Sunday, November 30, 2008

帰国

昨日帰国しました。今回も多くの方々と出会うことができて、本当に嬉しく思っています。

今回のパリ滞在の目的は二つ。フォーラム「哲学と教育」の第三回「研究教育制度の脱構築」への参加と、パリ郊外の高校の哲学の授業見学である。後者についてはすでに西山雄二さんがUTCPのブログで報告して下さっているので参照されたい。前者については近々私も交えてみんなで書く予定。

これで、今年度の研究発表はすべて終了(まだ朝カルがあるけれど、これは厳密に言えば啓蒙活動であって研究活動ではないので)。全部で5つ。

言葉で分けると:フランス語で3つ、日本語で2つ。
主題で分けると:ベルクソン研究が3つ、大学論が2つ。
国で分けると:日本で3つ、フランスで1つ、ブラジルで1つ。

12月2日のジャック・ビデの講演。私は残念ながら参加できなくなりましたが、ご関心のある方は是非どうぞ。5日と8日のケックの講演はいずれも司会をしますので、ご参加いただければ幸いです。

Monday, November 17, 2008

タイトル未定(パリフォーラムでの発表)

大学論に関する発表では、おおよそこんな話をしようかと思っています。

偉大な哲学者たちは、折にふれて、必要に応じて、大学や教育制度の問題を論じてきた。カントをはじめとして、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルの大学論。ショーペンハウアーやニーチェの苛烈な大学批判を加えてもよい。二十世紀に入っても、ハイデガーやヤスパース、ガダマーやハーバマス、あるいはデリダに至るまで、例には事欠かない。しかしここで素朴な疑問が生じる。何かと対比されることの多いドイツ哲学とフランス哲学であるが、一方における大学論の連綿と続く系譜と、他方におけるその驚くべき不在、これはいったいどうしたことであろうか。この問題は単にトリヴィアルな歴史的問題にとどまらない。大学が激変を蒙りつつある大転換期にあって、哲学者たちは、大学論・高等教育研究・知識社会学に(義務感からにもせよ)関心をもつ知識人としてではなく、哲学者として何を発言しうるのか、そのことを考えるにあたってこの問題は重要な示唆を与えてくれるように思われるからである。

考えてみれば、フランス哲学は実に長きにわたって「大学」とはまったく相いれない運命にあった。既得権益に固執して新しい人文知を頑迷に受け入れようとしない当時の大学に業を煮やしたフランソワ一世によって創設されたコレージュ・ド・フランス。ソルボンヌに睨まれ、アンリ二世の計らいでそのコレージュで哲学を講じたペトルス・ラムスの偶像破壊的な言説はやがてその死後、若きデカルトに『精神指導の規則』を書かせるだろう。18世紀に入ると、百科全書派が大学の外で縦横無尽の活動を繰り広げる。19世紀?コント、テーヌ、ルナンを思い出そう。アズーヴィがきわめて挑発的な仕方で断定しているように、結局のところ「フランス哲学の歴史は《ソルボンヌ》という語抜きで書かれうるのである。この語が、最も著名な哲学者たちが教壇に立たなかった場所を指し示すというのでなければ」。ドイツでは政治的・経済的な後進性から知識人が官僚化=大学人化したのに対し、フランスでは大学の後進性(カトリックの強い影響)が知識人をしてアカデミーやジャーナリズムの世界に押し出したのであった。ドイツ人哲学者にとって大学が常にそこに回帰し=反省すべき場所であったのに対し、フランス人哲学者にとって大学は改革してまで維持されるべき存在ではなかったのである。

20世紀のフランス哲学も、ある二つの根本的な変化を除いては、この不文律をきわめて忠実に守ったと言えるだろう。ベルクソンはソルボンヌに落選し、コレージュで教えた。サルトルはごく早いうちに教職を辞したし、メルロ=ポンティもフーコーもごくわずかな期間大学で教えた後、コレージュで教えた。アルチュセールは生涯ENS、デリダはENSの後、社会科学高等研究院、など。では根本的な二つの変化とは何か。…続きはパリで。

Friday, November 14, 2008

再会

肩がこって首が回らなくなってしまった。

国際フォーラムの宣伝ということで、久しぶりに大量のメールを出した。すると、数年来音沙汰がなかったギリシャ人のdaから返事がきた(友人gbとは別のギリシャ人)。正直、彼に出したことも知らなかったのだが、返信されてきたメールの名前で思い出した。懐かしいなあ。彼曰く je me rappelle toujours de l'audace que tu a eu de dire à M... en présentant un exposé sur Spinoza: "laissez-moi continuer avec mon sur-interprétation"!
そんなこともありました(笑)。audace、結局よくも悪くもそれが私のキーワードなのでしょう。

イタリア人のczからも嬉しい返事。こっちは何となく来るような予感があった。

一括メールにも予期せぬ効用があるなと思いました。



一括メールと言えば、ずいぶん前にセミナーに参加させてもらった気の強い才媛カルラから新刊情報が。

Carla Di Martino, Ratio Particularis. Histoire des sens internes d'Avicenne à Thomas d'Aquin, VRIN, Paris 2008.

この分野では、Anca Vasiliu, Du Diaphane, Vrin, 1996. が面白かったと記憶しています。現代思想の人も、いろんなものを広く読んでおくことが必要です。どうぞご一読下さい。

Thursday, November 13, 2008

告知

私が直接的に関与するイベントの告知です。ご関心がおありの方はどうぞ奮ってご参加ください。

11月24日(月)-25日(火)パリ、ENSほか
国際フォーラム「哲学への権利―グローバル化時代における研究教育制度の脱構築」
私は大学や制度の問題に哲学的に取り組む必要性についてお話しする予定です。

12月2日(火)東京、一橋大学
ジャック・ビデ氏講演会「マルクスの遺産」

12月5日(金)東京、東大駒場キャンパス
フレデリック・ケック氏によるUTCPセミナー「レヴィ=ストロースと鳥インフルエンザ―潜在的カタストロフィの構造人類学の方法」

12月8日(月)東京、明治大学駿河台キャンパス
フレデリック・ケック氏によるセミナー「ベルクソン:レヴィ=ブリュールとレヴィ=ストロースのあいだで――「未開社会」における保証と信頼」

12月12日(金)東京、朝日カルチャーセンター
「ベルクソン哲学総検証――生誕150年を前に」
第5回「ベルクソンにおける生命・技術・言語」:合田正人さんと金森修さんと共に。
私はベルクソンにおける言語ということでお話しする予定です。


体調管理によりいっそう気をつけないと。でも、子供からの感染は防ぎにくいんですよね。。みなさんもお気をつけて。

Monday, November 10, 2008

学問の有償性

風邪は悪化の一途。

前回朝カルベルクソンの第3回について少し詳しいレジュメを書いたところ、ある方からご指摘を受けた。朝カルが若干衰退気味であるとすれば、その理由は1)書店などでの安くて気軽に行ける単発イベントの隆盛、2)ブログによる内容流出だ、というのである。

考えてみれば、朝カル「ベルクソン」に来られないというベルクソン研究者のためにと思って詳しく書いたのだけれど、そもそも朝カルの内容は受講者が有料で買って初めて成立するものだという自明の事実を私は忘れてしまっていた。

学問は究極的には無償性(gratuité)で成り立つものだと思うけれど、どこかで必ず有償性の契機を経る(科学的発見におけるプライオリティや知的著作権、ロイヤリティなど)。

というわけで、レジュメをごく短いものに差し替えます。ご関心がおありの方は、途中参加、一回限りの参加も可能のようですので、朝カルまでお問い合わせください。

Sunday, November 09, 2008

朝カルベルクソン第3回

子供の風邪がうつってダウン寸前。昨日は大変だった。

昨晩は朝カル・ベルクソンの第3回「ベルクソンと諸芸術」ということで、マティスを中心に現代美術を研究されている近藤学さんと作曲家の佐藤岳昭さんのお話。

近藤さんは、美術史家としてアントリフとアズーヴィに依拠しつつ、同時代のフランスを中心とする造形美術とベルクソン思想との関係について語られた。
Mark Antliff, Inventing Bergson: Cultural Politics and the Parisian Avant-Garde, Princeton University Press, 1993.
François Azouvi, La gloire de Bergson: Essai sur le magistère philosophique, Gallimard, 2007.



佐藤さんは現代音楽の作曲家として、伝統的な西洋音楽のありかたを振り返り、現代の西洋音楽がその一面だけを極度に肥大化させてしまったことに疑問を呈し、ベルクソンに倣いつつ――彼には「持続―質/量 アンリ・ベルクソンに倣いて」という作品がある――、自らの創作活動の今後の展望を語った。

Friday, November 07, 2008

ジャムセッション

昨日は現代フランス政治哲学研究会の第4回@本郷。4回にわたって読んできた、ルフォールの『政治的なものに関する試論』の最終回。(き)さんのお声掛けで――ご無事で何よりです!――tsさん、yaさんが初参加。所属の異なる人たち(この研究会だと法学部系の方々)とのセッションはいつも楽しい。

ルフォールと来たらゴーシェ。協議の結果、次回からしばらくMarcel Gauchet, La démocratie contre elle-même, Gallimard, 2002. を読んでいくことに。次回は12月20日(土)、読むのは最初と最後の論文。
-"Les droits de l'homme ne sont pas une politique" (1980), pp. 1-26.
-"Quand les droits de l'homme deviennent une politique" (2000), pp. 326-385.

これらの論文はその出発点となったルフォールの次の論文と併読するのがよい。
-"Droits de l'homme et politique" (1980), dans L'invention démocratique, Fayard, 1981.



昨晩から娘が高熱を出して、今日は病院に連れて行ったあと、一日中看病。

明日は非常勤(朝~昼)→駒場(夕方)→朝カル(夜)のフルマラソン、の予定。

Saturday, November 01, 2008

カルチャーセンターで話すということ

朝カルのベルクソン第2回「ドゥルーズの『ベルクソン』を超えて:西田、木村敏との関係」を覗かせていただいた。カルチャーセンターで話すのは初めてなので、どんな感じで話せばいいのか様子見という感じだったのだが、行ってみてよかった。

「手加減して優しく話されている」という感じが嫌なのだそうだ。長く生きてくると、話している内容が難しくて分からなくても、「先生」が一生懸命自分にとって重要な問題を話そうとしてくれているかどうか、ということは分かる。大切なのはそこを見せてくれることだ、と。なるほど。

しかし、正直90分は短い。ドゥルーズのベルクソンにしても、西田や木村との関係にしても、それだけで複数回必要だ。今回はとりわけ図式とイメージの関係についてはもっと聞きたかった。