Sunday, July 20, 2008

HP

HPを実験的につくってみた。ブログでいろいろ書き散らすのとは別に、教育や研究の情報を徐々にまとめていこうと(ようやく)思ったからである。

教育で言えば、今学期は例の「フランスにおける哲学と大学」、そして「結婚の形而上学とその脱構築」のフランス文学篇をやったので、その配布資料を徐々にアップしていく。

結婚論に関しては、様々な理由から、今回はあえて文学テクストを選んでみた。環境が許せば、いずれより哲学的なテクストを扱ってみたい。

そして環境が強いる試みとして、来年「素手」で、つまり一切哲学テクストにも文学テクストにも頼らずに結婚を思考するという授業を某所でやる。自分にとっては新たな挑戦なので楽しみ。

研究だけでなく教育にもベストを尽くしたいので、いろいろ調べている。こういうものとか。研究で言えば、ベルクソン研究の基本的な研究書に関してその意義・概要を記す、という地味な作業をこつこつやっていこうと思っている。


今夏の個人的課題

1)博論を本にするための作業

2)このあいだブラジルでやった発表原稿の直し。ポルトガル語で出版されるらしい。

3)大学論のまとめ(9月〆)→11月のパリ・シンポで使う。

4)10月のベルクソン・シンポ原稿準備

5)10月の構造主義シンポ原稿準備

Friday, July 04, 2008

ブラジル篇(その1)

6月21日午後16時35分成田発、6月21日16時30分ニューアーク着。

6月21日午後22時ニューアーク発、6月22日8時50分グアルーリョス着。

前回は、「自分でタクシーを見つけ、まずはサンパウロに安宿を取って…」などという、今から考えればあまりにも無謀な計画だったので、今回はデボラ・モラート教授にタクシーを送ってもらう。

タクシー運転手が、私の名前の書かれた紙を持って待ってくれていた。ただし、彼もまた英語は一言も話さない。こちらも長旅(おまけに原稿を書きながらの)で疲れており、今回はポルトガル語を積極的に話しかける気も起きない。沈黙の三時間が過ぎ、サンカルロスに到着。

すでにフレデリック・ヴォルムス教授が到着していた。dmが近くにある有名なファゼンダ Fazenda Pinhal に連れて行ってくれる。雄大な自然の中に佇む、豪奢にして簡素な屋敷。普段は予約しないと食べられないはずの昼食に幸運にもありつける。野菜も果実も肉もすべてファゼンダのもので、素晴らしく新鮮。もちろんコーヒーも(言うまでもなくファゼンダは多くの場合、コーヒー豆農園から出発している)。

食後、ファゼンダの庭園(といっても日本の常識から言うと巨大な森)をガイド付きで散策。日本種の竹がとてつもなく巨大に成長している。「思想の植生」にあらためて思いを馳せる。林を抜ける風の音、鳥が竹をつつく音、人工的に作られた流水のリズミカルなせせらぎ。自然と文化、natureとcultureの融合。

ただし、これらすべてのものが、やはり奴隷の血と汗と涙を通して出来たものであること、ベルクソン的に言えば、開かれたもの(ouvert)に至るまでに閉じたもの(clos)を経ねばならなかったことを、fwは強調していた。まったくそのとおり。

巨大な亀(よく分からないが、どうもアカアシリクガメかキアシリクガメらしい)が数匹、屋敷の蔭にいた。ベルクソンの『創造的進化』的に言えば、torpeurなのかもしれないが、なんのなんの、少し目を離すと実に意外なほど動いている。考えるともなく「進化」ということを思った。



ブラジルの日暮れは早い。日本同様、17-18時には暗くなる。サンカルロスの少し洒落たバー"Mosaico"に案内される。サプライズがメニューの中に。180番を見よ。

Diego RiveraやTomie Ohtake(知らない人は自分で調べるべし)と並んで、今回のコロックの影の主役Bento Prado Jr.の名前が…。
さらなる驚きが数分後に訪れた。ベントから豪放さを取り除き、柔和な面を強調した面影。息子さんのBento Prado Netoであった。
氏は、ウィトゲンシュタインの専門家でありながら、ベルクソンの主要著作の新訳を手掛けてもいる。現在、Melangesを翻訳中とのこと。幼少時にベントと共にフランスに滞在していたため、実に滑らかなフランス語を喋る。
彼とデボラとフレデリックと私。話はもちろんベントの事ばかり。

サンカルロスという小さな田舎町にいつしかサンパウロやカンピーナスなどに次いで重要な哲学・思想研究の拠点ができつつある。それはすべてベント・プラドJr.という知の巨人が軍政下でサンパウロ大学から追放され、その後、決してこの象牙の塔へは戻らなかったという運命の皮肉な帰結でもある。

飲んだくれ哲学者はこの街で実に愛された(ちなみに彼の愛飲していたのはドライマティーニではなく、ウィスキーだったそうだが)。大学の小講堂に名前が冠せられるほど大学人にも。バーのメニューに名前が載るほどバーマンにも。死後も彼の友人たちのために働きたいと願うほどタクシー運転手にも。
そして私たち招待された者たちもまた、さまざまな形でベントにオマージュを捧げるために、遥か彼方の地からやってきたのである。(続く)

Thursday, July 03, 2008

思想は国境を越える

ブラジルから戻ってきた。サンパウロ(グアルーリョス空港)からニューヨーク(ニューアーク空港)までが8~9時間、合衆国の厳重な警戒体制のおかげでたかがトランジットのために5~6時間(乗り遅れないよう十分時間をとることを推奨された)、そしてニューヨークから東京(成田空港)まで12~13時間。ついでに成田から東京の自宅までほぼ2時間。全部合わせると24時間超。

ちなみに現在、ブラジルに行くには、ごく短期間でもヴィザが必要である。ブラジル総領事館のHPを見ると、日本は、アメリカなどと共に、先進国の中でブラジルがヴィザを要求する数少ない国の一つであることが分かる。アメリカの場合は、ブラジル人に厳しい入国管理が行われていることへの報復措置であることははっきりしている、とブラジルの友人たちは口を揃えていた。

労働力として必要不可欠であるにもかかわらず、ブラジル移民に厳しい入国管理を押し付けるという日本国政府の政策に対する対抗処置であることもまた自明であろう。ヴィザ申請は長い時間がかかる、面倒な作業だった。

それでも収穫ははかりしれない。ブラジルのベルクソン研究、ひいてはフランス哲学・思想研究が新たな展開を告げようとしている現場を目の当たりにできたのだから。

ブラジル篇については追々書いていく。まずは、私が東京(ヴィザ申請)とニューアーク(入国審査)で経験したこととまったく無縁でもない事態が現在日本で起こりつつあるという事実に注意を喚起しておきたい。このような側面を無視して、心穏やかに哲学が出来ると思ったら大間違いである。世界は動いているし、その動きに批判的に介入してこそ哲学は真の輝きを放つのだ。

《冒頭、司会の岩崎氏から、ハート来日をめぐる理不尽な事態に関して説明がなされた。ハート氏と夫人は成田空港からすんなり出ることができず、入国管理局で待機させられ、取り調べを受けた。事態を知った大学関係者たちが入管にすぐに駆け付け、証明書類を提出してハート氏が解放されたのは五時間後のことだったという。なるほど、G8サミット直前に批判的知識人の来日が敬遠されているということなのだろう。だがしかし、ハート氏の招聘はまずもって大学の学術交流の枠組みでなされていることであって、別に彼は過激な革命行動を扇動するために来日しているわけではない。大学での自由な学術研究を阻害する、ひいては日本の学術の国際的な活力を削ぐ奇異な対応と言わざるを得ない。
(西山雄二さんによる【報告】マイケル・ハート講演会「記憶と残像のない新自由主義空間」より)

どれほど厳重に警戒しても、思想が国境を超えていくのを止めることはできない。自由な思想表明を封殺しようとするその身ぶりが現在の日本国家の民主度、自由度を如実に表している。