミケランジェロなのです。絵全体のなかで、前方のほぼ中央に描かれたミケランジェロ。それはラファエロがミケランジェロを、最大限に評価した現れでした。天才が天才に魅了されたのです。研究者「ラファエロがミケランジェロの描きかけの天井画を見たことは間違いないでしょう。それ以降、彼の描くタッチが明らかにミケランジェロの影響を受けるようになるのです。一番判るのは、ミケランジェロをモデルにした、ヘラクレイトスです。あれはミケランジェロのタッチで描かれています。ヘラクレイ トスのタッチが、周りに描かれた人々とは全く違うのです。ミケランジェロは天才だということを、みんなにアピールするために、ラファエロは絵の真ん中に、ミケランジェロをどうしても描きたくなったんだと思います。」」


しかし、素朴な疑問が生じる。ラファエロがそんなにミケランジェロに入れあげたのなら、なぜプラトン=ダヴィンチに匹敵するアリストテレスの位置を与えなかったのか。Wikiを見ても、アリストテレスのモデルについて説明がない。

こちらのブログに書いてあったことが説得力がある気がする。つまり、

「その右隣がアリストテレスです。最初そのモデルはミケランジェロだったらしいですが、ダ・ヴィンチと並ぶのが嫌だった彼がラファエロにクレームをつけたそうです。それで、ラファエロは急遽、画面手前にミケランジェロをモデルとしたヘラクレイトスを加えたそうです。」

なるほど、それで、ミケランジェロはskoteinos(闇の=晦渋な=気難しい)として知られるヘラクレイトスに…。からかいつつも、その重要性はしっかり認め、違った形で中心的な場所を与える。ラファエロのようなしなやかな知性に見習いたいものです。

Monday, May 25, 2009

二人の哲人王(納富プラトンと藤沢プラトン)

プラトン関係は実に多い。

田中美知太郎『ソクラテス』、岩波新書、
藤沢令夫(のりお 1925-2004)『プラトンの哲学』、岩波新書、1998年。
納富信留(のうとみ・のぶる 1965-)『プラトン 哲学者とは何か』、NHK出版、2002年。

先の『ソフィスト』はよかったが、こちらの田中の本は正直いいとは思わなかった(冗長に思えた)。藤沢の書くものはいつも明晰な印象がある。納富さんのはこれまた素晴らしい。

例えば、藤沢も納富さんも、プラトン思想にとって「三十人政権」――ペロポネソス戦争でアテナイが敗北し、民主派と抗争してきた寡頭派が貴族制ポリス・スパルタの勢力をバックに樹立した政権で、クリティアスやカルミデスらプラトンの縁者が主要メンバーであった――が持つ決定的な意味を強調するのだが、この事件をどう描き出すかによって、深みが全然違ってくる。

藤沢さんのはこう。《この「三十人政権」は、スパルタの勢力をバックに独裁権力と化し、戦時中の非行者を処罰する仕事を拡大して、反対派や反対派の疑いのある者を次々と捕えて処刑するという、恐怖政治を現出させた》。

非常にオーソドックスな描き方である。そうではあるが、しかし、これだけのことであれば、なぜプラトンが後に『カルミデス』という掌編を書き、カルミデスやクリティアスを俎上に乗せたのかよく分からなくなる、とおそらく納富さんは考えた。

これに対して納富さんはこう描く。《プラトンは、同時代や後世の多くの人々のように、クリティアスを「悪人」として非難して切り捨てることはできなかった。それは、単に彼が身内であったからではない。クリティアスが政治に臨むにあたって抱いていた基本的な考えの多くを、プラトン自身も共有していたからである。(…)

若き日のプラトンがクリティアスに共鳴したのは、理想と現実の両面における政治への基本姿勢であったと考えられる。とすると、クリティアスが行なった政治の失敗とは何であったのかを問い直すことが、プラトンにとっては決定的な重要性をもったことになる。クリティアスの考えを吟味することは、プラトンにとってある意味で、自己の吟味に他ならなかった。》

藤沢さんの『国家』篇における「哲人王」の描出――「太陽」「線分」「洞窟」の三大比喩の手際の良い紹介――はさすがだが、「哲学と政治」といった場合の「政治」があまりにも薄いのはまさに以上の点に関係していると考えざるを得ない。

しかし納富さんの本にも瑕疵がないではない。「対話」「現実」「生」と題された三部構成のうち、第二部「現実」で『カルミデス』、第三部「生」で『ソクラテスの弁明』を中心的に取り上げるのであれば、結局「哲人王」思想に至るまで――一応『国家』も引用されている――、至ってもなお、プラトンは「父」離れ(乳離れ?)していないことになる。それは彼が最後の節のタイトルを「ある絶対的なものとの出会い」としていることからも明らかだ。

《プラトンは、ソクラテスという絶対の視点から現実を見ることを知ってしまった。それは、哲学から生を見つめることであった。》

「私がこれから書くのは、〈プラトン〉という名の下にさまざまに語られる思想ではなく、プラトンその人、その生である」。それはよい。問題は、納富プラトンがあまりにソクラテスと近すぎることにある。これでは、イデア論もソクラテスという絶対の視点から引き出されることになってしまわないか。この点は、藤沢プラトンが「ソクラテス的基層」と呼ぶものからいかにテイクオフしていくのか――『饗宴』で初めて登場するイデア論をソクラテスがディオティマからの伝え聞きとして語るのは、プラトンがここにためらいがちな自らの思想の第一歩を記しているのだ――を手堅く描いていて説得力がある。

Sunday, May 24, 2009

お答え4(ベルクソンとハイデガーにおける哲学史の読み直しという作業)

日哲発表後の共同討議でのコメントも採録しておく。ちなみに、これは私が博論のある註で記した内容を簡略化したもの。これを別様に展開したエッセイとして次のものも参照されたい。

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「哲学史を読み直す」という主題でさまざまな興味深い論点が提出された今日の共同討議では、たびたびベルクソンとハイデガーの名が挙がりました。二人はかなり異なる形で哲学の歴史と向き合い、ひいては「ことば」そのものとかなり異なる姿勢で接してきたわけですが――「哲学史を読み直す」という営為は、「言語」の問題と格闘するという営為と切り離せません――、考えてみれば、そもそも二人の哲学する根本気分(Grundstimmung)そのものが違うのではないかと思います。

ハイデガーは有名な『形而上学の根本諸概念――世界・有限性・孤独』(フライブルク大学における1929-1930年冬学期講義)において、ノヴァーリスによる哲学の定義――「哲学とは本来郷愁(Heimweh)であり、随所に、家に居るように居たいと欲する衝動である」――を引きつつ、こう語っています。

《哲学はある根本気分において生起する。哲学的概念把握はある感動に根ざしており、この感動はある根本気分に根ざしている。》

続きは各人で読んでいただくことにして、ハイデガーにおける哲学することの根本気分が「郷愁」であることは、彼の哲学史の読み直しの作業――かつてVorsokratikerと呼ばれ、現在では「初期ギリシア哲学者」と呼ばれる者たちへの執拗な回帰――、そして彼の言語観――言語は存在の家である――と直接的に結びついています。

では、他方で、ベルクソンにおける哲学することの根本情動は何でしょうか。繰り返し語られるそれは、快楽(plaisir)とは区別された歓喜(joie)です。例えば、「哲学的直観」という論文末尾の有名な一節にはこうあります。

《生活の利便にのみ向けられた応用によって、科学は私たちに快適を、せいぜい快楽を約束してくれます。しかし、哲学は、すでに歓喜を私たちに与えてくれます。》

他にも幾らでも例を挙げることができることは、ベルクソン研究者なら周知のことですし、この「歓喜」が時として――とりわけ「神秘的直観」と結びつく場合には――「狂喜」に近いものとなることも戸島先生が指摘された通りです。

むしろ私が指摘しておきたいことは、この根本情動が、先のハイデガーの場合と同じように、と同時に正反対の方向に、ベルクソンを哲学史、そして言語の問題へと向かわせるということです。すなわち、ベルクソンにおける哲学することの根本情動が「歓喜」であることは、彼の哲学史の読み直しの作業――科学の歴史と密接に絡み合ったものとして描き出されるそれ――、そして彼の言語観――言語は生成変化の交通手段(transport)である――と直接的に結びついている、ということです。郷愁や回帰ではなく、歓喜であり前進(marche en avant)なのです。

以上が、ベルクソンとハイデガーにおける哲学史の読み直しという作業について、私であれば言うであろうことのごく簡単な概要です。

Saturday, May 23, 2009

ソフィストの時代――哲学教師と哲学者の狭間

日本有数のフェティシズムの専門家が偶然、私がずいぶん前――八年前!――に書いたポストを読んでくださる。ありがたいことですが、ブログなんて信じてはいけません(笑)。

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ここしばらく西洋哲学史の授業準備のために、ほとんど新書ばかりだが、古代哲学関係を読み漁っている。

斎藤忍随(にんずい 1917-1986)『知者たちの言葉――ソクラテス以前』、岩波新書、1976年。

ヘラクレイトスとエンペドクレス、デモクリトスを集中的に扱った好著。各セクションの冒頭に哲学者たちの言葉を引いておき、その注釈(多く非ハイデガー的な)という形をとっているのも好感が持てる。

ソフィスト関係
・田中美知太郎(1902-1985)『ソフィスト』(初版1941年)、講談社学術文庫、1976年。
・廣川洋一(1936‐)『イソクラテスの修辞学校――西欧的教養の源泉』(初版1984年)、講談社学術文庫、2005年。
・廣川洋一(1936‐)『ギリシア人の教育――教養とはなにか』、岩波新書、1990年。
・ジルベール・ロメイエ=デルベ『ソフィスト列伝』、文庫クセジュ、2003年。
・納富信留『ソフィストとは誰か』、人文書院、2006年。
・納富信留「ソフィスト思潮」、『哲学の歴史』第1巻所収、中央公論新社、2008年。

納富先生のは、パースペクティヴの取り方が実に素晴らしい快著である。何が素晴らしいと言って、「ソフィスト」をヘーゲルのように「真の哲学誕生に至る重要な一契機(前段階)」としてでも、ニーチェのように「反哲学」の英雄として取り上げるのでもなく、「著名な哲学者の生涯や思索を取り扱う場合とは大きく異なる意義をもち、異なる接近を必要とする」ものとして描き出すというパースペクティヴが素晴らしい。私たちが「大学の哲学関連の教師」ないしは「哲学研究者」と「哲学者」の狭間にいるという現実から往々にして目を背けながら、他方で、グローバリゼーションや資本主義やその他諸々の「ソフィスト」的現実を容易に批判する傾向があるだけに、このパースペクティヴはいっそう際立つ。

《私たちも、自身がソフィストである可能性に直面しながら、それを批判し自らが哲学者となることによってしか両者の対は明らかとならない。ソフィストとの対決は、哲学の成立をかけた争いなのであり、その主役は、あなた、そして、私自身なのである。ソフィストとは誰か、それは、私たち自身の生の選択において哲学問題となる。》

田中美知太郎のは、納富先生の本から教わったのであるが、初版が戦前=1941年のものであることに注目されたい。これも実に良書でした。

《さきにソピステースの徳育や弁論術が、別に我々から軽蔑されたり、嘲笑されたりするようなものではないことを述べた。無知は彼らだけのことではなく、むしろ我々においていっそう暗黒だからである。誇張された言葉で正邪善悪を云々する声は天下に満ち満ちているけれども、我々はそれが何であるかを深く考えたことはないのである。》

廣川氏のは、狭義の「ソフィスト」というより、イソクラテスを代表とする「古代の修辞家」を通して「教養」とは何かを考えるというもので、これはこれで重要な問題である。

《ギリシャ的教養における二つの理念は、哲学思想の領域では、道徳的・実践的な価値が学問・知識の対象とならないことを主張し、人間の行為や生き方に関わる問題を厳密な学知――数学・幾何学などに代表される――と同列に考えることを否定する立場(イソクラテス)と、実際生活における言論と行為の指針となるべき価値の規範もまた、あるいはむしろこれこそ最もよく厳密な学知として把握されるべきものとする立場(プラトン)として理解することができるだろう。》

氏が新書の序文でアラン・ブル-ムを引いていることからも端的に窺えるが、「ソフィスト」にせよ、「修辞家」にせよ、《哲学と大学》を考えるうえで大変興味深い。

Friday, May 22, 2009

お答え3(場所の記憶、記憶の場所)

6)発表の第一部の総題が「場所の記憶」と題されているのは何故か?

知覚とは知覚の場所であるということがベルクソンの純粋知覚論において決定的に重要である。しかし、純粋知覚論が記憶理論による補完を要請するものである以上、実際には、つまり『物質と記憶』全体の理論的な布置としては、最初から記憶の問題系のほうへ方向づけられている。したがって厳密には、知覚とは知覚の場所の記憶である。「幻影肢」の例が重要であるとともに、おそらくはベルクソン哲学の枠内では扱いえない理由がここにある。これについては拙論(「現象と幻想――ベルクソンのデジャヴとメルロ=ポンティの幻影肢」)を参照されたい。


7)第二部の総題で言われている「記憶の場所」とは、引用10で記憶に対して「日付」と共に与えられている「場所」と同じものと考えてよいのか?

まず引用文を再現しておこう。

「意識と同じ広がりを持つこの真の記憶は、我々の諸状態が生じるにつれて、そのすべてを留めおき、それぞれを次々に並置するのだが、その際この記憶は、各々の事実に場所(place)を与え、それによって日付(date)を刻む。[運動的・習慣的]記憶のように不断に再開される現在の中でではなく、決定的な過去の中でまさに現実に活動している(se mouvant bien réellement)」(MM, III, 168)。

「真の記憶」は、「各々の事実に場所を与え、それによって日付を刻む(laissant à chaque fait sa place et par conséquent lui marquant sa date)」と言われている。ここで記憶は、事実に場所を与えるものとされている。この議論を「言い方」「比喩」にすぎないと考えるなら、私の発表は単なるソフィスムである。

記憶が日付をもった取り替えのきかない記憶に場所を与え、空間を下から支える(sous-tendre)のでなければ、我々が現実の知覚世界と捉えているものの大半は成立しない。記憶は事実に場所を与えることで、自ら場所をもつ=生起する(avoir lieu)。二つの「記憶の場所」は密接に関係しているが、厳密に同一のものではない。知覚論がextension概念に、記憶の議論がtension概念に収束し、そのキアスムのうちにベルクソン的場所論――私が「内在的論理学」と呼び、「超図式論」と呼ぶもの――が描き出されている。

Thursday, May 21, 2009

スーリエ『共和国の哲学者たち――『形而上学・道徳雑誌』(RMM)とフランス哲学会(SFP)の知的冒険(1891-1914)』

友人のlfが自分の書いた紹介文を教えてくれたのでご紹介。

ステファン・スーリエ『共和国の哲学者たち――『形而上学・道徳雑誌』(RMM)とフランス哲学会(SFP)の知的冒険(1891-1914)』、クリストフ・プロシャッソン序文、レンヌ大学出版局、2009年。

Stéphan Soulié, Les Philosophes en République - L'aventure intellectuelle de la Revue de métaphysique et de morale et de la Société française de Philosophie (1891-1914), préface de Christophe Prochasson, Presses universitaires de Rennes, 2009. 18 €, 627 pages, ISBN : 978-2-7535-0756-2

レンヌ大学出版局(PUR)のサイト上で、イントロダクションを読めます


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RDV à la RMM

L'auteur du compte rendu : Laurent Fedi, ancien normalien, agrégé de philosophie et docteur de la Sorbonne, est l'auteur de plusieurs ouvrages sur la philosophie française du XIXe siècle, parmi lesquels Le problème de la connaissance dans la philosophie de Charles Renouvier (L'Harmattan, 1998) ou Comte (Les Belles Lettres, 2000, Rééd. 2006).

A la fin du XIXe siècle, on assiste en France à une renaissance des études philosophiques et à une expansion institutionnelle sans précédent.

La vocation civique et pédagogique de la philosophie contribue à façonner autour de 1900 une nouvelle figure du philosophe universitaire. En même temps, la redéfinition de la mission de la philosophie comme structuration de l’espace public donne une impulsion au monde des périodiques. Lorsque, en 1891, Xavier Léon et Elie Halévy décident de créer leur revue, qui voit le jour en 1893 sous le nom de Revue de métaphysique et de morale, ils ne sont affiliés à aucun courant de pensée déterminé, si ce n’est au rationalisme de leur professeur du lycée Condorcet : Alphonse Darlu. Ces jeunes gens issus de la bourgeoisie juive cultivée, à l’abri du besoin, s’entourent de contributeurs réguliers, anciens condisciples ou amis. L’esprit de discussion domine, et devient une véritable pratique philosophique. Puis le cercle s’élargit, et la revue devient un lieu d’échanges interdisciplinaires et même d’échanges internationaux, avec le premier Congrès international de philosophie, en 1900. Une communauté philosophique prend forme et se concrétise par la création, en 1901, de la Société française de philosophie (SFP).



C’est cette aventure intellectuelle que Stéphan Soulié reconstitue dans cet ouvrage qui illustre la vitalité actuelle de l’histoire culturelle appliquée à la «République des professeurs», un domaine balisé, entre autres, par Christophe Prochasson (le préfacier), Jean-Louis Fabiani, Christophe Charle et Dominique Merllié. La principale qualité de ce travail tient sans doute à la manière dont l’auteur tire parti de la masse des archives dépouillées, pour nous faire assister d’aussi près que possible à la genèse de cette activité éditoriale, éclairée dans ses aspects les plus concrets, et nous faire vivre cette dynamique de «socialisation» du travail philosophique autour de 1900. L’organisation de la production philosophique est saisie sur le vif, et cet éclairage contextuel amène une compréhension plus fine des enjeux théoriques. Si la parole philosophique se rattache à des lieux qui la font exister et lui imposent aussi des conditions objectives d’élaboration, on peut dire que cet excellent livre nous invite dans ces lieux et nous en fait découvrir les secrets.


La philosophie était concurrencée et menacée d’éclatement par l’autonomisation des sciences humaines et par la spécialisation des savoirs. Dans ces conditions, défendre la «métaphysique» signifiait prendre position contre le scientisme et pour l’indépendance de la philosophie en tant que recherche d’une vérité supérieure et remontée réflexive vers la région des principes (une conception bien représentée par l’idéalisme critique de Léon Brunschvicg). Défendre la morale, d’autre part, c’était suggérer l’influence de la raison pratique sur le réel et la société, et mettre ainsi en valeur l’horizon civique de la philosophie.


L’inscription sociale et politique de ces philosophes est d’ailleurs largement démontrée dans cet ouvrage. Des attentes républicaines de la bourgeoisie juive parisienne à l’engagement dreyfusard de certains intellectuels comme Darlu (un professeur discret mais influent, modèle de rigueur et de droiture pour la jeunesse), sans oublier Couturat qui milite pour une langue internationale, S. Soulié montre la RMM proche des questions d’actualité (une rubrique y est d’ailleurs consacrée aux «questions pratiques»). On découvre avec intérêt la personnalité de Xavier Léon, à la fois animateur d’un salon philosophique où la libre conversation échappe aux excès d’une institutionnalisation desséchante, et habile médiateur qui utilise son entregent pour renforcer la position de la philosophie dans les institutions d’enseignement (bien qu’il n’ait jamais été lui-même fonctionnaire de l’Instruction publique). L’auteur insiste sur la figure du philosophe sociable. Cette petite république philosophique, avec ses revues et ses congrès, pouvait symboliser une cité idéale, harmonieuse et pacifiée, fondée sur une éthique de la discussion réglée.


Techniquement, les fondateurs de la RMM et de la SFP règlent l’échange discursif en fixant un nombre limité d’intervenants, en mettant en débat une question précise, en excluant les réactions bassement polémiques et en cherchant à clarifier les points de divergence au lieu de viser un impossible consensus. La RMM accueille une pluralité de talents philosophiques : des spiritualistes et des sociologues, des rationalistes et des philosophes catholiques, des bergsoniens et des anti-bergsoniens. Ce parti pris pluraliste, parfois difficile à assumer (voir les frictions provoquées par le sectarisme d’Alain), permet des dialogues féconds, par exemple entre métaphysiciens et sociologues (Bouglé, Lapie et Parodi ayant joué un rôle de passeurs plutôt efficace). Le rôle régulateur et modérateur joué par Xavier Léon est bien mis en évidence, notamment dans la querelle du bergsonisme. Régulation, censure informelle : tout cela apparaît quand on se penche sur les recensions, mais mieux encore quand on pénètre, comme le fait l’auteur, dans ce qu’il appelle joliment le «clos des correspondances». Le discours de revue, codifié et diplomatique, laisse en effet échapper des enjeux qui se manifestent plus catégoriquement dans les échanges privés. «On peut ainsi saisir la parole philosophique sur ses marges, au point de contact entre discours technique et représentations extra-discursives» (p.259). La socialisation du travail philosophique pose la question d’une production collective de la vérité. Parmi ses résultats les plus visibles, il y a la constitution de l’épistémologie, un domaine qui doit beaucoup à la collaboration entre philosophes et savants. S. Soulié note à juste titre que Poincaré, Milhaud, Le Roy, ont largement développé leur vocation philosophique grâce à cette nouvelle organisation du travail réflexif. Il y a aussi le Vocabulaire technique et critique dont la rédaction, supervisée par Lalande, s’étale sur vingt ans : une entreprise collective de clarification de la langue philosophique qui répond au besoin d’une communauté savante en voie de constitution. Malgré ces réussites, les contributeurs de la RMM n’ont pas réalisé complètement leur ambition. Leur intellectualisme incarne une position plutôt défensive et contraste avec le succès du bergsonisme qui atteint des domaines très divers et fait de l’ombre à la philosophie traditionnelle. L’auteur s’interroge sur les raisons de ce demi-échec et rappelle que de nombreux contributeurs étaient spécialisés (Couturat en logique, Bouglé en science sociale…). Effectivement : si le programme de la revue était doctrinalement ouvert, la volonté de structurer une communauté philosophique sur le modèle des communautés scientifiques impliquait un cadre essentiellement universitaire. Cette orientation de la philosophie vers une pensée professionnelle, pourrait-on ajouter, faisait écran aux nouveautés qui n’étaient pas solubles dans l’institution, comme la pensée nietzschéenne, introduite en France principalement par le canal de revues littéraires…Laurent Fedi( Mis en ligne le 19/05/2009 )


Wednesday, May 20, 2009

お答え2(経験の転回点)

2)レジュメの中に「経験の自己転回(経験一般から人間的経験へ)」とあるが、これは有名な「経験の曲がり角」の一節を指しているのか。

そのとおりです。

「しかしまだひとつ最後の企てを試みねばなるまい。それは、経験をその源泉にまで求めに行くこと、といううよりはむしろ、経験が私たちの実利のほうに屈折して固有な意味の人間的経験になるその決定的な曲がり角を超えたところまで、それを求めに行くことであろう。カントが証明したような思弁的理性の無力は、根本的にはおそらく、身体的生活の必要に隷属した知性の無力に他なるまい」(強調ベルクソン)。


3)ちなみに、関連していると思うのでmurakamiさんの疑問にもここでお答えしておきます。「
hfさんがイマージュの自己生成の局在化時に出現するのが(カント・フッサール的)超越論的な主観性だというのに対し、戸島先生は、現にできあがった世界(という仮象)の手前で、それを生み出す「生成する実在」に視点をとるという話し(という風にぼくはお二人を理解した)。ドゥルーズの名前が出てこなかったがやはりドゥルーズなのだろうか。

経験の折りたたみから人間的経験、したがっていわゆる「感性のアプリオリな形式」も含め、あらゆる「理念的なものの発生」の可能性が開けてくる、というとたしかにドゥルーズもそのラインである(というか、ドゥルーズがベルクソンから影響を受けているというだけの話だが)。しかし、違いも間違いなくある。この違いが私の昨年のベルクソン国際シンポでの発表の主題(「ドゥルーズかベルクソンか。何を生気論と認めるか」)であった。そのときの論文も含め、いずれ公刊されるので、ここではごく大雑把に言えば、ドゥルーズはサルトルの「非人称的な超越論的領野」のほうに近く、『物質と記憶』を読む時もそのラインで読んでいる。そしてまさにここに違いが生じるわけです。


4)「一気にd'emblée」という言葉が「持続の相の下に」という意味になるのはなぜか


「知覚や記憶の中に一気に身を置く」という繰り返される表現の中の「一気に」という語は、瞬間的な時間の短さを示しているのではなく、むしろ位相の断絶を強調しており、その語源的な意味「in volareその中を飛ぶ」ととったほうがよい。哲学的直観の中で捉える、したがって「持続の相の下に」いる。


5)レジュメには「『物質と記憶』第1章の純粋知覚論における身体図式、潜在的行動としての知覚、そして第4章のextension概念を通じて、カント的空間とは異なる「知覚の場所」が描き出される」とあるが、「知覚の場所」という必要があるのか。単に「知覚」ではダメなのか?

本発表の強調点は、「純粋知覚」とは「知覚が置かれること」であり、「純粋記憶」とは「記憶が置かれること」であり、「イマージュ」とは「措定そのもの」であるという点にある。引用した一文、

「身体が宇宙の中で絶えず占めている場所(place)によって、我々の身体は、我々がそれに対して働きかけうる物質の諸部分と諸様相を表示する。」

はこのことをよく示している。「知覚」とは「知覚の場所」のことなのである。

Tuesday, May 19, 2009

生まれ来る子供たちのために(国公立大の授業料を引き下げよう!)

勝間和代のクロストークより。

国公立大の授業料を引き下げよう!」(5月17日)

付けられたコメント(勝間さんによって選ばれたもの)も賛否いろいろだ。それらのほうもよく読んでほしい。

「国の施策は、少子化を解消しようと出産から幼少期までの手当てを厚くするものばかりが目につきますが、本当にお金のかかるのは中学以降であり、この世代で運悪く親が失職してしまえば、進学はかなり難しいものとなってしまいます。」

Monday, May 18, 2009

お答え1(純粋記憶の無為)

昨日の発表後に、あるいは私的に出た質問に答えておこう。

1)ベルクソンは記憶は消滅しないと言っているようだが、世話をしてくれる子供も忘れている痴呆症の老人に若年期の記憶ばかりが鮮明に蘇ってくるのは、ベルクソンによれば、なぜか。

知覚と記憶の関係:我々は、火急の必要とは無縁の純粋記憶に対しては目隠し(遮眼革)を付され、直接行動に役立つ現在の知覚のほうに目を向けさせられ、競走馬のように生きている。夢想や夢、精神的な病気は、この目隠しが緩んだ状態で生じる。ここまではどの研究者も一致している。

私が今回の発表で強調した点の一つは、《純粋記憶が身体に対して完全に無力だとする説(知覚が能動性のすべてを握っているとする説)では、「内在的感性論」の後を受けているはずの「内在的論理学」の企図は十分に説明できない。純粋記憶は身体に対して完全に「無力impuissant」なのではなく、現在の直近の関心から絶えず逸れうる「無為désoeuvré」なのだ》ということである。

上の質問は私の意図に完全に合致する。知覚システム(脳・身体)自体が生から遠ざかろうとしている(痴呆)ときに、知覚が力を振り絞ってもう一度生に復帰しようとした時、「知覚の論理」からすれば、手近の最も火急の現在に必要な記憶(近親者の再認)であるはずではないか。なのに、そこにではなく、現在とは何の関係もない遠い過去(青春の日々)に戻ってしまうという事態を、「純粋記憶無力説」は説明できない。

私は純粋記憶は無力なのではなく、無為と解釈すべきだと考える(そのテクスト根拠は発表で提示した)。つまり火急の関心と結びつくわけではないが、かといって生とまったく無関係でもなく、潜在状態で滞留している純粋記憶にはやはり生気が宿っており、別の視点から生物に新たな生の一面を見させることに資するものだと考える。

先のケースに関する私の解釈はこうだ。知覚が純粋記憶を探そうとするのはいいだろう(純粋記憶は決して自分を「売り込み」はしない)。だが、どの純粋記憶がその呼びかけに応じるのか――「イマージュ想起」の可能性の条件――という部分で、火急の利害とは一見無縁の、しかし当の生命体にヴァイタリティを再付与し、生きる喜びを再び持たせようとする記憶が選ばれるには、「知覚の論理」から逃れた何かが必要である。つまり純粋記憶の無為が。青春の日々を思い起こすことは、現在の火急の必要にとっては迂遠で、無意味とも思われよう――大学における哲学教育、人文学教育、教養教育がそう見えるであろうように。

無為(désoeuvre)は決して無力(impuissance)ではない。ただ、火急の必要から逃れてぶらぶらしているのである。それは決して無意味ではない。ここに私はベルクソン哲学の重要な対立項として私がこれまでの論文で何度も強調してきたもの、すなわち「功利性utilité」と対立し、それを絶えず鋳直す「効力efficacité」があると見る――私が発表の最後に触れた時事問題は、もちろん私の私的な感想を超えて、ベルクソン哲学そのものと結びついているがゆえに言及したわけだ。

純粋記憶もまた、生命力の一部なのである限り、私がsur-vieと呼ぶものにほかならない。生命は種の保存に関わるだけではない。明らかに種を乗り越えて進もうとする過剰で、過激な側面を持っている。従って生命とはsurvie(生き残りを賭けた戦い、サバイバル)であるだけでなく、常にすでに既成のvie自体を乗り越えて(surréalismeのようなsur)進もうとする超‐生sur-vieなのである。

sur-vieはsurvieから見れば明らかに遠回りをしたり、無駄と思われることもする。実際、失敗も後退もするだろう。だが、それは決して「無意味」ではない。「無力」とも違う。

純粋記憶を身体に対して完全に無力と考えると様々な困難が生じる。特に、明らかに精神的な要素を色濃く持つ(「超意識」とも呼ばれる)エラン・ヴィタルとの関係はどう考えるのか。異なる理由からではあるが「純粋記憶無力説」に立つドゥルーズも、故・石井敏夫先生も、この点を説明できないように思われる。

Sunday, May 17, 2009

祭りの後

本日何とか無事に発表を終える。コメントを頂戴した方は勿論、会場にわざわざ足を運んでくださった方々、立ち見までしていただいた方々、「聴きに行けないけどごめんね」と気を遣って下さった方々、本当にありがとうございました。

非常にタイトな条件の中でつくったものとしては、話の「内容」はまあまあの出来だったと自分では思っている。少なくとも自分が今までに書いた『物質と記憶』論(博論の1つの章も含めて4つほど書いた)の中では最も遠くまで進み、少しずつではあるが全体像をすっきりと見通せるようになってきた。去年ブラジルでやった講演はポルトガル語にまで翻訳されたのだけれど、今読み返すと相当恥ずかしい。dmに悪いことをしてしまった。

今回の発表の問題は「形式」。まず、レジュメの形式。完全原稿コピーはどうしても嫌で――「聴く」という哲学的な体験を重視したいので――、各セクション毎に、1)話の流れの要約、2)引用、3)論点を配置。自分なりにすっきり整理したものをつくったつもりだったのだが、mk御大から「話はクリアでよかったが、レジュメが読みにくかった」と言われてしまった。

次に、口頭のパフォーマンス。やはり疲れていたり、寝不足が続いていたりすると、滑舌がいくぶん悪く、少し引っかかるところが何回かあった(でも元気な時は読み上げが早すぎると言われることもあるので、一長一短かもしれないが…)。

これは今回、文章のレベルが低かったこととも関係している。発表で「諸事物~」みたいな翻訳をそのまま使ってはダメだ。

理想はやはり一度聴いて(それも完全原稿のコピーなしで、レジュメか、引用一覧程度で)分かるようなもの。

ymさんからも「今日みたいな感じでやりたいんだったら、アドリブじゃないと」と言われてしまった。今までは読み上げ式でも聴きやすいように文章に工夫をしてきた(つもり)なのでそんなことをいわれたことはなかったのだが、今回はそのへんの努力が足りなかった。

就職後の研究スタイル、リズムを確立しないといけない。

Friday, May 15, 2009

いよいよ

学会発表は日曜日。授業準備に追われてここまでまったく準備ができなかったのだが、本当に大丈夫なんだろうか。初年度なのだから慎重にやめておこうという気持ちと、いやそんな中でも何とか研究を続けていけるように今から訓練しておかねばという気持ちのせめぎ合いで、結局チャレンジすることにしたのだが、さてどうなることか。

Thursday, May 14, 2009

説教と講演、そして講義

樋口和彦『聖なる愚者』(創元社、2002年)を読んだ。著者はユング派のプロテスタント。どこかで聞き覚えのある名前だと思っていたら、同志社大学神学部で36年間教えていたそう。もしかすると講演会とか聞いたことがあるのかもしれない。京都にいた学部生の頃は、実にいろんな分野の実にいろんな人の講演を聴きに行った。

《私は説教と講演とはまったく違うものだと思っている。しかし、一致しているところも多くある。どちらも話す人は一人で、聴衆はいつも黙って聞いている。それでいて、両方ともつねに双方コミュニケーションである。実際、話すこちらが下手でも、受け取る人々が温かく聞いてくれると、こちらもつい嬉しくなって、結果としては思ったよりよい話ができるようである。しかし、どうしてもあちら様がおよびでないときには、さっさと諦めて早々に切り上げるに越したことはない。

そうは思っても、準備をしていないときほど、もう一度聴衆を感激させたいと、下手な新米の飛行機の操縦士のように何度も何度も着陸を繰り返し、やがてだんだんと話がくどくなって、ついに終えられなくなり自滅することもある。これは、なんといっても悲惨である。

ただ、私の経験から言うと、講演では自分が「今日はうまくできた」と思ったときは、だいたい聴き手も喜んでくれているようであるが、説教はその反対で、自分が「うまくできた」と思ったときは、実は駄目なときである。むしろ「うまく言えなかった」とさんざんな思いで講壇を降りたときのほうが、あとから「よかった」と感じてもらえることが多いようで、これはまことに不思議なものである。その差はどこにあるのだろうか。

講演の目的は、自分の考えを人に上手に話すことであって、あくまでも自分が中心である。聞いている人も、その話を聞いて自分に何かが付け加わるから、得をしたようで嬉しいのである。しかし、どうも説教はそうではないようだ。

私は、説教は聴いている人の持っている何かを、つまりその人の拠って立つ自信のようなものを、ひとつひとつ取りはずしていくような作業だと思っている。その人のそれまでの人生で最も大切にしてきたものを、はずしていくのである。人が悪いと言えば、そうとも言える作業である。なにしろ説教は、自分が語るのではなく、「神が語る」のであり、神の声が人間の言葉の中から聴き取れなくてはならないからである。》(2‐4頁)

大学の「講義」は、いやより正確には、私の大学の「講義」は、説教なのだろうか、講演なのだろうか。少し考えてしまう今日この頃である。

Tuesday, May 12, 2009

カナダ

カナダの研究者と本を贈り合おうといって数ヶ月経つのだが、お互いに相手の本を受け取れないという奇妙な状態が続いていて困っている。

こちらの本が相手に届かないのは、お願いしていた先生がお忙しかったからで、それは仕方がないのだが、その後再三の催促(すみません…)によって郵送されたはずで、未だに届かないというのは分からない。

さらに分からないのは向こうの郵送物で、「すでに一か月前に出した」とメールをくれているので…。大学内で行方不明になっているのか?

Monday, May 11, 2009

ルターその4:ひとくちに「宗教改革の結婚論」といっても…

ひとくちに「宗教改革の結婚論」と言ってもさまざまである。周知のように、ルターが「95カ条の提題」を「城門に打ち付けた」(かどうかも議論の的なのだが)のは、当時城門が大学の掲示板代わりに用いられていたからであり、彼としては学術的な討論を呼びかけただけであった。

したがって、一般の人々の生活に直接的な影響を与えたという意味での「宗教改革」は、むしろカールシュタットやメランヒトン、アウグスティヌス隠修士会のガブリエル=ツヴィリンクといったヴィッテンベルクでのルターの同調者たちが、彼らなりの福音主義に基づいて具体的な改革運動を始めたことに端を発するのである。

結婚についても同じことで、たしかにルターはすでに「バビロンの幽囚」や「ドイツのキリスト者貴族に与える書」のなかで《結婚は神が制定したものであり、司祭が結婚することは神の意にかなうことだ》と主張してはいたが、司祭や修道士たちの結婚を実際に認め、奨励し、自ら実践し始めたのは、前述の急進的改革者たちだったのである。

司祭兼修道士であったカールシュタット自身が結婚したとの通知にルターは驚いた。《理論から過激で理論的には稚拙なものが生まれ、それが理論を追い越し、理論をあるいは後押しし、あるいはより精緻な方向へ、あるいは別の方向へ修正させる》という現象の一例であろう。

小牧治・泉谷周三郎『センチュリーブックス(人と思想9) ルター』(既出)にこうある。

《ルターにとって、敵は、教皇側の勢力だけではなかった。ルターに同調した人々のなかからは、まだ急進主義的傾向は消えていなかった。いやむしろ強まっていた。カールシュタットは、ヴィッテンベルクを追われて、オルラミュンデの教会に移ってから、ますます急進的になっていった。彼は幼児洗礼をやめ、聖徒の画像と教会音楽を非難し、ミサにおけるキリストの現在を否定し、牧師に結婚を義務づけるにいたった。こうしたカールシュタットの急進主義は、ルターには、人間の内面を軽視し、外面的なものを過度に重要視する新しい律法主義のように思われた》(93頁)。

Sunday, May 10, 2009

ルターその3:結婚テーブルトーク(十字架としての結婚)

引き続き宗教改革における結婚論。宗教改革と結婚が深い関係をもっていることは、大学人程度の教養があれば誰でも知っている。後はそれをいかに深められるか。日々是努力。

まず、ルターを英雄的な改革者にしすぎず、しかし着実に新しかった「世俗化」的な側面を見落とさないよう、警戒しておく必要がある。彼による結婚の「宗教改革的転回」の意味を見定めるためには、次のような「亭主関白」(笑)と同時に子供への目線も心にとめておく必要がある。「子供」に対する視線がパウロの結婚論にほぼ欠けていたことを想起しよう。

《ルターの夫婦観は、ドイツ人らしい「亭主関白」であった。彼によれば、夫は妻の頭であり、妻は夫を愛し、その命令に服従すべきである。もちろん夫は妻を親切に指導すべきであるが、夫は根本的には妻を支配すべきであった。これは当時としては一般的な夫婦観であった。

ルターは結婚して、結婚が神の恵みであると感じた。彼は語っている。「わたしは全世界のすべての教皇の神学者よりも富んでいる。なぜなら、わたしは満ち足り、そのうえ結婚によってすでに三人の子供を与えられたが、教皇の神学者たちは子供を与えられていないからである」》(小牧治・泉谷周三郎『センチュリーブックス(人と思想9) ルター』、清水書院、1970年、101頁)。


ここで、ローマ的結婚とは異なり、子供は家系の維持のためのものと考えられていない(ように見える)。



スティーヴン・F・ブラウン『〈シリーズ 世界の宗教〉 プロテスタント』(原書2001年、五郎丸仁美訳)、青土社、2003年。
藤代幸一編訳『ルターのテーブルトーク』、三交社、2004年。

前者は味もそっけもない概説書の典型である。が、苦痛をおして読む。努力とはつまらないものを我慢して読むことでもある(ほんとの努力は「考える」ことだけどね)。面白いものばかり読むのを努力とは言わない。

後者は、「在来の『卓上語録』にまつわるイメージから脱却し、新しい時代、新しい読者に対応できるように」、編集部からの提案でTischredenを「テーブルトーク」としたそうだ(「あとがき」、277頁)。最初ギョッとしたが…。中身は、徳善氏の本より「人間臭い」ルターの「原典による信仰と思想」という感じ。結婚についても、もちろん一項が割かれている。

が、結婚に関するルターのテーブルトークの数々は、冗談のつもりだったのか、周りのレベルにあわせたのか、率直に言って言葉が汚く("furtz lecher"(屁の穴)!)、理論的な中身としても、パウロ的視座――姦淫や売春に対する「良薬」としての結婚――とさほど変わりがない。

《そもそもキリスト教徒でありたいと願うわれわれは、聖パウロも「神は淫ら者や姦淫する者を裁かれるのです」(「ヘブライ人への手紙」13:4)と言うよう に、神の言葉に公の命令を見ている。(…)神の慈悲による良薬は、結婚ないし結婚生活に入るという希望である。しかしながら売春を罰せずに大目に見たら、結婚生活という薬や希望をなぜ必要としようか?》(6924←ワイマール版ルター全集中の卓話の通し番号)

『テーブルトーク』の中では、次のような宣言が唯一いわゆる「ルター的」な結婚観をほんのわずか垣間見せるものであった。やはり彼の論文(前出)を読まないといけない。

「神は結婚生活の上に十字架をつくられた。そしてその上には、教皇と悪魔は結婚生活に敵意を抱いているとの言葉が響き渡る」(1008)

Saturday, May 09, 2009

ルターその2:ヘッセンのフィリップの重婚問題(約束、誓いの重要性)

ルターの結婚観を語る上で、「ヘッセンのフィリップの重婚問題」は一つの試金石となるだろう。例えば、カルヴァン派と思しき論者はこう言う(後に見るように、この本はいろいろ教えてくれるが、それはカルヴァンの結婚論についてではない)。

《結婚を否定する形式主義との戦いはなされたが、結婚そのものの意義がそれによって積極的に打ち立てられてきたわけではなかった。一つの例にルターの場合がある。ルターは一修道女と結婚し、平和で敬虔な家庭を作った。それはプロテスタントの家庭生活の模範といってもよい。だが、彼は結婚についての明確な理念や理想を持っているわけではなかった。彼の保護者であり、プロテスタント諸侯の旗頭であるヘッセンのフィリップが、妻をもう一人持とうとしたとき、ルターは反対ができなかったのである。それは、権力者に頭が上がらなかったからではない。ただ、積極的な結婚観がなかったため、誤った結婚観を是正できなかったのである》(渡辺信夫『センチュリーブックス(人と思想10) カルヴァン』、清水書院、1968年、78頁)

しかし、日本のルター派の本丸『ルターと宗教改革事典』(既出)はこの間の経緯をこう説明する。

《ルターは、結婚のサクラメント化や、独身が功績とされること、近親結婚の禁止に洗礼の名親まで含めるようなことには反対したが、その他の多くの点ではそれまでの戒めを踏襲した。当時ヘンリー8世の離婚および再婚の問題があり、それを理由にイングランド教会はローマ教会から独立(34年)したが、ルターはその離婚に反対した。彼は約束を重視して離婚を退け、問題のある場合に「離婚よりも重婚を選ぼうと思うほど」だと述べた(「教会のバビロン捕囚について」、同第3巻)。しかしヘッセンのフィリップの重婚問題(40年)では、ルターをはじめ改革の陣営の者たちが了解を与えたということが明らかになって、非難を受けた。ルターは懺悔を聴く牧師として、良心の悩みに対する秘密の勧告のつもりであったし、またフィリップについての充分な情報も持っていなかった。いずれにしても、ルターは公に重婚について反対の書を著し(42年)フィリップはそれによってシュマルカルデン同盟の指導的役割から脱落した》(112頁)。

だが、この弁護も少し苦しいだろう。私見では次のものが一番穏当だが、理解すべきはまさに「いろいろと考えた末」に「いいかげん」であった理由なのだ。

《ルターの晩年に、ヘッセンのフィリップに重婚問題が起こった。ヘッセンのフィリップは19歳のときゲオルク公の娘と結婚したが、その後も女性関係が乱れていた。しかし福音主義者になってからは、良心の呵責を感じて、聖餐に臨めないほどだった。当時フィリップは一人の女性に愛情を感じ、結婚することを望んだ。しかし彼には妻があった。それでフィリップはこの問題についてルターに相談した。

これに対してルターは、離婚は姦淫の理由以外には認められないと考えた。そしていろいろと考えた末、旧約聖書のダビデやソロモンの例に倣って、フィリップが第二夫人をもつことは良心に恥じることではないと忠告した。

だが、当時の国法は、第二夫人を禁止していた。それゆえ第二夫人との結婚は秘密にされなければならなかった。ところが新しい花嫁の母が秘密にすることを拒んだので、事件が世間に知れ渡ってしまった。それでルターは、フィリップの相談を受けたのは懺悔室の中だったと嘘をついた。その嘘もばれて、ルターの評判は著しく悪くなった。この重婚問題に対するルターの態度はたしかにいいかげんであった。この点でルターの態度が人々の非難を浴びたことは当然のことと思われる。

また、この事件は、ルターの評判を落としただけでなく、福音主義の運動にも悪い影響を与えた。というのは、フィリップは、そのあとで、皇帝から許してもらう条件として、シュマルカルデン同盟に新しい諸侯を加入させないと約束したからである。フィリップはこの同盟の中心人物であっただけに、この約束は不幸な政治的影響をもたらした。》(小牧治・泉谷周三郎『センチュリーブックス(人と思想9) ルター』、清水書院、1970年、110-111頁)。

ルターの結婚論の中に混乱したものがあったのか、ad hominemに語っていたということなのか。ルター自身をもっと読まないと分からないが、時間がとにかく足りない。 いずれにしても、約束、誓いの問題が結婚論の一つの核心であることだけはたしかである。

Friday, May 08, 2009

宗教改革における結婚論(ルター)

結婚論、パウロの次は、1500年ほど飛んでしまうのだが、前期ですべて終わらせねばならないので、仕方がない。次に重要なモーメントは勿論、「宗教改革」である。手近な本(大学図書館にある本)ばかり読みあさる。

最も役に立ったのは、
日本ルーテル神学大学ルター研究所編『ルターと宗教改革事典』、教文館、1995年の「結婚と家庭」の項(110-113頁)

および
徳善(とくぜん)義和『マルチン・ルター――原典による信仰と思想』、リトン、2004年の「結婚」の項(200-203頁)である。

前者では、ルターの大きな功績は、教会聖職者の独身制の批判と結婚の秘蹟化の批判であったが、他の多くの点では急進的すぎることはなかったと簡潔にまとめられ、後者ではそれが原典で読める。

本来はこちらを読まないといけない。ルターの関係主要著作:
「キリスト教界の改善に関してドイツのキリスト者貴族に与える書」(1520年)、『ルター著作集』第1集第2巻、聖文舎。 「修道誓願について、マルティン・ルター博士の判断』(1521年)、同第4巻。 「ドイツ教団の諸君に、誤った貞潔を避けて、正しい貞潔を選ぶことを勧める」、同第5巻。 「結婚問題について」、同第9巻。

このトピック長くなります。

Thursday, May 07, 2009

二人の中期プラトン(藤沢説と池田節)

哲学史の授業のために、プラトンに関する本を幅広く読んでいる。池田晶子『考える人――口伝(オラクル)西洋哲学史』(初版1994年、中公文庫1998年)さえも。

私は池田のような文体、哲学する姿勢が基本的には好きではない(理由は省略)。しかし、中身に関して面白いと思えばいつでも取り入れるという気持ちだけは持っていたいと思う。また、今、自分が教えている場所にあっては、彼女のようなスタイルこそが求められているのではないかという気持ちも常にどこかで持っていたほうがいいのだろう。

例えば、藤沢令夫が『プラトンの哲学』(岩波新書)で描く初期プラトンから中期プラトンへの変化は、おそらくオーソドックスだと思うのだが、あまりにも「まっとう」すぎる(これは文句ではない)。かといって、以下のような池田説にどれほどの思想性があるかというとこれはかなり怪しいが…。しかし何かある気もする。

藤沢説(せつ)の核心は「中期プラトン=ソクラテス的問答法の延長線→イデア論のプラトンへ」
池田節(ぶし)の核心は「中期プラトン=ソクラテス的産婆術との訣別→エクリチュールのプラトンへ」

どちらが正しいのか。あるいはどちらもが正しいとして、どのように両立するのか。



≪若きプラトンが描いたと思われる初期の対話篇『ソクラテスの弁明』や『クリトン』におけるソクラテスという人物は、ふてぶてしくはあるが、しかし毅然とした人物として描かれている。法廷で弁じられる「正義」をめぐる論説、牢獄での老友クリトンとの最期の対話は、その場面設定の劇的(ドラマティック)さによって、若きプラトンにとってソクラテスという人間の生涯とその終幕が、それだけで衝撃だったことを物語っている。プラトンはこの巨大で異様な人物を仰ぎ見、そして決意したのだ。彼の言行を記し遺すべし、と。

ところが、中期の著作群と目されるものを見ると、ソクラテスの立ち居振る舞いが、妙に戯画的になってくる。『ゴルギアス』に見られるように誰の目にも明らかに「食えない」やりとりをしたり、あるいは『饗宴』では偏執的とも言えるほど論理的に語る一方で、美少年を追いかけまわすというユーモラスな対比を見せる。平然と毒杯を仰いだ神々しいソクラテスが、やたら騒がしいソクラテスに変わるように思われるのだ。

描くプラトンの何が変わったのか。いや、こう問うべきだろう。今やはっきりと現れてきたプラトンのプラトンらしさとは何か、と。文章家プラトンは、生涯を通して、認識と創造、論理と詩、つまりは哲学と芸術の間を揺れていた。揺れつつ両者を統合し、あれら美しくも逞しい哲学の文体を自身のものとしえたのだ。

師とは別の道を通って同じ真理を表してみせようという、一弟子の決意表明。プラトンは、ソクラテスの論理に導かれて真理に開眼し、同時に、その「産婆術」の厳密さゆえの限界も見て取った。論理が認識にもたらすものは、論理によってもたらされるもの以外では決してない。しかもそれが、人生と社会に役立つものに限られるならば、私たちの精神の豊穣な側、例えばホメロスの絢爛たる物語に惹かれるこの心は何だ?――プラトンは、いわば師のうわまえをはねた。論理と心中した男の姿を文章で物語ることで、彼が生きた以上にその真理を表現してやろうと決めたのだ。

中期の大作『国家』。思想を軸にした堅固な構成に支えられ、旺盛に論じまくるソクラテスは、もはやソクラテスであってソクラテスではない、あるいはソクラテスでなくてもよい。認識しつつ創作する、書くことが楽しくて仕方がない。≫

Wednesday, May 06, 2009

持参金って…

まあ、おそらく人文系の恩恵はほとんど無いとは思うが…。

<ポスドク>1人採用で5百万円…文科省が企業に「持参金」
5月6日11時46分配信 毎日新聞

 博士号取得後に任期付き研究員(ポスドク)として大学や公的研究機関で働く人たちの民間企業への就職を増やそうと、文部科学省が、ポスドクを採用した企 業へ1人につき500万円を支給する。国策としてポスドクを増やしながら受け皿不足が指摘される中、「持参金」で企業側の採用意欲を高める狙い。文科省が 企業対象の事業を実施するのは珍しく、09年度補正予算案に5億円を計上した。

 政府は90年代、高度な研究人材を増やそうと、大学院を重点化し博士号取得者を増やした。博士の受け皿となるポスドクは1万6000人を超えたが、企業への就職は進んでいない。日本経済団体連合会の06年調査で、技術系新卒採用者のうち博士は3%だ。

 文科省の調査によると、ポスドクの6割以上は企業への就職も視野に入れているが、企業側の技術系採用は修士が中心で、85%が「過去5年にほとんど採用していない」と答えている。企業側が「食わず嫌い」している状態だ。

 文科省の新施策では、まず企業からポスドクの活用方針や業務内容、支援策などの採用計画を募集。科学技術振興機構で審査した上で、採択された企業に対し てポスドク1人につき500万円の雇用経費を支払う。支援期間は1年間だが、「使い捨て」にならないよう、終了後のキャリア構想も審査するという。文科省 は「実際に採用した企業からのポスドクの評価は高い。何とかよい出会いを増やしたい」と話している。【西川拓】

Tuesday, May 05, 2009

ロック魂(こどもの日に)

西山雄二さん、CIPhのドキュメンタリーフィルムを鋭意作成中だそうです。机の上だけではなく、外に飛び出していく。ペーパーを読んだり聴いたりだけでなく、映像も音も使って哲学してみる。



人に厭味を言ったり、揚げ足取りをするのではなく、自分で新しい動きを起こしていく。いいなあと思います。「ロック」ってそういうことですよね。

西山さんとその仲間たちのパリでのシークレット・ライヴ聴かせてもらったことがあります。あれも面白いなと思いました。こっちは原稿を仕上げるのにひいひい言ってるのに、横で飄々とギター弾いてる(笑)。

思えば先日亡くなったこの人もそんな人でしたね。

***

こんにちは、西山雄二です
現在製作中のドキュメンタリー映画に関してお知らせを差し上げて
います。

昨年夏、7人の関係者にインタビューをおこない、デリダが創設した「国際哲学コ
レージュ」に関する取材をおこないました。
http://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/blog/2008/09/post-121/
http://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/blog/2008/09/post-124/
効率化や収益性が重要視されるこの時代に、哲学がなぜ必要なのか、どのような制度
で必要なのか、などを聞いてきました。
そして、デリダが「国際哲学コレージュ」をどのような思いで創設したのか、その今
日的意義は何か、についても問うてきました。

予告編ができましたので、YOUTUBEに掲載しました。
http://www.youtube.com/watch?v=Ps4VhUAhxSc&feature=channel_page
お時間のあるときに、どうぞご覧ください。
また、興味関心がある方に紹介していただけると幸いです。

Monday, May 04, 2009

結婚というアポリア

あまりに基本的なことではあるが、繰り返し言っておかねばならないのは、《実際に結婚しているかどうか》、《結婚経験があるかないか》はひとまずどうでもいい、ということである。

同じことを裏から言えば、《自分は結婚するつもりがないから関係ない》、あるいは《「婚活」がうまくいって「(すごろくの)上がり」だか ら、もう解決済みの問題だ》とは言えないということである。《不倫や離婚を何度も経験しているから、「逃走=闘争」できている》とも言えない。私が「結婚の脱構築」と呼んでいるのはそういうもののことではない。人生も哲学もそんなに単純ではないのだ。

と同時に、人生も哲学ももっと単純なものだ。私が言いたいのは、結婚という愛・性・家族を「制度づけるもの」が問題として人生の前に横たわっているという単純な事実に驚かないのか、ということである。

《結婚したまえ、君は後悔するだろう。結婚しないでいたまえ、君は後悔するだろう。》(キェルケゴール)

《結婚は鳥カゴのようなものだ。カゴの外の鳥は餌箱をついばみたくて中へ入りたがり、カゴの中の鳥は空を飛びたくて外へ出たがる。》(モンテーニュ)

これらを単純な人生訓と思うなかれ。これらの格言は結婚という「制度づけるもの」の両義性を語っているのだ。

Sunday, May 03, 2009

結婚の脱構築?

《君がよい妻を持てば幸福になるだろうし、悪い妻を持てば哲学者になれる。》ソクラテス

ソクラテスの妻クサンチッペの「悪妻伝説」は、今では「後世の作り話がほとんど」というのが定説のようである。それでも、結婚と哲学は長らくほとんど「二律背反的」な関係にあったといっていいだろう。それはおそらく、プラトンが「哲学」および「哲学者の生き方」を作り上げたということと決して無関係ではあるまい。

…というような具合に、私の「結婚の形而上学とその脱構築」は始まるのだが、しかし、我々はまだこんな風に真剣に話を提示する段階には至っていない。その前に解いておくべき誤解が山のようにあるからである。



「結婚の哲学をやろうと思っています」と言うと、たいてい茶化したような、冷やかな反応が返ってくる。大学論以上に、である。思想家も理論家もまだまともに手をつけていない、にもかかわらず人間の生の中心にかかわる問いだからこそやる価値があるはずではないか。「知的冒険」などと称しても、所詮はすでに価値を認められたものにしか手をつけない哲学研究者が実に多い。

「結婚の脱構築」なのだというと、「フリーセックス」ですか、「不倫」ですか、とくる。前世紀初頭に無理解と戦いつつ理論的地位を 固めた「精神分析」に興味をもつと称する現代思想系の人々までもがそうなのだから呆れてしまう。彼らはフロイトやラカンから一体何を学んだのか。

あるいは、もう少しましな人々はこういう。「結婚なんてもう終わってる制度でしょう」。数年前まで「国家」についてよく聞いたセリフだ。ついこの間も「大学」について聞いた。「大学なんていずれなくなるでしょう。」人は間違えることがある。それはいい。でも何度も同じ間違いを繰り返してはダメだ。この「終わらなさ」、これらの制度のしぶとさ、執拗さをこそ分析しなくてどうする。

Saturday, May 02, 2009

結婚と笑い


《結婚するとき、私は女房を食べてしまいたいほど可愛いと思った。今考えると、あのとき食べておけばよかった。》アーサー・ゴッドフリー


思うに、愛でも性でも家族でもなく、結婚について考えたいのは、私が「笑い」を愛するからではないか。クラシックも好きだが、コメディほどではない。歌舞伎も嫌いではないが、落語ほどではない。

愛や性や家族に関する格言と、結婚に関する格言を比べてみてほしい。おそらくは絶対的な違いが一つある。それは、苦み走ったユーモアが最も冴えわたるのは結婚の格言だ、ということだ。

悲壮めかしたハイデガー論や死と不安の実存哲学が好きでない理由もこんなところにあるのだろう。ハイデガーの皮肉な笑いは嫌いではないが、それを聴きとれない「音痴」のハイデガー屋が多すぎる。

ベルクソンに欠けているのは「性」の問題ではなく、「性差」の問題だとかつて書いたことがある。私なりの答えが結婚論である。と同時に、ベルクソン哲学と結婚論をつなぐものがある。それは単純でありながら単純でない生であり、一筋縄ではいかない笑いである。

《あらゆる真面目なことのなかで、結婚というやつが一番ふざけている。》(ボーマルシェ)

Friday, May 01, 2009

ベネディクト16世「コンドーム発言」の神学的根拠(ストア派的起源?)

元イエズス会士の友人が、「コンドーム」についての教会の「失言」をめぐる哲学雑誌(Philosophie Magazine)への寄稿を送ってくれました。私自身の意見はともかく大筋はこんな感じ。



聖書に曰く"Qui retient ses lèvres est avisé." (Prov. 10:19)、しかしまた、聖書に曰く"Celui qui ménage sa verge hait son fils." (Prov. 13:24)、ベネディクト16世は、コンドーム問題については後者を選んだようだ。さる3月18日、ローマからカメルーンに向かう機中で「コンドームを配ることではエイズ問題は克服できない」と語った。コンドームが不特定多数との性交渉を助長するとの理由などから使用に反対した発言だったが、世界保健機関(WHO)や各国政府、一部カトリック教会からも「非科学的」「人命軽視」との批判が相次いだ。

メディアを駆使した大規模ミサで庶民的な人気を博したカリスマ的な指導者ヨハネ=パウロ2世に対して、知的営為によって深刻な問題を解決しようとする学者肌の現教皇。前任者もたしかにコンドーム反対の立場だったが、彼は少なくともコンドームが「問題を深刻化した」とは言わなかった。理性と信仰の新たな結びつきを謳って出発した新教皇の口からこのような発言が漏れようとは。しかし、少なくともこの件に限って言えば、彼の「失言」は、哲学の欠如からではなく、哲学の過剰から来たものだ。

この半世紀来、教会は「自然法」概念の復権に力を貸し与えてきた。理性は生まれながらに普遍的な道徳原則を見出しうるものであり、このような法則は人類に共通の財産、信者と非信者の議論と相互理解のための場というわけである。生命科学の発展に沿う形で、ヴァチカンはますますこの自然主義的な方向性を強めてきた。女性の出産サイクルなど――最近は「婚活」から「産活」に話題が移ろうとしている!――生物学的プロセスはすべからく、尊重すべきある「目的」によって規定されていることを理性は認めねばならない、ゆえにセクシュアリティと再生産を人為的・意図的に分離するあらゆる試み(避妊・中絶)は非難されるべきだ、と。ここまでは新教皇も同じである。

パウロ6世およびヨハネ=パウロ2世が自然法に依拠したのは、彼らの神学的な参照先がトマス・アクィナスの『神学大全』だったからである。「差異の合理的思想家」トマス・アクィナスにとって、人間理性は神的本質についていかなる直観も持ち得ない。天と地の区別は絶対であり、自然法は永遠の法ではない。

これに対し、ベネディクト16世が依拠する「全体性の神秘的思想家」アウグスティヌスをはじめとする教父たちは、明確な区別をやんわりと拒む。人間理性はすでに神的な光に浸っており、理性の発見する諸原理はすでに神的である。

人間精神を神的ロゴスにまで高めつつ、このロゴスを恒常的に宇宙を定める力にするという教父たちの身振りは、実は純粋にキリスト教的なものではない。人間とは隈なく神的かつ合理的な宇宙の中の小宇宙だとするストア派的である。そしてここに問題の鍵がある。自然のまったき合理性の名のもとに性的活動を再生産(生殖)に限定するという身振りは、ストア派の厳格な一夫一婦婚道徳に由来する。ストア派的な神的=人的ロゴスがありとしあらゆるものの原因であり規範である以上、賢者はそこに記された法を読み取り、ただ「自然に従う」だけでよい。

だが、中世に始まる西洋近代の合理性は、理性が己の自律と同時に己の限界を見てとったときに生まれたはずのものである。その自律と限界を超えてなされる発言は妥当性を欠くという自戒、これこそ、ハーバマスとの対談も含めて、一連の発言において新教皇が認めないものなのである。科学技術の発展において勝利すると同時に、形而上学的な越権行為においては厳しく制限された近代的理性に対抗して、ベネディクト16世は、自然とその創造者、人間理性と神的ロゴスを同一の運動に含みこむストア派的な全体的理性に回帰しようとする。神的なロゴスに連なり、全体を直観する人間理性からすれば、存在の位階秩序を乱す技術的理性は部分的で偏ったものであり、コンドームは「問題を深刻化する」ものでしかない。

たしかに、トマス・アクィナスも「反自然的」な振る舞いについて語っているが、彼は天と地、永遠の法と自然法の間に不可逆的な亀裂が生じ始めた地平においてそうしていたのであり、この亀裂を埋めうるのはただ、神の恩寵だけだ、としていたのである。ヨハネ=パウロ2世はこの伝統を継いで、個人的なキリスト信仰に根ざしたスピリチュアリスト的な態度を堅持した。

これに対し、ベネディクト16世は、キリストへの信仰ではなく、人間理性と宗教を同時に含みこみ規定する偉大な永遠のロゴスによって道徳を基礎づけようとする。「あたかも神が存在しないかのように」、全体的な自然の秩序へと回帰することで、信仰から独立した道徳を打ち立てようとしているかのようだ。