Thursday, April 30, 2009

便り

とてもお忙しい方から気にかけていただいて、メールを頂戴するのは本当にびっくりもし、嬉しくも思います。どうもありがとうございました。

哲学と大学に関する例の仏語版、海外の友人たちから反響が聞けて嬉しいかぎりです。先述の重要なドゥルージアンpm、フランスで博論準備中のイタリア人cz、フランスBernayで大学の先生をしているad、ギリシャの大学の先生da、元イエズス会士のフーコー研究者で今は哲学系ライターで何とか食いつないでいるpc、リールの高校の先生夫婦lp&cp。懐かしい友人たち。

大学のseuilをどうにか越えた人たち、越えようとしている人たち、別の道を選んでいった人たち…。「既定路線」に乗っかってあっさり「就職」を決めていった(「先生たち」の力で決められた)人たちにはたぶん分からないであろう思い。「制度づけるもの」が哲学的な問題として実際に生きられる。

Wednesday, April 29, 2009

ローマの女性たち(続き)

最近、新書ばっかり(笑)。

時間がないので、ごく簡単に言えば、「堕落」の原因を問う以前に、ローマ主義者塩野七生は、『ローマ人への20の質問』(既出)で、それは「堕落」ではなく、解放された女性の在り方だったのだ、それがキリスト教道徳によって縛られていくことになるのだ、と説く。例えば、アウグストゥスが成立させた「ユリウス姦通罪法」は、女性たちの逞しい戦略(自分は娼婦だと言い張る)によって実際には骨抜きにされていたのだと見る。

他方で、弓削達『ローマはなぜ滅んだか』(講談社現代新書)で、もう少し陰影に富んだ見方をしている。「堕落」はたしかにあったが、それは当時の男性上位社会の「徒花」であったのだ、と。

いずれにしても、キリスト教側から単純に「堕落したローマ」という見方をしない点で、塩野と弓削は一致している。

そのうえでいえば、塩野の見方はいささか単純すぎる。ローマ女性は、ギリシア女性に比べて、財産権が確立し、経済的自立を達成しており、宴への同席が認められ、家政全般を取り仕切っていたから、ローマ女性の地位は「強く確固としたものでした」というが、それが相対的な自立にすぎなかったこと、「イエ」の存続のための結婚にあっては女性自身が一つの「財産」であったことも強調されるべきだろう。

初代皇帝アウグストゥスの娘ユーリアは、『愛を考える』(既出)では、「結婚後も複数の愛人を持ち、その愛人の一人と皇帝暗殺を企てて流刑になった」と述べられ、「当時のローマは堕落と退廃に満ちていた」ことの代表例とされているが、おそらく弓削の次のような見方のほうがよりニュアンスに富んでいる。

《高い教育を受け、知性と教養にあふれたエリート女性たちは、一握りの支配層の家族に連なり、巨万の富に支えられ、夫たちのように政治や軍事に時間をとられることがなかった[直接関与することができなかった]から、文学を愛し、政治の話に耳を傾け、市井の情報に通じていった。彼女たちが、いつまでも男の言うなりになる女性であり続けることはできなかった。彼女たちは解放され、自立する。

 そのような女性の一人に、アウグストゥス帝がスクリボニアから産んだ娘ユーリアがいた。父皇帝の政治の道具として使われ、初めはマイケナス将軍に嫁ぎ、やがてはリウィア皇后が先夫から生んだ息子、二代目皇帝ティベリウスと結婚させられた。父によって政略結婚はさせられたが、夫に縛られることなく、誠に自由に振舞い、性的にも解放された女性となった。ユーリアの「身持の悪さ」は、男性社会の頂点に立つ父アウグストゥスの逆鱗に触れ、ついに追放された。》

塩野は、さすがのアウグストゥスも姦通を刑法で罰するなどとは非ローマ的で野暮な過ちを犯したというのだが、アウグストゥスが既存の法を強化しただけだということを見れば(弓削、136頁)、彼女のいうローマ的な截然とした公私の別も少なくともこの点には及んでいないようだと考えたほうがいいのだろう。

Tuesday, April 28, 2009

ローマの女性たち

『愛を考える』(既出)第4章は、キリスト教的(パウロ的)な愛概念の出現を際立たせるべく、一世紀までのローマを「堕落と退廃に満ちていたようにも思われる」が、「古代地中海世界での性をめぐる事情は、1世紀後半を境に少しずつ変化が起きている」という。

この主張の根拠として引用されているのが、本村凌二の『ローマ人の愛と性』(講談社現代新書、1999年)である。「彼[本村]によれば、性にまつわる事柄を『汚らわしい』ものとして忌み嫌う意識が、だんだん強くなっている。『言い換えれば、性的事象を日常世界から排除する意識、あるいは異常なものとみなす意識が、徐々に表れ出てきているのである』[本村]」。

もちろん第4章全体を通じて「キリスト教が性概念の変革を引き起こした」などという単純な主張はなされていない。1世紀後半にパラダイムチェンジがあり、「このような変化の時期に、キリスト教は地中海世界に広まっていった」とされている。「性的不品行から離れるようにしなさいという倫理的な教えや結婚に関する記述が、新約聖書の書簡にしばしば見られるのも、このような風潮を反映していたと考えることができる」。問題は、「堕落と退廃」が満ちた原因である。

Monday, April 27, 2009

思考と体格(と政治経済)

塩野七生(ななみ 1937-)の『ローマ人への20の質問』(文春新書、2000年)より。

《発掘した人骨の研究によれば、ローマ帝国盛期の体格に戻るのは、中世の一千年を経て後のルネサンス盛期になってからなのです。体格は生活水準の反映でもある。ローマ時代の部屋が広々としているのに中世の部屋が狭いのは、そこに住む人の体位に適合するように造られたからでしょう。そして、体格の良かったローマ人が生きていた時代の半ば以上は、悪帝とされる人々が統治していた時代だったのですよ》

思考はどうなのだろう。思考と体格(と政治経済)。「健全な肉体に健全な精神が宿る」が完全に誤っているということは、「思考と体格には何の関係もない」ということを必ずしも意味しない。

Sunday, April 26, 2009

パウロにおける愛の概念

関西学院大学共同研究「愛の研究」プロジェクト編『愛を考える キリスト教の視点から』(関西学院大学出版会、2007年3月)を読んでいる。

特に、
辻学による第2章「隣人愛とイエス、初期キリスト教」
嶺重淑(みねしげ・きよし)による第3章「愛の讃歌 第一コリント書13章にみるパウロの「愛」の理解」
大宮有博(ともひろ)による第4章「パウロは性と結婚についてどう考えていたか 第一コリント書7:1-7を手がかりに」
中道基夫による第10章「キリスト教式結婚式の変遷と愛による神聖化」
あたりが参考になる。例によって細かいところはいろいろあるが、一つだけ。

第一コリント書13章におけるパウロの「愛」の表現に「矛盾」が見られる、という主張についてである。論者の論点はこうだ。
1)13章8節では、愛のみが滅びることのない永遠のもので、それ以外のものは過ぎ去っていく一時的なものだと強調されている。
2)しかるに、その直後、13章13節では、愛以外にも信仰と希望も「存続する」と言われている。
3)1と2は明らかに矛盾だが、重要なのは、矛盾してまでパウロが何を訴えようとしたかである。それは「信仰、希望、愛は永遠である」というよく知られた(しかしながらパウロの思想にはそぐわない)表現を用いることで、愛の永遠性を信仰や希望とともにまず思い起こさせ、そのうえで愛の偉大性をあらためて印象づけようとすることであった。

この論点に至るまでに、著者は従来の様々な解釈を提示し、一つずつその難点を示して却下していくのだが、その最後のものが我々には最も妥当なものに思われる。すなわち、

《「存続する」という表現が終末論的な意味で用いられていることはもはや否定できないであろう。そこで、7節には「(愛は)すべてを信じ、すべてを望み…」とあることからも、愛は信仰・希望を内包しており、そのためにこのような表現になっていると解することができるかもしれない。》

著者がこの解釈を退ける理由は次のようなものだ。

《しかしそうすると、異なる意味で用いられているとはいえ、2節では信仰に対する愛の優位性が明確に述べられている点が説明できず、またそのような理解では、ここまで強調されてきた、他のあらゆる霊的賜物に対する愛の絶対性自体が否定されることになる。》

そうだろうか。まず、2節における「信仰に対する愛の優位性」は、「存続するか否か」を決める基準になり得るようには思われないし、信仰や希望が愛とともに存続するとしたところで、「他のあらゆる霊的賜物に対する愛の絶対性」が否定されることになるとも思えない。異なる層・相を孕む統一体が存続するというだけの話ではないのか。

何より決定的に思われるのは、著者自ら指摘しているように、

《ここで愛と並列されている信仰と希望は、異言や預言などの他の霊的賜物とは質的に区別されている(…)。(…)これら3つのものがここでは統一体として捉えられていることは、これら3つの主語に対して[「存続する」を意味する]単数の動詞(menei)が用いられていることからも確認できる。》

という事実である。したがって第3章の第3セクションには同意できないのだが、そこに至るまでの二つのセクションはきわめて手際よくまとめられていて感心した。授業でも使わせていただきます。

Saturday, April 25, 2009

哲学者の土曜日…

研究室および我が家のマテリアルな整備。郊外にある大型家具店をめぐり、必要なものを買い揃え…。あっという間に夕方。

少しでも時間があると授業の準備。結婚論講義はキリスト教前篇、パウロを扱う。

夜は福岡まで遊びに来て下さったmgさんと、もう一人のmgさんとともに夕食。刺激を与え与えられ。

Friday, April 24, 2009

エラスムス × UTCP

エラスムス、もう私たちの手を離れて独り歩きを始めているようだ。遠隔通信とか、人文系の単体の講演としては、すごいことになっている(松本さんによる報告はこちら)。



エラスムスとUTCPのジョイント(西山さんによる報告はこちら)。少しずつ、少しずつ、新しい世代が、みんなが意識的なわけではないけれど、これまでの「腑分け」――例えば「駒場的なもの」と「本郷的なもの」、例えば「国公立的なもの」と「私立的なもの」といったような――を制度の外からばかりでなく、制度を通して、制度のうちから、変えていこうとしている。そんな印象をもっている。



遠く離れてしまい、今は体力的にもきついので(村上さん、すごいです)、その試みの多くには参加できないのだが、心から成功をお祈りしています。

Thursday, April 23, 2009

アナスの『プラトン』

ただし、アナスの話に戻れば、彼女の言っていることに全面賛成なわけではない。彼女の『一冊でわかるプラトン』を買ったのは、その第4章「愛、セックス、ジェンダー、哲学」を私の結婚論講義で用いるためだったのだが、大筋には合意できても、細かいところが気にかかる。

例えば、『饗宴』の有名なソクラテスとアルキビアデスの話をアナスはこう書いている。

《アルキビアデスはソクラテスに助言者になってもらいたくて、彼を誘い、性的関係にもちこむ決心をする。しかし、屈辱的なことにそれは失敗する。アルキビアデスがそのそぶりを見せ、ソクラテスと同じ一つの外衣を羽織って一夜を過ごすときでさえ、である。ソクラテスはただ、「もしぼくがほんとうにアルキビアデスをよりすぐれた人間にできるのであれば、このほうが単なるセックスよりずっとすばらしい価値があるだろう」とコメントを残すばかりである。》(65頁)

しかし、実際のソクラテスの言葉は、このように積極的な形でセックスと問答法の価値をはかりにかけたりはしていない。その前で立ち止まっている。

「愛するアルキビアデス、僕が本当に君の主張するとおりの男だったら、そうしてもし僕のうちに君を向上させるような何かの力でもあるのだったら、君は実際馬鹿じゃないということになるだろう。

すると、君はきっと君の美貌よりもはるかにすぐれた名状しがたき美を僕のうちに看取しているにちがいない。もし君がそういうものを看取して、僕とそれを共 有しよう、そうして美を美と交換しようとするのなら、君は僕から少なからず余分の利益を得ようと目論んでいるわけだ。それどころか、君は単に見せかけの美を代価として真実の美を得ようと試みる者、したがって実際君は青銅をもって黄金に換えようと企んでいる者だ。

がとにかく、優れた人よ、もっとよく考えてみたまえ。僕には何の価値もないということに君が気がつかないといけないから。」(『饗宴』218d-219a)

ソクラテスは確かに、アナス解釈の前提に当たる部分(もしぼくがほんとうにアルキビアデスをよりすぐれた人間にできるのであれば)を述べている(僕が本当に君の主張するとおりの男だったら、そうしてもし僕のうちに君を向上させるような何かの力でもあるのだったら)。

しかし、アナス解釈の帰結(このほうが単なるセックスよりずっとすばらしい価値があるだろう)に当たる部分で実際にソクラテスが「黄金vs青銅」「真実の美vs見せかけの美」として比較しているのは、「問答法vsセックス」ではなく、「ソクラテスの問答法(君を向上させるような何かの力、君の美貌よりもはるかにすぐれた名状しがたき美)vsアルキビアデスの美」である。

このソクラテスの言葉の中に、ただこの言葉だけに沿って、先に見たアナスのような解釈を見出すのは難しいように思う(むろん、他の対話篇に助けを求めるのなら話は別であるが、それではアルキビアデスのこの逸話を特権視することはできなくなる)。

少ない言葉で、入門者向けに意を尽くすのはとても難しいことだというのは十分理解しているので、批判するつもりは毛頭ないが。

Wednesday, April 22, 2009

叢書の地政学ふたたび

最近読んでいる本。

ジュリア・アナス、『1冊でわかる 古代哲学』、岩波書店、2004年9月。
ジュリア・アナス、『1冊でわかる プラトン』、岩波書店、2008年12月。

哲学の専門家として、「1冊でわかる」シリーズを読んでいるなどと公言するのは、私も人並みに恥ずかしいのであるが、しかしジュリア・アナスには前から勝手に親近感を覚えている。というのも、彼女のプラトン「国家篇」についての詳細な読解の仏語訳がPUFでマシュレが(フランシス・ヴォルフとともに)監修していた叢書から出ているのだ。

Julia Annas, Introduction à la République de Platon, préface de Jacques Bruschvicg, traduction par Béatrice Han, PUF, coll. "Les grands livres de la philosophie", 1994.

それに、入門書だろうが、手軽な新書本だろうが、いい本はいい本だ。それから裨益を被っていることを堂々と言えないのはむしろ哲学に携わる者としておかしいとも思っている。

例えば日本人でもフランス人でも、他の著書はコレクション(叢書)名を明記しているのに、クセジュだと明記しない人がいる。白水社とかPUFとか書く。

前から言っているようにどのコレクション(叢書)から出ているかは、その本の思想史的な位置づけを知るための重要な手がかりになる。だから私は自分の研究論文に、他の研究者の著作や論文を引用する際には、それがどんなにマイナーな叢書・雑誌であれ、あるいは「入門的」と称されている叢書、「異端的」と見なされる雑誌であれ、できるかぎり明記するようにしている。

制度への眼差しは、実はこんなところにも表れている。誰にも気づかれないけど(笑)。

Tuesday, April 21, 2009

「評価」を評価する

いろんな人からいろんな反応をいただけて嬉しいかぎりです。ysさんは、『哲学と大学』に関連して、ザルカの雑誌の最新号を教えてくださいました。

Cité, "L'idéologie de l'évaluation", PUF, mars 2009.

特に経済思想や行動理論の専門家(ベルクソンについても論文があります)
Emmanuel Picavet, "Les universités françaises, victimes de l'idéologie de l'"enseignement supérieur""
が興味を惹きます。読んでみたいですね。

「評価」を評価する、と言えば、大学評価学会年報の創刊号を忘れるわけにはいきません。

『「大学評価」を評価する』、大学評価学会、晃洋書房、2005年。大学評価学会のHPはこちら



人を評価してばかりではいけませんね。昨日、昨年勤めていた非常勤先の公式アンケート結果が返ってきました。一番高かった(4.6)のが「教員の熱意」「教員の声は聞き取りやすかったですか?」で、「説明の仕方は分かりやすかったか」(4.4)、「受講の意義」(4.3)より下って(笑)。あの崩壊寸前のクラスを立て直すために金八先生を故意に演じたのを理解しろというのも無理な話なのかもしれないけれども。他の項目もほぼすべて4点台前半。

4を切った項目が二つだけあって、
「到達目標の内容が身についたか」(3.8)
「授業の進度と課題を出すタイミングは合致していましたか?」(3.8)

前者は「ねらいや学習目標は理解できたか」(4.4)との落差、
後者は「小テストの実施は授業の理解に役立ちましたか」(4.3)との落差が気にかかる。特に後者に関しては、「宿題の答え合わせを次の時間中にできないことがときどきあったのでなるべく出した次の時間にやってほしいです」という指摘には真摯に答えないといけない。

自由記述欄は、肯定的な意見が5、消極的な意見・提言が2。
・夏学期から授業をもっていただいてたら良かったと思います。大学の授業というより高校の英語の授業みたいな感じでした。
・教科書は分かりにくかったが先生の説明は丁寧でしかも繰り返して下さったのでとても分かりやすく前期から先生だったらよかったのにと思いました。小テストもとても役立ちましたし、メリハリのついた学習ができました。ありがとうございました。
・きつかったです。他科目との兼ね合いを考えると、もう少し課題を少なくしたほうがよかったと思います。
・前期とは違い、とても有意義な授業でした。先生のおかげでフランス語がきらいにならないですみました。ありがとうございました。
・大変だったけど、めっちゃ面白かったです。
・宿題の答え合わせを次の時間中にできないことがときどきあったのでなるべく出した次の時間にやってほしいです。
・みんなのやる気を出させてくれました。

書いてくれたみなさんありがとう。今後の授業に活かします。

Sunday, April 19, 2009

熊野純彦×西山雄二、もう一つの哲学と大学

先日行われた『哲学と大学』刊行記念イベントの報告です。



大学の授業はまだまだ手探りが続きそう。「哲学」の授業ばかりなので自分の専門に近いという意味ではいいが、準備にかなりの時間がとられる。

語学の授業はその場での体力はかなり使うが、事前の準備はさほど要らなかった。専門の演習は多少準備が必要だが、やはりそれほど違いはない。

学部の講義、それも授業内容以前に、まず興味を持たせる(そして絶えず興味を惹き続ける)努力を必要とする環境での講義はなかなか難しい。

Saturday, April 18, 2009

結婚の形而上学とその脱構築に向けて(2)

ハイデガーが引いていた逸話とは、アリストテレスの『動物部分論』に見出されるものである。

《ヘラクレイトスについてひとつの言葉が語り伝えられています。これは彼の前に押しかけてゆこうとした他所の人たちに、彼がいったという言葉です。人々が彼に近づきながら見ていると、ヘラクレイトスはパン焼き窯で身を暖めています。彼らは驚いて立ち止まりました。しかもとりわけ彼らが驚いたのは、ヘラクレイトスが彼らに向かって「ここにもまた神々は在(おわ)します」と語って、ためらっている人たちを室内に招き入れようとしたからであり、また彼らにそのような気を起こさせたからです。》

偉大な哲学者は絶えず何かしら驚嘆すべき境位に身を置いているはずだと勝手に信じ込んだ人々が、ヘラクレイトスの住まいにまで押し掛けてきたものの、彼の住まい/佇まいを一目見て、失望する――ここにもまた、前に述べた「気づかないことへの気づき」がある。直ちに踵を返そうとする客人たちの顔に裏切られた好奇心を読んだヘラクレイトスは、彼らに再び、しかし今度はより哲学的な好奇心を生ぜしめようとして、こう言うのだ、「ここにもまた」と。ハイデガーはこの一句を次のように解釈する。

《「ここにもまた」、パン焼き窯のそばに、このありふれた場所に、そこはいつも、どんなものでも、どんな状態でも、どんな行為でも思考でも、親しくまた寛げて、すなわち心安く、「またそこにもすなわち」、心安さをめぐって、「神々が在す」のです。すなわちヘラクレイトスは「(心安い)居所が、人間にとって、神(という心安くないもの)の生成のための広場である」というのです。》

ハイデガーはパン焼き窯の間近まで来ながら、その傍を素通りする。たしかに彼は、「倫理」を「社会的動物としての人間のありよう(倫)を筋道だてて考える(理)」何かと見なすだけでは満足しない。ethicsとは、ギリシア語のēthos(習俗、性格)に由来し、個人的には「よく生きること」の実現、社会的には人間関係一般を規定する規範や原理の確立を目的とする学問だ、というだけでは満足しない。

「エートス(ethos)は滞在、すなわち住まいの居所を意味する」とし、「ethosという語の基本的な意味に従って、倫理学(Ethik)という名称が、人間の居所をよく考えるということを意味するなら」と語っていたのは、間違いなく『ヒューマニズム書簡』である。

だが、まさにその『ヒューマニズム書簡』において、「心安いもの」「ありふれたもの」は、存在に酔える哲学者たるハイデガーの視線の中では、あくまでも心安くないもの、すなわち存在の生成のための広場、「まさしく日常的なありふれた場所」にすぎない。「パン焼き窯のそばにいながら、パンを焼こうともしない」ヘラクレイトスを見て、ハイデガーはこう言い切るのだ。「彼は体を暖めているだけです。こうして彼は、彼の生活のまったくの困窮を表しています。寒そうに縮こまっている…」

しかし、ヘラクレイトスの視線の先にあったのが、タレスのように星々ではなく、まさしく「心安いもの」「ありふれたもの」「日常的なもの」そのものであったとしたら、どうであろうか。そして、タレスの転落――accidentの語源accidere(起こる)はcadere(落ちる)に由来する――と同様に、ヘラクレイトスの住まいと佇まいもまた、理論的なものの荘重さを転落させ、しかしそれと同時に、「気づかないことへの気づき」によって理論と実践の関係の核心へと私たちを近づけてくれるものであったとしたら、どうであろうか。存在の思惟へと上昇し高揚していくハイデガーの「根源的倫理学」に抗して、それを転落させ、理論的な思考そのものの方向性を転回させ、日常的なものの思惟へと私たちを手繰り寄せるéthique accidentaleとでも呼ぶべきものがあるのだとしたら。

ここで倫理学が哲学の対立項になっていないのは明らかである。繰り返す。哲学が驚きから始まるとすれば、倫理学は失望から始まるのではないか。そして倫理学とは哲学の対立項ではなく、その折り返し、襞、転回そのものである。

マシュレが、ヘラクレイトスのパン焼き窯(に関するハイデガーの解釈)とサルトルのアブリコット・カクテルを対置することによって、『ささやかなこと。日常的なものの轍と波立ち』で描き出そうとしていたのは、「日常的なもの」というささやかで退屈な出来事の連続がいかに哲学の手をすり抜けていくか、しかし哲学がいかに執拗に追いすがろうとするか、であった。

私たちはこれを受けて、『ヒューマニズム書簡』における「倫理学」の位置と動きに注目することで、ハイデガーに拠りながら、ハイデガーの「根源的倫理学」にéthique accidentaleを対置する。ethosが滞在、住まいを意味し、ethicsが人間の居所をよく考えることであるなら、日常生活の現象学こそがそれにあたるのでなければならない。

ところで、卑近な日常生活の重要な一断面、日常を制度づけるものは、ハイデガーだけでなく、現象学だけでもなく、これまでのところ哲学自体が扱いかねているとは言えないだろうか。

Friday, April 17, 2009

遅ればせながら…

それにしてもバリバールという人は本当に律儀な人だ(少なくとも私にとっては)。長らく気づかずにいたが、彼の発表に対してした質問に論文末尾で答えてくれていたのをつい最近まで気づかなかった。しかももうその質問を思い出せない…

Thursday, April 16, 2009

結婚の形而上学とその脱構築に向けて(1)

哲学が驚きから始まるとすれば、倫理学は失望から始まる、と言えないだろうか。

哲学の祖タレスは、夜空を見上げ、天体の運行(驚嘆すべきものextra-ordinaire)を観察するのに熱中するあまり、井戸に落ちてしまったという有名な逸話がある。トラキア出身の侍女はそれを見て、「ご主人様は熱心に天のことを知ろうとなさるが、目の前のことや足元のことには気がつかない」と笑ったというのである。

「哲学者は世間知らず、机上の空論家」とはよく言われることだが、実は、博識なハンス・ブルーメンベルク『トラキアの侍女の嗤い』(1987年)で思い起こさせてくれたように、プラトンからニーチェに至るまで、哲学者たち自身が好んでこのタレスの逸話を語ってきたということはあまり知られていない。この「気づかないこと」への「気づき」、特異な――理論的知そのものの起源が問題になっているのだから――「無知の知」は何を意味するのだろうか。

哲学が躓くまさにこの地点で、倫理学――あるいはドゥルーズがスピノザに関する小著の副題とした用語を借りるなら「実践哲学」――が胎動を始める。しかし、哲学と倫理学は対立する二項ではない。倫理学とは哲学の折り返し、襞、転回そのものである。



ハイデガー『ヒューマニズム書簡』の中で「存在の真理を、明在するものとしての人間の原初的な要素と考えるような思考」を「根源的倫理学」という語で名指しつつも(ナンシーがこの語を注釈している)、次のように述べている。

≪存在の真理を問い、その際、人間の本質の居所を、存在から、そしてまた存在へと規定する思考は、倫理学でもなければ、存在論でもありません。≫

存在への回想、それは、理論的でも実践的でもない、そんな分別めいた区別以前に生じる思考だ、というお得意のハイデガー節である。しかし、私たちは、ハイデガーが基礎存在論、さらには「存在への思惟」の高みへと
荘重に目をやる、その直前の挙措に注目したい。彼は、「倫理学」を根底から考え直すべく、第一の逸話ほど有名ではないもう一つの逸話を引き合いに出していた。

Wednesday, April 15, 2009

エラスムス―共に哲学すること

エラスムスの講義模様。松本さんによる報告の続き

特にフランス哲学系の若手研究者のみなさん、自分の専門に関係のある講義も、そうでない講義も、お時間の許す限り、どうぞ足をお運びください。

ヨーロッパの先生が来ることは珍しくありません。ヨーロッパの学生たちの哲学しようとする姿勢をじかにその目で見てください。可能であれば、彼らと言葉を交わし、議論してみてください。

ヨーロッパの教員・学生と日本の教員・学生が入り乱れて共に哲学すること、それがこのエラスムスの一番の目的だと私は個人的に思っています。

Tuesday, April 14, 2009

一区切り

現代フランス政治哲学研究会@本郷も、なんとか(本当に何とか)責任を果たした(かな)。今回はゴーシェの宗教論と教育論。次回はゴーシェの心理学。

エラスムスもなんとか終わった。私の回も盛況だったので(来てくれた学生さんたちありがとう!)、一応責任を果たせたとホッとしている。会の模様はこちら

と休む間もなく、授業の準備にまた精を出している。「哲学」という彼らが日常生活で経験してこなかった思考の面白さ、厄介さをどう分かりやすく、退屈させずに伝えるか。これを真面目に追求することはおそらく自分のためにもなると思う。

しかし周りを見ていると、優秀な若手研究者が優れた成果を、しかも続々と挙げていて、この運命の不公平さにはなんかめげるなあ。

Monday, April 13, 2009

訂正

何日か前に仏語で出たUTCPブックレットの話をしましたが、題名など違っていました。訂正します。

「哲学と大学」パリ・シンポ→「哲学と教育」パリ・シンポ
Philosophie et Universite a l'age de mondialisation→Philosophie et Education: Le droit a la philosophie

Sunday, April 12, 2009

エラスムス

私の授業でも、ヨーロッパ側以上の人数の日本人が出席し、頑張ってついてきてくれていました。毎回予想を上回る出席数で嬉しい限りです。

今日は朝2限に「生物の丹精=産業。ベルクソン的器官学」について話したあと、お昼をみんなで一緒に食べて、4限に「ポストドゥルーズ的読解に向けて。ベルクソンにおける言語の問題」について授業。なかなか鋭い質問も出たり、専門の研究者の間で丁々発止のやり取りがあったりと、面白い展開でした。

明日は現代フランス政治哲学研究会@本郷。何の因果か(いやすべて自分のせいですが)、この忙しい時期に発表が回ってくる…。

Saturday, April 11, 2009

エラスムス

エラスムス@東京。S新聞が取材に来ていた。われわれの活動が少しでも知られるのはいいことですね。

一つ目の講義は「生気論と目的論」に関するもの。明日は、organologieと言語論。

Thursday, April 09, 2009

少しの反響

とても忙しい日々。驚きと悪戦苦闘の連続。

その中で嬉しい便りがありました。「哲学と大学」パリ・シンポの成果をまとめた論集 Philosophie et Université à l'âge de mondialisation (『哲学と大学』日本語版とは別物)を読んでくれた、フランスのある重要なドゥルージアンから

「Merci pour le livre sur la mondialisation que je viens de lire, c'est un très bon numéro, une approche très intéressante qui permet d'éclaircir vraiement la globlisation au Japon, Italie, France : c'est dommage que je n'en ai pas une épreuve numérique, car je l'aurais donné à mes collègues de l'UTM pour réflexion car nous sommes sur ce sujet justement dans la...... 10ème semaine de grève !!! ps : je retiens ton concept d'alter-rationalisme, très pertinent, qui pourrait s'appliquer aux humanités face aux sciences justement」

という反応が返ってきたのです。単なる儀礼的な言葉と言えばそれまでですが、ふだんあまり率直に褒めない人だけに嬉しかったですね。

Saturday, April 04, 2009

ひとつ前のお返事

京都情報はこちら



昨日の「お返事」ではワンステップとんでいて少しわかりにくいと。順番が逆ですけど、その前のお返事の一部を。



Xさん、いやあ厳しいですね。ありがたいです。これからも辛口コメントをよろしくお願い致します。

マシュレ、ラディカル・斬新・面白いという点から評価することはできない、むしろ退屈だと言ったつもりですよ。ただ、理論と実践の関係についての執拗な問いかけに、僕個人は自分の興味関心の「系譜」を思い出した、と書いただけです。

大学論についても、ラディカル・斬新・面白いという観点から擁護する必要は感じません。団塊ジュニア前後である私たちの世代は、それまでの世代とはかなり違う形で、大学がはらむ問題に直面せざるを得なかった、それを自分の切実な問題として考えざるを得ないし、できるならば哲学的な問題として取り上げたかった、そしてそれを試してみた、それだけのことです。これまでなされなかった一歩を踏み出すとき、それが力みかえって滑稽に見えるのは仕方がない、そう諦めています。

我々の世代は、基本的にまじめでナイーヴではないかと思いますよ。と同時に、Xさんの世代が斜に構えることを基本的スタンスとするのもまた一つの時代精神でしょうけど。

もちろん、そのことを踏まえた上で、それにしても、青臭い「真面目さ」だけで――ただ、従来の人文系研究者に典型的な「不真面目さ」「不良気取り」でも何も変わらなかったではないかとは言っておきますよ――、あるいは「古き良き啓蒙精神」だけで、あるいは「新しく斬新なデリダの大学論」だけで乗り切れるような問題ではない、それはそのとおりでしょう。そして私は自分の論文の後半部でデリダをとりあげ、真正面から批判してもいますし、自分のそのスタンス自体にも決して満足しているわけではありません。

まあ私としては「じゃあこれまでの日本の哲学者はグレフに相当するムーヴメントを起こしたのですか」と言いつつ、ダメな我々若手に喝を入れ、手本を示してくださるべく、Xさんにも「哲学と大学」の動きに加わっていただければと願う次第です。

Thursday, April 02, 2009

お返事

お返事と別の文章に仕立て直す余裕がありません。もちろんお名前は伏せて、私のメールをほぼそのまま使わせていただきます。



私のほうこそ、もう少しユーモアをもった書き方ができなかったものか反省しております。新天地での生活、エラスムスも含め大量の授業の準備などなど初めてづくしで、まだ四月が始まったばかりなのにもうかなり疲れています。

マシュレと大学論、いずれも私にとっては重要な問題であり、Xさんのような鋭い哲学的な視点をお持ちの方からのご意見はとても貴重でした。

いずれもう少し発展させてご返答に当たる投稿を致しますが(いつになることやら)、ひとまず簡略なお答えを。

マシュレ、やはり地味・穏当、さらには退屈さをすら感じさせるものが核にあるというのはたしかにそうだと思います。一番「ラディカル・斬新・面白い」感じがするのは初期の『ヘーゲルかスピノザか』と『文学生産の理論のために』ですが、ネグリのような獰猛な理論的野蛮さも、バリバールのような流行を敏感に察知し、的確かつ華麗な問題構成にまとめあげる能力もマシュレにはありません。

しかし、何かがあります。ヘーゲルのような(それでいて反ヘーゲル的な)鈍重さ、粘り強さ、文学でいえば、彼がよく引くムージルのような執拗さと退屈さ。それは、たぶん即「つまらない」ということとも違うだろうと思います。彼の「ささやかなことpetits riens」に対するこだわり(目新しさへのある種の無関心・無頓着)の中に答えが見いだせないか、と投稿の続きで示唆しようとしていたのです。

私はマシュレからこの理論と実践の関係への執拗な関心を、「哲学と哲学史は切り離せない」という形で受け取り、さらに「哲学と制度づけるもの(ce qui institue)との関係を問わねばならない」という形で発展させていこうと思っています。大学論はその一部ですし、結婚論も、そうは見えないでしょうが(笑)、そうです。

ソクラテスはまさに対話・論争を通じて鍛え上げられてきた「饗宴のネットワーク」の中にいた人、スピノザを「メール(書簡)や地方研究者ネットワークの中にいた人物」と見ています。哲学と「制度づけるもの」はいつの時代も関係していた。それを社会学とは違う形で考慮に入れることは哲学にとって重要だ、と。

ドゥルーズのようなモンスターの出現も、ノルマルやアグレグという制度の存在抜きには語れないと思っています。彼がヴァンセンヌにいたことも偶然ではないし、XさんがY大にいることもそうです。「大学にいなくても自分は哲学し続けていただろう」、あるいはXさんのおっしゃるように

大学を通して私が育てられたという事実は忘れるわけにはいきませんが、私にとって、哲学は大切ですが大学はそれほどの重要性をもたないので、この連辞でものを考えることにあまり意味を見い出せません。」

という意識はかなりの哲学者(日本人だけではなく)が共有していると思いますが――独法化に抵抗したか否かにかかわらず、あの時期に日本で著名な哲学者が哲学的に大学を論じなかったことはその兆候ではないでしょうか――、私はもう少し唯物論的です。ですから哲学と大学の関係を現代の哲学者として問うのは、「闘争共同体」追求の果てに学問の本質が大学という場所から逃れ去るとする当のハイデガーに抗して、「歴運的」だとさえ思っています。

哲学と大学を同一視するつもりも等値だとするつもりもありませんが、現代において哲学が大学とそう簡単に手が切れるとか独立しているという意識を持つべきではないと自戒しているのです。

では具体的にどうすべきか。私にとっての暫定的な結論が、拙論の「制度に関する考察の必要性を説く第一部」と「デリダを批判的に読む第二部」という構成になったわけです。

そのうえで、しかし、独法化の時代に苦しいご経験をされ、かつ哲学的に高い見識をお持ちのXさんから見て、我々のささやかな冒険がユーモアをもって「思考を強制する」ところまでいかなかったとすれば、それはとても残念なことであり、私自身今後の課題としていきたいと思います。

私の稚拙な議論に付き合っていただいて本当に感謝しています。あらためてお礼を申し上げます。