Thursday, December 25, 2008

クリスマスに思う

タカシロツヨシさん(日本の芸能界的には話題の人ですなあ)のブログより。いいですね、無理な背伸びではなく、素直な背伸びの感じがします。ボキャブラリーが私のとまったく違うんで正確に理解できてるかどうか分かりませんけど。

《オーストラリア産の和牛!?ってのに、やられて第三位。なんでも、美味しい牛肉を日本は輸出禁止しているらしく(知りませんでした)、同じ品種で同じ育て方の牛を、広大なオーストラリアの牧場で伸び伸び育てているから、本家日本の和牛より美味しい、とのことだったので行ってみたら、本当に美味しかった。熟成日数の違いを選んで、色々食べられるのも楽しい。いま語るべきは、肉の部位ではなく、熟成期間と熟成手法ですね。[…]

東京はレガシーな食べ物は本当に美味しいが、あとは、画期的な新しい店の登場が待たれる。まだ、コンピュータが来てない国のようである。[…]いまや食の数式的アプローチや、食材のグローバリゼーションは、本当に興味深い。なぜ、スペインやイギリスの田舎で、日本の「梅こんぶ」の話になるのか不思議。なんで、そんなの知ってるの?逆説的だが、東京のレストランでも「コッツウォルズ地方のホメオパシー療法で育てられた牛」を出す店があったら、東京フードシーンも新しい時代を迎えられるだろう。次は手法や産地だけでなく、食材の育て方や教育、哲学までもが語られるようになると思う。東京のギットリとした二十世紀的焼肉カルチャーからの脱却が待たれる。》

フランス哲学研究でも同じで、日本では往々にして本格派のつもりが実は単なる引きこもりの閉じこもりだったりする。本格派をうまく(遮二無二ではなく)野に解き放て。「肉の部位」に関する旧態依然のつまらない訓詁学と、「熟成期間と熟成手法」を熟考する厳密な研究鍛錬の決定的差異。後者は「料理法」や「産地」だけでなく、「食材の育て方」や「教育哲学」にまで深く思い及んでいるのでなければならない。哲学・教育・政治の三位一体が重要だという相も変らぬ話である。

Wednesday, December 24, 2008

違和感

今起こりつつあることはすべて過去の遺産であり、負債である。

大学教員を採用する際に「博士号取得」を前提し、「模擬授業」を課す。それは原則的によいことだと思う。ただ、それらの義務を課されなかった者が、自らの世代に落とし前をつけることなしに、それらの義務を若い世代に押しつけることに違和感がある。現在の教員にも遡って「博士号取得」「模擬授業」を継続採用の義務として課すべきではないか。

育英会にきちんと返済するよう促すシステムを作る。やり方についてはともかく、それは原則的に当たり前のことだと思う。ただ、きちんと返済しなかった人々を大量に含む世代が自分の世代の「負債」に対する反省なしに厳罰化を若い世代に押しつけることに違和感がある。たとえ現在滞納者数が増えているとしても、である。滞納者の金融機関への通報というなら、最も古い滞納者から始めるべきであろう。

大学できちんとした学力を養うことが求められるシステムを作る。それは原則的に良いことだ。ただ、大学を勉強する場と捉えず、「四年間の休暇」「就職のためのパスポート」と捉えてきたすべての人々の蓄積が今、大学をこのような場たらしめたのだという自覚と反省なしの厳格化には違和感がある。たとえ現在加速度的に「学力低下」「学級崩壊」が進んでいるとしても、である。かつて「レジャーランド大学」で遊んで卒業した者たちはどうするのか。

今日本の社会を中核的に担う50代、40代の世代がきちんと自らの世代の負債と向き合ったのか、疑問がある。


卒業認定の厳格化を答申 中教審、学士課程めぐり
12月24日13時33分配信 産経新聞

 大学の学部(学士課程)の教育水準の向上を検討していた中央教育審議会(中教審)は24日の総会で、成績評価や卒業認定について厳格に判断することなどを求めた報告をまとめ、塩谷立文部科学相に答申した。具体的には、学内で統一した評価基準をつくり、学力を的確に把握するよう促している。

 「大学全入時代」を迎えた一方、約半数の私大が定員割れし、地方の小規模大学を中心に経営難が深刻化するなど、大学の抱える課題は多い。学生の学力低下も指摘されており、中教審では平成19年3月から議論を進めていた。

 答申は、大学を取り巻く環境が急激に変化していることを踏まえ、「質の維持、向上の努力を怠るなら、淘汰(とうた)は避けられない」と厳しく指摘。「入りにくく、出やすい」とされる日本の大学に対し、卒業評価の厳格化を求めた。

 その上で、具体策として大学内で学力測定の統一した評価基準を策定、公表することや、客観性のある試験の実施などを挙げている。さらに、学力評価が甘いとされる推薦入試やAO(アドミッション・オフィス)入試にも厳格な学力把握の措置を求めた。

 さらに、学生の職業観や勤労観をはぐくむキャリア教育についても、教育課程の中に位置づけることを盛り込んでいる。

 これとは別に、大学教育をめぐっては、鈴木恒夫前文科相が9月、教育制度の再構築や質保証の対策など中長期的な大学のあり方について、中教審に諮問している。
奨学金滞納者を通報へ 日本学生支援機構、金融機関に
 大学生らに奨学金を貸与している日本学生支援機構は、増加する滞納に歯止めをかけるため、金融機関でつくる個人信用情報機関に年内に加盟し、滞納者情報を通報する制度を導入する方針を固めた。通報された対象者は銀行ローンやクレジットカードの利用が難しくなる可能性がある。
 支援機構が加盟を予定している信用情報機関は銀行など約1400の金融機関が会員。平成22年度の新規貸与者から「長期滞納した場合は通報する」という条件で奨学金を貸与する。所在不明の滞納者情報の提供を受けることも検討している。
 支援機構を所管する文部科学省などによると、奨学金は大学などを卒業後、一定期間内に返還しなければならないが、滞納は年々増加。19年度の要回収額は3175億円だったが回収率は8割を切り、660億円が未返済。貸し倒れの可能性がある3カ月以上の延滞債権額も2253億円に上っている。

奨学金「回収努力を」 財務省が日本学生支援機構に
 財務省は24日、奨学金事業を行っている独立行政法人の日本学生支援機構(旧日本育英会)に、奨学金の回収努力が不十分だとして改善を求めたと財政制度等審議会に報告した。保証制度があるにもかかわらず、機構の督促が不十分であるなどの理由で要件を満たさず、代位弁済請求ができていない債権が今年2月現在で10億2100万円あることが確認された。
 保証制度は財団法人の日本国際教育支援協会が行っており、保証人を立てられない学生は、毎月数千円の保証料を支払うことで制度を利用できる。返済期限から1年たてば、機構は協会に対して弁済を求めることができるが、18年度の請求は11件700万円にとどまっている。
 代位弁済を請求するには、機構による債務者への督促が前提となる。だが、返済が遅れている債務者が引っ越してしまい、住所が判明しないために機構が督促できず、代位弁済請求の要件が整わないケースが多いという。
 機構は国の財政投融資資金を利用しており、19年度末の残高は2兆3686億円。回収も代位弁済も進まなければ、こうした資金の償還が進まない可能性が出てくる。

Tuesday, December 23, 2008

シンポを組織する―結合術と地政学

体調はすこぶる悪いが、来年のベルクソン・シンポに向けて第一段階の準備を始める。まずは海外からの招聘者との下交渉である。

どういう招聘をすべきか

これは私が若手だから可能なことかもしれないが、有名人というだけの招聘など絶対にしない。それが悪いとばかりは言わないし、健全な反応だとは思うけれど。お仲間招聘というのもしない。世界中に友人はたくさんいるが、いくら好人物であっても、研究者として面白くなければ呼ばない。私がこれまで招聘にかかわった人物はどれも面白い人物ばかりである。「でも小粒だったでしょ」という人は私のエッセイ「観客でも批評家でもなく」を読み直すべし。

戦略的な呼び方をしなければならない。これまでの招聘のほとんどは実に「長期的視点」「継続的観点」というものを欠いたものであったと言わざるを得ない。それは研究において実は対等な姿勢で向かい合えていなかったということを示しているのではないか。

科研では長期的・継続的なプロジェクトが可能だが、この点多く誤解されているのが、「自分たちにとってだけ」長期的・継続的であってもさしたる意味はない、ということである。呼ばれる相手(この場合は特に海外の研究者)にも継続性を感じさせ、自分たちがそのプロジェクトの一端を担っているのだという認識を共有させることが何にもまして重要である。そのためには英・仏・独語での成果の刊行がきわめて重要だ。


招聘とは何か――結合術と地政学

三年間のベルクソン・シンポで言えば、少なくともベルクソン研究で重要な人物、さらに『創造的進化』について面白いことを話せる人物というのがまず第一の選択基準である。なぜならそれが科研プロジェクトの題目だからだ。彼らを継続的に呼ぶ。そしてActesをフランス語で出す。

(こういったことはもちろん一人ではできない。私のような若手研究者の場合、業界の大先輩・先輩方のお力をお借りしてようやく何がしかの成果に辿りつけるといった次第であり、とりわけロジスティックに関して私は完全に無力である。しかし、このようなチャンスをただ待っているだけでは駄目で、自ら積極的にチャンスメークして行かなければ道は切り開けないということもまた事実である。それで時には誤解を受け、軋轢が生じるとしても…)

次に、国際的な広がりというものを考えなければいけない。哲学大国の人物ばかり呼ぶというのでは地政学的な視点に欠ける。哲学のマイナー国から呼ぶことによって未発掘の人物を掘り起こすという視点がなければならない。そのためには常にアンテナを研ぎ澄ましておかねばならない。この点、せっかく海外にいるのに鈍感な留学生が多すぎる。

第三に、年齢的な広がりも重要である。すでに名をなした大家ばかりでなく、気鋭の若手を積極的に登用する。留学生は、有名人の話を聞きに行くのもいいが、切磋琢磨しあえるような優秀な若手(外国人でも同国人でも)を見出し、その人によって自分が認められる(見出される)――もちろん知識のひけらかしoralではなく自分の仕事écritによって――ことがより重要だ。

最後に、日本のどこでシンポを行なうかということ。東京と京都ばかりでは地方のフランス哲学研究が一向に振興されない。たとえフランス語が分からない学生がほとんどでもいい、例えばたったひとり通りがかりの学生が興味を持ってくれさえすれば。今の「制度」では地方の学生には事実上、フランス語で哲学している現場を垣間見る可能性が閉ざされている。三日間やるのなら、一日だけ採算度外視の「先行投資」として地方で開催すべきだ、と年来言っているのだが、この点は未だに多数の同意を得ない…。

Monday, December 22, 2008

人権と民権―ゴーシェ・福沢・丸山

土曜日は重要な会合の後、フランス政治哲学研究会第5回@本郷。今回からGauchetのLa démocratie contre elle-même (Gallimard, 2002)を数回かけて読む。今回は20年を隔てて書かれた二つの人権論を読んだ。人権論が再加速してきた裏には新たな個人主義の台頭があるとするゴーシェ。

すると、たまたま丸山真男+加藤周一『翻訳と日本の近代』(岩波新書)を読み直していて、次のような個所にぶつかる。

《民権とは言うけれど、人権と参政権とを混同している、と福沢は言うんだ。人権は個人の権利であって、人民の権利ではない、だから国家権力が人権つまり個人の権利を侵してはいけない、人民が参政権をもつべきだというのを民権というとき、そこには個人と一般人民の区別がない、と福沢は言った。その感覚は凄いね。集合概念としての人民の権利と、個々人のindividualな権利》(90頁)。

これは《「個人」と「人民」》というセクション(89-93頁)で、そこで丸山は、我々にとって自明の「自由民権運動」は西洋人にとって訳しにくい言葉だ、なぜならrightはあくまで個人の権利であって、people's rightなどというのはありえないからだと指摘し、福沢に言及している。

Sunday, December 21, 2008

錬成するということ

授業・会議・研究会・忘年会・レクチャーコンサート…その合間に研究、ギリシャ語。その合間に…。師が走る走る。

数ヶ月前に思ったこと。



夏が過ぎていく。時間はあっという間に過ぎていく。お昼寝をさせる、夜、子供を寝かせつけようとする、夜中に子供が泣きだせば再び眠りに落ちるまで抱いている、今度は自分が寝られなくなる…。

子供や家族生活を言い訳の材料にしないようにするためには、これまでのように「数時間かかってようやく集中」というのではダメだ。ごく短時間で集中できるようにならなければ。

短時間でトラップし、シュートに持っていく。そして決める。どんな形であれ決めること。



どんな研究をするにしても、研究対象の手触りというか、それに対して自分がもつ印象を大切にしたいと思っている。

大学論や結婚論は「副専攻」として始めたばかりなのだから、素朴な観点しか持てないのはごく当たり前のことで、それを恥じる必要はない。恥じる必要はないが、自分の現在の力量を客観的に見つめ、実力のなさを認める率直さは必要だ。

素朴な考えしか持てないのに、それを付け焼刃の知識で誤魔化す、これはよくない。大切なのは、自分の素朴さを偽ったり包み隠すことなく、直観を絶えず錬成し、鍛え上げていくことだ。

Thursday, December 18, 2008

大人を教育する

火曜、西山雄二さんの丸山真男についての講演を聴きに行く。あのレベルの発表を毎回続けられるというのは凄すぎる。学問というのは知的練磨と共にまず一にも二にも体力だと痛感させられるが、…水曜日、とうとう倒れる。一日床に臥す。



先月のパリフォーラム、橋本一径(かずみち)さんの報告も書いたのだが、字数の関係上、特にフランス語を省かざるを得なかったので、ここに再録。





次いで、橋本氏の発表「大人を教育する――19世紀末フランスにおける警官養成」は、現在世界標準となりつつある「生涯教育」という発想の起源の一つが、犯罪学的見地からなされた捜査方法および警官養成法の改善過程にあると示すことで、《教育=養成》(どちらもフランス語ではformationである)の問題について哲学的な考察を展開する上で欠かせないものとなるであろう新たな光を投げかけた。

「教育」を意味するより一般的な語pédagogieが、「子供(pais, paidos)の指導(agein)」に由来することからも分かるように、教育とはそもそも未成年者を対象とするものであった。我々はいつから「生涯教育formation continue」、すなわち「大人を教育する」などという、一昔前であれば考えもつかない発想をもつようになったのか。

氏はその淵源の一つを、19世紀における犯罪人類学(anthropologie criminelle)のパラダイムチェンジ、すなわち18世紀的博愛主義(刑務所を改善すれば犯罪抑止につながる)の敗北と、その結果、「再犯 récidive」防止が「社会を防衛する」ための核心的な問題として理解され始めたという事実に見る。

科学警察の祖と言われるパリ警視庁鑑定局長アルフォンス・ベルティヨンによる数々の発明のうち、後の似顔絵作成法(portrait-robot)の原型となる「口述ポートレートportrait parlé」――「ベルティヨン式人体測定法 bertillonnage」とも呼ばれるようになる犯人識別法――が登場し、『犯罪人類学とその最近の進展』(1891年)の著者チェーザレ・ロンブローゾの《「生得的な犯罪者criminel-né」は骨相学的知見から割り出せる》という主張が受け入れられ、その講習会がフランス全土の学校・警察・軍隊で開かれる。治癒不可能=教育不可能な子供を早期発見すべく、教師・警官・軍人といった大人たちに教育=養成が施されることになったのである。以後、ごく一部の成人エリートに対する(例えば法曹界における)教育ではなく、広く大人を教育するという考えが社会通念として徐々に定着していく。

質疑応答では、ドゥギー氏がこの犯罪人類学の驚くべきアクチュアリティに注意を喚起し、フランスではリール大学教授Catherine Kintzler女史の仕事と、イタリアではSalvatore Palidda氏の仕事、とりわけ『ポストモダンにおける警察』Polizia postmoderna (Feltrinelli, 2000)との接続可能性を指摘しつつ、この方向でのさらなる研究の深化に期待を寄せた。

Tuesday, December 16, 2008

ゆく年くる年

金曜日は朝カル。ベルクソンにおける言語の問題について、これまでに書いた論文「言葉の暴力」「言葉の暴力II」を別の形でまとめ直して話す。パフォーマンスは(自分なりには)そこそこ。

土曜日はサルトル学会「ボーヴォワール生誕百周年。サルトルとボーヴォワール:カップル神話の表と裏」を聴きに行く。もちろん《結婚の形而上学とその脱構築》のため。基本的な知識(学界の常識)を仕入れられただけでなく、百周年記念刊行物や最近の研究動向についても情報を入手できてよかった。

アットホームな感じ+私のような部外者にも気さくに話しかけてくれる。戦う仏文学者として尊敬するms御大に「東京新聞の記事、読みましたよ」と話しかけて意気投合。懇親会では若手サルトル研究者と知り合ったり、発表者と議論したり、nsさんらと大学教育を論じたり、とても面白かった。

年末年始は論文三本の締め切り。大学論日仏1本ずつ。ベルクソン1本。

Monday, December 15, 2008

聴衆と思索の夕べ

宣伝です。よろしければどうぞ。hf

***

レクチャーコンサート
聴取と思索の夕べ
――哲学者が愛した音楽家たち――
(明治大学文学研究科特別授業)

日時:2008年12月19日(金)、17時半―20時
場所:明治大学駿河台校舎アカデミーコモン3階アカデミーホール
入場自由、無料(一般の方も大歓迎です)

プログラム
17時半‐18時 講演:「ジャンケレヴィッチ(1903-1985)の音楽哲学」(講師:合田正人、明治大学文学部教授)

18時‐20時 演奏:松浦真沙(ピアノ、編曲)、有村純親(サクソフォーン)

ドビュッシー:ゴリゴーグのケークウォーク
ドビュッシー:ラプソディー
ラヴェル:悲しい鳥(ピアノソロ)
ラヴェル:亡き王女のためのパヴァーヌ
フランク:ソナタより休憩
アルベニス:Espanaより(ピアノソロ)
トゥリーナまたはセヴラック:(ピアノソロ)
ファリャ(松浦真沙編):恋は魔術師
ピアソラの曲

松浦真沙(まつうら まさ) ピアノ、編曲桐朋学園大学音楽学部演奏学科(声楽専攻)卒業。同大学研究科(作曲専攻)、アンサンブル・ディプロマコース(ピアノ専攻)修了。パリ国立高等音楽院ピアノ伴奏科および室内楽科修了。1999年吹田音楽コンクール(作曲部門)入賞。2002年奏楽堂日本歌曲コンクール(作曲部門)第2位。2003年日本モーツァルト音楽コンクール(ピアノ部門)入賞。2007年東京国際室内楽作曲コンクール第2位(1位なし)。これまでに様々な新曲初演に携わり、4本ペダル(ハーモニクスペダル付)のピアノのための新曲を録音、初演するなど、特に近・現代の作品の演奏に意欲的に取り組み、高い評価を得ている。同時にアンサンブルピアニストとして数多くの演奏家と共演。日本、フランス、イタリア各地で演奏活動を行う。またサクシアーナ国際サクソフォーンコンクール公式伴奏者をはじめ、サン・サーンス音楽院(パリ8区)管楽器クラス伴奏者、2008年浜松国際管楽器アカデミー公式伴奏者など、各種マスタークラスやコンクールにて伴奏を務める。有村氏との共演でNHK-FMリサイタルに出演。作曲家としても定期的に新作を発表しているほか、合唱や器楽アンサンブルのための編曲、オーケストラ曲の編曲なども積極的に行っている。ピアノを今泉紀子、大崎かおる、小澤英世、故・ゴールドベルク山根美代子、星野明子、Jean Koerner、Theodore Paraskivesco、Eric Le.Sage、伴奏法をJean Koerner、今村央子、山洞智、室内楽を藤井一興、作曲を石島正博、金子仁美、原田敬子、和声法をLaurent Teycheney、声楽を名古屋木実、指揮を黒岩英臣の各氏に師事。現在上田女子短期大学講師、洗足学園音楽大学専攻科助教。

有村純親(ありむら すみちか) サクソフォーン東京芸術大学卒業。同大学院音楽研究科修士課程修了。平成16年度文化庁芸術家在外研修員。フランス国立セルジー・ポントワーズ音楽院(金メダル)を経てパリ国立高等音楽院を審査員全員一致の最優秀の成績で修了。セルマー賞受賞。同音楽院在籍中交換留学生としてアムステルダム音楽院に於いても研鑽を積む。サクシアーナ国際サクソフォーンコンクール第1位、併せてフランスサクソフォーン協会賞受賞。パリ国際音楽コンクール(UFAM)審査員全員一致で第1位および大賞受賞、第50回ミュンヘン国際音楽コンクール(ARD)セミファイナリスト(日本人最高位)。ローマ国際サクソフォーンコンクール第2位受賞、サンタ=チェチリア音楽院にてグラズノフのサクソフォーン協奏曲を演奏。2003年7月にはサクソフォーンの発明者であるアドルフ・サックスの生誕地ベルギー・ディナン市より招かれコンサートを行い、好評を博す。国際サクソフォーンコングレス(スロヴェニア)に参加。2006年にはイタリア・トリエステにてゲストプロフェッサーとしてマスタークラスを行う。NHK-FM「名曲リサイタル」出演。文化庁主催「明日を担う音楽家による特別演奏会」にて東京フィルハーモニー交響楽団とコンチェルトを共演し好評を博す。サクソフォーンを斎藤広樹、須川展也、冨岡和男、二宮和弘、Jean-Yves Fourmeau、Claude Delangle 、Arno Bornkampの各氏に、室内楽を中村均一、Jean-Francois Dusquenoyの各氏に師事。現在昭和音楽大学および短期大学部講師。

Sunday, December 14, 2008

大学はフランス哲学において己の場を欠いている――あるいはベルクソンの『礼儀正しさ』について(L'Université manque à sa place dans la philosophie française: ou de La Politesse de Bergson)

パリでの発表のタイトルは最終的にはこうなった。字数の関係上、UTCPのサイトにはレジュメの短いバージョンを載せてもらった(短いレジュメおよび全体の流れが読みたい方はそちらをどうぞ)。元々の長いバージョンをこちらに掲載する。



ドイツ哲学における大学論の伝統(カントからハイデガーを経てハーバマスまで)と顕著な対比をなすフランス哲学における大学論の不在(デカルトからベルクソンを経てドゥルーズまで)を取り上げて、その歴史的・構造的理由、そしてそれへの対処法自体をもフランス哲学の伝統のうちに探ることで、《制度》の問題を批判的に(つまりフランス哲学研究者である自分自身の問題として)取り上げようとした。フランス哲学についてのアカデミックな研究もジャーナリスティックな批評も山ほどあるが、アカデミックであると同時に批判的・介入的であろうとする研究はほとんどない。

まず確認しておくべきは、ドイツ哲学はそのほぼ全歴史において大学を軸として展開しているのに対し、フランス哲学は、伝統的に「大学」という制度の外側にいたということである。コレージュ・ド・フランスやEHESS、あるいはエコール・ノルマル・シュペリウールといった例外的な場の存在が織りなす高等教育の多孔質構造はフランス的な知の独創性を生み出す要因の一つであることは疑いえない(この構造的差異はまた、ドイツ哲学とフランス哲学の文体の差異を解き明かす一つの鍵でもあるだろう)。フランス哲学における大学論の不在はこうしてたやすく説明されるように思える。

しかし、大学を解体し中等教育を軸に再編したナポレオン体制を引き継ぎつつ、普仏戦争の敗北を受けてドイツモデルの移入(哲学の分野で言えば、本格的な講壇哲学化)を推進したフランス第三共和政において、大学に対する哲学者たちの伝統的な沈黙ないし侮蔑は根底的な変質を蒙る。もはや「哲学者」は、反大学的な在野の自由思想家にのみ与えられる称号ではない。哲学者の大部分は職業的哲学者となり、全面的に制度化された講壇哲学を(それに服従するにせよ、それと敵対するにせよ)暗黙の参照軸とすることを余儀なくされる。「外の思考」を生み出す場全体が別様の強い磁化を蒙ることになる。

以後、哲学を教える多くの教師たちが誕生したにもかかわらず、こうして新たな磁化を蒙ったフランス的多孔質構造に自らの意識を引き裂かれつつ、偉大な哲学者たちとともに、大学という制度を自らの思索に固有の〈場〉として反省することなく今日に至っている(Denis Kambouchnerなどごくわずかな例外を別として)。だとすれば、原光景とでも言うべき第三共和政に立ち戻り、そこから別の方向へ再出発する手立てが探られねばならない。その一例として、この時代の代表的な哲学者ベルクソンが高校教師であった頃に書いた幾つかの式辞(「礼儀正しさ」「専門」「良識と古典学習」)の読解を通じて、単なる儀礼や慣習の機械的反復ではない《開かれた礼儀正しさ》を鍵概念として取り出してみせた。

「攻撃的な力が大学を押し潰そうとしてきた時はどうするのか、それでもなお礼儀正しくあるべきなのか。政治が必要なのではないか」というykさんの質問があった。実に当を得た質問である。私の答えはこうだ。《自然の本能である不寛容を抑えるべく、政治的・宗教的・倫理的イデーに関する議論においてさえも実践されうる「信念の礼儀正しさ」こそ、人文学、とりわけ古典学習において学ばれうることである》とするベルクソンの説は、古色蒼然とした外見とは逆に今日でも重要性を帯びている。哲学者として大学の問題に対処する限り、常に概念のレベルで応答しようとする「信念の礼儀正しさ」は必要不可欠のものであり、これこそが哲学者として行ないうる「政治」ではないか。

Wednesday, December 10, 2008

遠くへ

昨年出たヴィエイヤール=バロン編の論集(Bergson. La vie et l'action)に私の仕事がまとめて参照されていたり、先月出た『二源泉』校訂版に私の論文が引用されていたりというのは、何にもまして嬉しいことだ。むろんこれは出発点にすぎない。引用されるだけでは意味がないことは十分承知している。しかし、仕事が知られないことにはそもそも土俵に上がれない。それだけはたしかだ。



UTCPのサイトに連載されている小林さんのブログより一部抜粋。私がこの考えに全面的に賛同していることは言うまでもない。他の考えは必ずしも同じではないが…。

《どうやら、UTCPコレクションのわたしのもの(第4章)を読んでいてくれたようで、ほら、やはりこうして外国語で読める論集の形にしてあれば読んでもらえるのだなあ、ととても嬉しかった。

もちろん海外の出版社から一冊まとまった形で出版されるのがいいにきまっているが、その前の段階で、外国語版個人論集をつくっておくことは、外国の研究者と対等につきあおうとする以上は絶対に必要。

この方針のもと、これまで、jmさん、ytさん、tnさん、ttさん[文脈と関係のない名前なので省略]、それにわたしのものが実現している。今年度もなんとか2冊くらいはつくりたいもの。しかし10本くらいの外国語論文を揃えることができる人はそんなには多くないのが現状。人文科学の国際化とは端的にここにかかっている。それ以外にはない。》



パリ行きの飛行機の中でynさんと長時間話した中で一番心に残っているのは、次の言葉。《満足いくものが書けたとき、そこには風景が見える。自分の書いたものの中に風景が見えるか、見えるとすればそれはどんな風景なのだろうか》。彼の答えは、《誰かに手を差し出している風景かな。「握手をしよう」って》というものだった。これはとても彼らしい答えだ。以来何となく考えてみた。「私は?」

たぶん旅立つ風景だ。空港や駅、大学でもいい。人が慌ただしく行き交う場。そこに独りで佇み、どこかへ出発するのを待っている。若干の期待と若干の寂寥。遠くへ、さらに遠くへ――私の論文を読む人がどう思うかは分からないが、少なくともそれが私が仕事をしているときに根底にある風景であるような気がする。

ドタバタの慌ただしい出発(今回のパリからの帰りもまた!)についてはもっとコミカルにも書けるし、その方が私らしい気もするけれど(笑)。

Tuesday, December 09, 2008

司会と通訳

司会と通訳を同時に出来る人は凄いなと常々感嘆する。講演の内容を理解し、的確な質問を組み立てようとすることと、講演の言葉を字義どおり別の言葉に置き換えていくことは、私にとってはまったく別の作業である。ベルクソン関係の講演会では「あなたが通訳(も)すればいいのに」とよく言われるが、それは無理だ。講演内容をトータルに考えず、質問をまったくしない、という前提であれば、通訳を引き受けてもいいが、それでは研究者としては非常にフラストレーションがたまる。司会のほうがましである。

しかし、司会は司会で難しいこともある。その一例。今日(月曜)の講演会、内容は非常に良かったが、司会は疲れた。通訳の方がその分野の専門家でない場合、司会が多少ヘルプせねばならないが、下手に介入すると、通訳のリズムが狂ってしまい、その後、グダグダになってしまう場合がある。その間合いを計っていると、司会として講演の意味内容にも集中できず、かといって通訳者がいらっしゃる以上、通訳に徹して言葉の翻訳に集中することもできない、というジレンマに陥ってしまう。司会の技術に関してはまだまだというところ。

Monday, December 08, 2008

言葉の暴力

1年半前にベルクソンにおける言語の問題について「言葉の暴力」を鍵語として発表を行ない、それが今年の三月に論文として刊行された。以来、それをさらに発展させるヒントを探していた。

ジャン=ジャック・ルセルクルという人物が『言葉の暴力』という本を書いており、これが今年の夏に訳された。面白すぎる。Nouvel Obsのブログに簡単な本の紹介があるので(グーグルで検索した限り、日本語では見当たらない…)、よかったらどうぞ

今度の朝カルはこの二つで行こうかな。

Friday, December 05, 2008

二つの真理

土曜にパリから帰り、日曜午前にテストを作り、午後に重要な会合の準備をし、月曜の朝に地方へ、まる二日忙殺され、火曜日の夜に帰りつき、水曜・木曜は子供の水ぼうそうの看病をしつつ事務作業に追われ大学へ大きなカバンを持って走り、明日(金曜)は授業と講演の司会。これらの合間に授業準備と発表の準備、著書の準備。友人たちと楽しくお茶をして、あるいは酒を酌み交わし、しかし家族サービスも忘れない。

忙しい大学教員はもちろんもっと忙しい。大学教員はサラリーマンと比べて暇だと思っている人は結構いるが、実態を知っている人は少ない。「能力のある人ほど忙しい」、と同時に「作業効率の悪い人ほど忙しい(と自分では思っている)」という二つの真理は、どの業界でも変わりはないのである。私はどちらなのか(笑)。