Thursday, March 27, 2008

教育のパラドックス

「教育の哲学、哲学の教育」の日。『現代思想』、増頁特集《教育のパラドックス》、1985年11月号所収の木村敏+柄谷行人の対話《他者に教えること》(188-206頁)読了。幾つかポイントを。

1・「語る‐聞く」という水平で対称的な関係が成立するためには、「教える‐学ぶ」という垂直的で非対称的な関係が先行していなければならない、という例の柄谷節。むろん、「教える‐学ぶ」は「教師‐生徒」に固定されない。「そんな風に考えると、《教育》の問題も、普通そう考えられているのとは違った意味で、にわかに面白く見えてくるんです」(柄谷)。

2・「キチガイ」:「木村さんは、《気》というのは自分と汝との間にある、自分ではどうにもならない雰囲気のようなものであると書かれていたわけですが、《気が違う》というのは相手の気が違っているのではなくて、二人の関係の間で《気》が違うわけですね。だから向こうもそう思っている」(柄谷)。

3・デリダ批判:「パラドックスとか矛盾ということに、非常に重きをおくのです。しかし「語られる」領域でだけ、矛盾というのが大事になってしまうだけで、実際に生きられる領域ではそんなことはどうでもいいわけですよ」。「デリダの場合もそうなんですよ。《差延》というのは「自己差異化」であって、全部そこにもっていくんですけど、[…]神=他者を取ってしまうと、内部のほうにパラドックスを凝縮させる形を取ると思うんですよ。自己関係あるいは「自己差異化」の方にね」。

「いわば世界を一義的に論理的に明快にしようとするデリダの言う形而上学。哲学とはそういうものであり、その哲学を《脱構築》するのだと言うけれど、そうするためにはそういう哲学を前提にしなくちゃいけない。いない相手をつくってそれを攻撃しているということは、実はその人自身がそうだということなんじゃないですか」(柄谷)。前期のロゴス中心主義批判から後期のアポリア主義への動きは、たしかにこういう一面を持っている。

4・精神分析の功罪。「コミュニケーションの原型を、非対称的な「世代」に置いたということが、精神分析の功績だと思います」(柄谷)。

「つまり、治療が出来ないということではなく、また、治療が最終的な目的なのではなく、そういう《教える‐習う》というコミュニケーションの関係において人間は存在しているんだということを徹頭徹尾提起しているのが、精神分析なんじゃないかと思うんです。親子関係から始まり、医者と患者、さらに医者の教育〔教育分析〕までも、すべてそういう関係で見られている。そういうところから見た場合には、一般的なコミュニケーションというのは、虚像ではないとしても抽象的なものであるということを、精神分析は言っているように思うんです」(柄谷)。

「精神分析っていうのは物語を強制される場所なんですよ。[フロイトの「狼男」のように]別に嘘をつくつもりではなくても、どうしてもそうなるんです。結局のところ、うまい物語を自分自身が本気で納得すれば、それが治療だっていうことだと思うんです」(柄谷)。「僕の顔色を見て、木村先生はこういう話をすれば気に入るだろうということが分かるからかもしれないけど、たしかに私の興味のありそうな話をしてくれる。[…]僕らもそれに乗っかって喜んでますけど、治療はそんなことで進みはしないんです」(木村)。

ラカン派の精神分析における教育や愛の問題については、最近UTCPから刊行された

Philosophie et Education: enseigner, apprendre - sur la pédagogie de la philosophie et de la psychanalyse, UTCP Booklet 1, 2008.

所収の原和之とアラン・ジュランヴィル両氏の論考を参照のこと

5・治癒≒学習≒成長:「精神療法で患者が治った場合、精神療法をやったから治ったのか、精神療法をやっているうちに治っちゃったのか、精神療法をやったにもかかわらず治ったのか、その区別がつかないということなんです」(木村)。教育の哲学が必ず念頭に置いておくべき視点。

《親がなくとも、子が育つ。ウソです。親があっても、子が育つんだ。親なんて、バカな奴が、人間づらして、親づらして、腹がふくれて、にわかに慌てて、親らしくなりやがった出来損ないが、動物とも人間ともつかない変テコリンな憐れみをかけて、陰にこもって子供を育てやがる。親がなきゃ、子供は、もっと、立派に育つよ。》(坂口安吾、「不良少年とキリスト」)

Wednesday, March 26, 2008

読書リスト(現象学)

生き抜いていけるだろうか、このタフな一年を?

四月:「哲学と大学」で発表予定。
5月24日:仏文学会で発表予定「言葉の暴力II」。
六月:某所で発表予定?「bとlにおける物質と記憶II」
九月上旬:フランスの某シンポで発表予定。「ベルクソンとオモダカ」
十月上旬:日本でベルクソンについて発表予定。「ベルクソンの生気論再論」
11月8日:仏文学会で発表予定。「結婚の形而上学とその脱構築」
十一月下旬:フランスの某シンポで発表予定。「フランスの教育哲学」

***

現象学についてはこれまで我流でそこそこ読んではきたのだが、昨日最低限読むべき本のリストを挙げてもらったので、徐々に読んでいくことにしたい。

今のところ、フッサールで言うと、『算術の哲学』関係とフッセリアーナ第23巻にしか興味がないのではあるが、逆に言えば、そこについては最先端の議論までフォローしておきたいと思っている。

現象学の事典類
1・『現象学事典』、弘文堂、1994年。
2・Michael Hammond, Jane Howarth, and Russell Kent, Understanding Phenomenology, Oxford: Blackwell, 1995.
3・ Wörterbuch der phänomenologischen Begriffe, hrsg. von Helmuth Vetter, PhB 555, Felix Meiner Verlag, 2005.
4・John J. Drummond, Historical Dictionary of Husserl's Philosophy, Lanham: Scarecrow Press, 2008.

フッサール関係
1・浜渦辰二(はまうず・しんじ、1952-)、HP。例えば、「空間の現象学にむけて―フッサールによるカント超越論的哲学の改造」や「幾何学的空間と生きられる空間―フッサールから見たカント空間論」など。
2・貫成人(ぬき・しげと、1956-)、専修大のプロフィールWikipedia。例えば、『経験の構造-フッサール現象学の新しい全体像』(勁草書房、2003年)。

3・斎藤慶典(さいとう・よしみち、1957-)、慶応大のプロフィール。氏のレヴィナス論に対する小泉義之さんの書評(講壇的な優雅さ)と一読者の感想(「甘美な愉楽」)の中間が正当な評価である気がする。

4・伊集院令子、『像と平面構成 I ―フッサール像意識分析の未開の新地』、 晃洋書房、2001年。


フッサール『算術の哲学』関係
1・三上真司、「『算術の哲学』に関する批判的考察」、東京大学哲学研究室『論集』3、1984年。

2・坂間毅、「研究ノート:フッサール「計算の哲学」の構想について」、東京大学大学院人文社会系研究科哲学研究室『論集25』、2007年、299-308頁。

3・鈴木俊洋、「初期フッサールの数概念の分析」、『現象学年報』19号、2003年11月、119-128頁。

4・小熊正久(おぐま・まさひさ、1951-)、「フッサールの算術の哲学における心理学的分析」、『山形大学紀要(人文科学篇)』、1985年。

5・小熊正久、「数と数えること―フッサールを手がかりにして」、『山形大学紀要(人文科学篇)』、1997年。

Tuesday, March 25, 2008

有限性をめぐって(4)有限性と出生

体を騙し騙し、イヴェントに出席。

3月17日、水月昭道、『高学歴ワーキングプア 「フリーター生産工場」としての大学院』に関するワークショップに参加。
3月22日、日仏哲学会に出席。
3月23日、ベルクソン哲学研究会に出席。
3月24日、村上靖彦さん『現象学者レヴィナス』(Lévinas phénoménologue, éd. Millon, coll. "Krisis", 2002)書評会に参加。

***

ベルクソン研究の日。引き続き、有限性概念を考察する。

ハイデガーと言えば「死に臨む存在」――そう思い込んでいる人は少なくないはずだ。だが、『存在と時間』は、自らが答え得ていない問いの存在に少なくとも意識的である。

《しかしながら、死は何といっても現存在の《終末》にすぎない。それは、形式的に見れば、現存在の全体性を差し挟んでいる一方の末端にすぎない。もう一方の《末端》はというと、それは《発端 Anfang》――すなわち《誕生 Geburt》である。

そして誕生と死との《間に》わたる存在者であってはじめて、求められた全体の姿を示すのである。このように見ると、われわれの分析論の今までの見通しは、いかに明確に実存する全体存在を指向していたにしても、また本来的および非本来的な《死へ臨む存在》を一義的に解析していたにしても、なお《一面的》にすぎなかったわけである》(第72節)。


"Allein der Tod ist doch nur das "Ende" des Daseins, formal genommen nur das eine Ende, das die Daseinsganzheit umschließt. Das andere "Ende" aber ist der "Anfang", die "Geburt".

Erst das Seiende "zwischen" Geburt und Tod stellt das gesuchte Ganze dar. Sonach blieb die bisherige Orientierung der Analytik bei aller Tendenz auf das existierende Ganzsein und trotz der genuinen Explikation des eigentlichen und uneigentlichen Seins zum Tode "einseitig""(S. 373).

要するに、「始まりに臨む存在 das Sein zum Anfang, l'être pour le commencement」とでも言うべきものの分析を欠いては実存分析が完了したことにはならない、とハイデガー自身が言明しているわけである。

しかしながら、先に引いた第72節のもう少し先で、ハイデガーは、誕生という契機を死の契機へ、さらには関心としての現存在の存在へと還元してしまう。

《事実的な現存在は、誕生せるものとして実存しており、また誕生せるものとしてすでに――「死に臨む存在」という意味で――死に至っているのである。誕生と死というこの《両端》とそれらの《間》とは、現存在が事実的に実存している限りは、現に存在している。そしてそれらは、ほかでもなく、関心としての現存在の存在に基づいている可能なるただ一つのありさまで存在しているのである。》

"Das faktische Dasein existiert gebürtig, und gebürtig stirbt es auch schon im Sinne des Seins zum Tode. Beide "Enden" und ihr "Zwischen" sind, solange das Dasein faktisch existiert, und sie sind, wie es auf dem Grunde des Seins des Daseins als Sorge einzig möglich ist" (S. 374).

[一文目だけMartineauの訳文を挙げておく。

"Le Dasein factice existe nativement, et c'est nativement encore qu'il meurt au sens de l'être pour la mort" (p. 259).

『存在と時間』は、「現存在と時間性」と題された第二篇の冒頭(第1章)で「全体性 totalité」と「死 mortalité」という二つの異なる問題系を融合している。ポール・リクールは、『記憶、歴史、忘却』(2000年)の中でこの章を「節目になる章 chapitre nodal」と呼び、この融合に違和感を隠せない、としている。死のテーマ系にこだわりすぎることで、可能的存在のその他の側面へ接近する道が閉ざされてしまうのではないか、というのである(p. 465)。

リクールは、『存在と時間』における死に対する態度の「最も強力な弁護 le plus vigoureux plaidoyer」(p. 465)としてダスチュール『死』(1994年版)を挙げ、自身はジャン・グレーシュとともにハンナ・アレントが用いた「出生性 Gebürtigkeit, natalité」のテーマに目配せを投げかけている。

リクール自身は、アレントの「出生性」を喚起しておきたい、とだけ述べて(いつものように?)素通りしているが、ダスチュールは『死』の2007年版において、この問題を自分のものとして引き受け、わずかではあるが展開している(pp. 168-169)。

だが、徹底的なハイデガー主義者であるダスチュールは、なぜ誕生より死を存在論的に優位のものと見なすのかについて、結局のところ明確な解答を与えることが出来ない。

《考慮に入れていなかったとハイデガー自身が認めているこの「始まりに臨む存在」に関する説得力に富んだ分析が、ハンナ・アレントに見出されるということには、したがってまったく疑いの余地はない。にもかかわらず、行動、とりわけ政治的行動は、可死性のパースペクティヴにおいてもまた考察されることを要請していないかどうか自問することは許されよう》。

"Il ne fait donc nul doute que l'on trouve chez Hannah Arendt une analyse convaincante de cet "être pour le commencement" dont Heidegger reconnaît qu'il ne l'a pas pris en compte. On peut cependant se demander si l'action, et en particulier l'action politique, n'exige pas d'être également considérée dans la perspective de la mortalité" (p. 169, nous soulignons).

ここでダスチュールを離れて、アレントの著作に直接取り組むことにしよう。(続く)

Monday, March 17, 2008

申し訳ない。

今日は、某学会関東支部大会があり、多くの友人・知人が発表していたのだけれど、体調がすぐれず、聴きに伺うことができませんでした。

Sunday, March 16, 2008

救いの島(母語を離れる)

《ジッドは言った。「だが、今日のうちにあなたに、ドイツ語に対する私の関係について、いくらか話しておきたいのだ。

私は長いあいだ、ひたすらドイツ語と集中的に取り組んだのだが[…]、その後、十年間、ドイツ語に関する諸々をうっちゃっておいた。英語が私のすべての注意力を奪っていた。

さて、去年コンゴで、ようやくまたドイツ語の本を開いてみた。それは『親和力』だった。そのとき私は奇妙な発見をした。この十年間の休みの後で、読む力は衰えるどころか、かえって進歩していた。その際に」――ここでジッドは強調の意をこめて言った――

「私を助けてくれたのは、ドイツ語と英語の親近性ではない。そうではなく、私が母語から遠ざかっていたという、まさにこのことが私に、外国語をものにするための弾みをつけてくれたのだ。

言葉を学ぶ際に一番重要なのは、どの言葉を学ぶかではない。自分の母語を離れること、これが決定的だ。また、実はそのときはじめて、母語を理解することになる」。

ジッドは航海家ブーガンヴィルの旅行記のなかの一文を引用した。「島を離れるとき、われわれはそれに〈救いの島〉という名を与えた」。

これにジッドは次のような素晴らしい文を付け加えた。「あるものに別れを告げるときにはじめて、われわれはそれに名を与える」》(ベンヤミン、「アンドレ・ジッドとの対話」)

Saturday, March 15, 2008

日本のオペラ、日本的なオペラ

今更ながらに村上さんの2007年5月4日のポストに対するレスポンスを(お忙しいさなか、レスを求めているわけではありませんので)。

村上さんには私もひとかたならぬ敬意と親愛の情を抱いています。近すぎず遠すぎず、今のような(従兄弟のような?)関係を「上方行き」の後も続けていけたら、と私の方は願っています。

村上さんとはお会いして飲んだりもするのですが、なぜかこういう話はあまりしませんね。それはプロ野球選手が飲み会で野球の話をしないのと同じかもしれません。その同じ選手が後輩の選手には経験談を話したり、アドバイスを送ったりすることはあるでしょうけれど。

このブログに書いていることの大半は、同輩や後輩に向けて書かれたものです。

ですから、村上さんの目に「前提条件にすぎないことを何も青筋立てて言わなくても」と映るのは不思議ではありません。ただ、「前提条件を論じる」のも「青筋」もこのブログの基本線なので(笑)。実物の私に会ったことのない方のために念のために言っておくと、私は普段、「青筋」な人ではないです。



さて、《英独仏語で書くことは、普遍性に到達するための条件にすぎない》と、私も思います。それはどんな条件なのでしょうか?必要条件?十分条件?分かりません。ただ、今周りを見渡してみて、哲学する際の使用言語に対する意識が全般的にとても低い、そう思います。

したがって、《ヒンティカやビヨークが凄いのは、彼らの強烈な普遍性への意志ゆえであって、英語はそこに至るための一つのツールにすぎない》、これにももちろん賛成です。

ただ、《ヒンティカやビヨークが凄いのは、英語だからではない》、これは微妙です。英語という契機はそこまで小さくはないと思うのです。現代の偉大な自然科学者は英語で書かずともやはり同じように偉大であったとは言えません。そして私たちが従事しているのは、人文学という科学であるわけです。

ビヨークが仮に英語で歌っていなかったとしても、アイスランド語で彼女の歌世界は完璧に表現されていたかもしれません(本当はこれもそれほど確かなことではありません。あの「ビヨークな英語」も魅力の一部なのですから)。

ともあれ、世界の音楽シーンは間違いなく「ビヨークのいない世界」に変わり、ビヨークはワールド・ミュージックの棚にひっそり並ぶことになっていたでしょう。それは英語を通じてビヨークの魅力を知ることになった音楽ファンにとって耐えがたい欠落であるはずです。アイスランド語では"Tibet, Declare Independence!"もインパクトは薄いでしょうし――私はビヨークの常にpoliticalな姿勢も好きです。

この「英独仏語」という準備的な契機をふたたび強く言うのは、若手研究者が村上さんの言説を誤解して、「だから結局、日本語でまずはいいものを書けばいいんだ」という従来の不毛な二者択一(哲学力か、語学力か)に退行してしまうのを危惧するからです。

でも、一歩進んだ地点を村上さんと共に夢想してみるのも楽しいことです。最近、武満の対談選がちくま学芸文庫で出ましたね。たぶん、村上さんのおっしゃりたいのは、目指すなら武満レベルを目指せ、と。何も意識の低い者を叱咤激励して貴重な時間を浪費する必要はないじゃないか、ということでしょうか。

「世界に認知されること」以上に、「世界にどう認知されるか」が重要というのは本当にそのとおりです。つまり、到達すべき普遍性にもいろいろある、ということでしょうか。そのことを考えるための一つのきっかけになれば。 何週間か前に書いた雑文です。



2008年2月29日付の朝日新聞夕刊に「日本的なオペラ、前面に」という小さな記事があった。

《本場の歌劇場の引っ越し公演は引きも切らず、新国立劇場は主役級に外国人歌手を並べる。そんな時代に全日本人キャストでワーグナーをやる意味は何か。答えの垣間見える公演だった》

という言葉で始まり、

《どんなにグローバリズムが進んでも、民族的形姿はついて回る。日本のオペラ界はそこを武器にしないと生き残れまい。》

と締めくくるこの記事は、いつも頭のどこかで「日本人が日本語で西洋哲学研究をやる意味は何か」と自問している私の興味を引いた。

むろん新聞の舞台評にその答えが書いてあれば苦労はしない。記事の筆者がいう「武器」とは、「日本的無常を漂わせた」簡潔な装置の中で、「日本人としては声量十分だが、欧米の名歌手たちと比べれば非力の感は否めない」歌手がヴォータンを演じるにあたって、「日本人を母に持つ[ので日本人の感性が手に取るように分かる、と言いたいのであろう]ベルギーの若い演出家」が、「考えようによっては、ヴォータンほど哀しい男もいない」という「無力な父のイメージ」を前面に押し出し、全編「大変な愁嘆場」にしてみせるというものだ。

彼の言う「民族的形姿」とはどうも「義理と人情の板ばさみに顔を歪める、まるでやくざ映画の鶴田浩二のような線の細い辛抱役は、日本人が歌ってこそ」といった「優男の悲壮感」であるらしい。これで「こちらも目頭が熱くなる」と言われても、こちらが困ってしまう。



日本語でフィロソフィーをやる意味は何なのか。フィンランド人がフィンランド語で哲学論文を書いたとして、いったい何人の人が読むのか?英・仏・独語が世界の哲学の共通言語である。なぜ日本語でなければならないのか。何のために?誰に読んでもらうために?哲学が科学性・客観性・真理などのために必ずや「普遍」を通過するものならば、より開かれた言語で書くのが哲学者の「義務」でもあるだろう。
デカルトやスピノザがラテン語で書いたように。フィンランド人のヒンティカが英語で書くように。デリダやフーコーが時折英語で話し、書くように。ドゥルーズが自分の書く言語に無頓着でいてもよかったのは、彼がフランス語という比較的メジャーな哲学言語の使用者だったからである。

学生のため?哲学ファンのため?自然科学者は、苦手であっても英語でペーパーを書き、日本語で授業をし、日本語で啓蒙書を書くではないか。なぜ人文科学者はもっぱら日本語で書くのか?

ここしばらく私が日本語でばかり論文を書いているのは、きわめて哲学外在的な理由によるのであって、今のところ、私には日本語で哲学・思想研究を行なう明確な哲学的理由が見つけられていない。

逆に問おう。「日本の哲学」とは何か?「日本的な哲学」とは何か?日本語で書かなければ、あるいは日本の思想家について書かなければ、日本の哲学ではないのか?日本人がやるから日本の哲学なのか?「日本的」とはどういうことか?これもよく分からない。

日本的なオペラ=歌舞伎(あるいは大衆演劇、あるいはやくざ映画)というほど単純なものでないことは確かだ。歌舞伎は日本のオペラにあたるといっていいと思うが、日本的なオペラが必ずしも歌舞伎的なものでなければならないということはない、ということである。

性急に答えを見つけようとして見つかる類の問いでもないだろうし、また実践を伴わない抽象的な「机上の空論」をして見せるつもりもない。自分の研究の歩みを進めることで自分なりの答えを探しつつ、倦まず弛まず問いの形を洗練していきたい。いつの日か満足な答えをその問いに与えられれば。

Thursday, March 13, 2008

68年―40周年

締めに向かって進んでいた「哲学と大学」、体調がさらに悪化し、中座を余儀なくされました。悪しからず。

友人gsbとawlからそれぞれJEとゼミについての告知。

フランスでは若手の友人たち(20代~30代)がシンポの司会を仕切って、上の世代が発表に精を出すのはごく普通のことです(むろん若手ばかりが司会をしているわけでもありませんが)。考えてみれば、こういった催しの実際的な裏方を仕切るのはたいてい若手なのであって、フランスではその彼らに「司会」役を任せることでいわば象徴的に「報いる」わけです。日本はどうでしょう(私は40代を若手とは呼びません。それは世界的な尺度から言って異常です)。このあたり、他のアジア諸国の「長老支配」的傾向からはかなりの程度脱しているとしても、日本にもまだまだ考えるべき点があるように思います。20~30代前半の若手にどんどんチャンスを与える、海外で発表する機会を与える。こういったことを大学横断的に組織していかねばなりません。

あと、フランスではたいてい、朝早くても、会の冒頭に最も重要な人物、目玉を置きます。今回で言えば、最近DG伝記を出したドッスです。日本で国際シンポをやる時は、もちろん日本風(最後に目玉をもってくる。韓国のフランス哲学業界もこの方式でした)でも構いませんが、その場合には海外招待者に位置づけの意味を十分に周知徹底しておいたほうがいいでしょう。

Journée d’études – Université Paris 8 Vincennes/Saint Denis Bâtiment D, amphi D01 Métro Ligne 13 – Saint Denis Université Samedi 15 mars 2008 40 ans après, « la pensée ‘68 » : Deleuze et Guattari

PROGRAMME
MATIN Président de séance : Guillaume Sibertin-Blanc
9h30-10h00 François Dosse (Historien, IUFM Créteil) « Félix Guattari : itinéraire jusqu’à sa rencontre avec Gilles Deleuze (1930-1969) »

10h00-10h30 Manola Antonioli (Docteur en philosophie) « Micropolitique et transversalité »

10h30-11h00 Jean-Claude Polack, psychanalyste et directeur de la revue Chimères. « De la psychothérapie institutionnelle à la schizo-analyse »

11h00-11h15 : PAUSE

11h15-11h45 François Fourquet, Professeur d’économie à l’Université Paris 8. « La subjectivité mondiale. Une intuition de Félix Guattari »

11h45-12h15 Anne Sauvagnargues, Maître de conférences en philosophie de l’art, Ecole Normale Supérieure de Lettres et Sciences humaines, Lyon. « Agencements collectifs, individuations et production de subjectivité : Deleuze-Guattari »

12h15 – 12h45 : Questions du public et débat

12h45-14h00 : Pause déjeuner

APRÈS-MIDI Président de séance : François Dosse
14h00-14h45 Franco Berardi (Bifo), Enseignant à l’Accademia di Brera, Milan « Des millions d’Alices en puissance : communication et politique du désir »

14h45-15h15 Guillaume Sibertin-Blanc, docteur en philosophie ; attaché temporaire d’enseignement et de recherche, Université Lille 3 « L’Anti-Œdipe dans la conjoncture post-68 : à qui se destinait la schizo-analyse ? »

15h15-15h30 Pause

15h30-16h00 Olivier Fressard, Conservateur des Bibliothèques – Université Paris 8. « Informer, communiquer, discuter, créer. Les créations sont-elles irrécusables ? »

16h00-16h30 Frédéric Astier, docteur en philosophie. « Deleuze et l’archive sonore post-68 ; avec diffusion d’extraits audio des cours »

16h30-17h00 Marielle Burkhalter, Maître de conférences à l’Université Paris 8 et documentariste. « Présentation de documents audiovisuels sur les cours de Gilles Deleuze à Vincennes »

17h00-17h45 François Pain, Vidéaste. « Guattari en vidéos. Chaosmose Postmédia »

17h45-18h15 Alain Raybaud, Historien, professeur à l’Institut Vatel. « Mai 68 n’a pas eu lieu »

18h15-19h00 Débat et conclusion du colloque


Politiques du Tout-Monde
Séminaire de l'université de Paris 8 et de l'Institut du Tout-Monde
sous la responsabilité de François Noudelmann


Les murs s'élèvent, les nations se crispent, les généalogies s'ordonnent. Le monde des échanges globalisés est aussi celui des assignations identitaires. Comprendre le tourbillon de la mondialité exige qu'on en finisse avec les antithèses fermées : enracinement vs cosmopolitisme, relativisme vs universalisme. L'infinité des relations possibles et imprévisibles entre les cultures, les lieux et les temporalités conduit à interroger le divers plutôt que l'univers. « La mondialité c’est la quantité finie et réalisée de l’infini détail du réel » écrit Édouard Glissant.

Penser le Tout-Monde requiert autant une esthétique qu'une politique, autant une poésie qu'une philosophie. Le séminaire mobilisera les théories et les imaginaires qui ouvrent de nouveaux paradigmes pour analyser les métamorphoses en cours, leurs rythmes et leurs énergies, leurs périls et leurs horizons. Traces, divagations, greffes, insurrections…

Patrick Chamoiseau: Mondialisation, Mondialité, Pierre-monde
28 mars à 18h30 (Maison de l’Amérique latine, 217 bd Saint-Germain, 75007 Paris)

Alexis Nouss: La beauté et la trace, approches d'une esthétique en suspens
14 avril à 18h30 (Maison de l’Amérique latine, 217 bd Saint-Germain, 75007 Paris)

Wednesday, March 12, 2008

哲学者の土曜日(6)金曜日のデリダ

2.金曜日のデリダ

《脱構築が一つの分析や一個の「批判」と常に区別されるのは、それが言説やシニフィアン表象だけでなく、堅固な構築物、「物質的」な制度に関わるからである。そして、関与的であるために、それは、哲学的なるもののいわゆる「内的」な配列が、教育の制度的形態と条件と、(内的にして、しかも外的な)必然性によって、連接するその場所において、可能な限り厳密な仕方で、作用するのである。制度の概念そのものが、同じ脱構築的な処理を蒙るところまで。》(デリダ)この引用については、2007年3月7日のポスト、および2007年5月23日のポスト



さて、デリダも、私の知る限り少なくとも三度(『弔鐘』、「正しく食べなくてはならない、あるいは主体の計算」と『信と知』)、ヘーゲルの「思弁的な聖金曜日」に言及しています。

が、そういった書誌的な細部を用いたこじつけなどせずとも、今日西山さんが扱ったデリダの大学論(『条件なき大学』、月曜社、2008年3月刊行予定)を一読すれば、この本は心晴れやかな日曜日の本ではなく、金曜日ないし土曜日の本であると断言できるのです。あたかもウィークデーとウィ-クエンドの間で絶妙なバランスを保ちつつ語り続けるラジオのDJのように。

「金曜日ないし土曜日」という妙な言い方をしたのは、デリダが何気なく、しかし執拗に、語っているのは日曜日や金曜日についてではなく――ただし、dimanche(p. 62)やdominical(p. 60)がまったく無意味でもない仕方で登場していることに最小限の注意は向けておく必要があるでしょう――、sabbatやsabbatiqueについて、それも否定的に語っているからです。


非sabbatの時間性

sabbatとは、「安息日」の意であり、キリスト教では「日曜日」、ユダヤ教では「金曜日の日没から土曜日の日没まで」を指します。sabbatiqueはその形容詞形で、repos sabbatiqueは「安息日の休息」であり、année sabbatiqueは「研究のために大学教授や企業の管理職に与えられる長期休暇」のことです。

では、「安息日」が『条件なき大学』に登場するのはどのような文脈においてのことでしょうか?デリダはその第四章で、来るべき人文学に対する7つの提言を行なう際に、その7番目にして最後の提言について、それも二度も、「その提言は安息日的なものではない」と断っています。

"La septième, qui ne sera pas sabbatique, tentera un pas au-delà des six autres vers une dimension de l'événement ou de l'avoir-lieu" (Jacques Derrida, L'université sans condition, éd. Galilée, 2001, p. 67).

"Au septième point, qui n'est pas le septième jour, j'arrive enfin maintenant" (p. 72).

また、第三章では、彼自身の大学論を支える論理を「《かのように comme si》の修辞学」と呼び――"comme"は脱構築の真の問題ないし標的であるとさえ言われます(p. 74)――、それはいかに似ているように見えるとしても、労働のない、「永遠の安息日の休息」「夜の来ない安息日」に満たされた社会といった来るべきユートピアを描くSF小説の論理ではない、と繰り返しています。

"La rhétorique de ce "comme si" n'appartient ni à la science-fiction d'une utopie à venir (un monde sans travail, in fine sine fine, "à la fin sans fin" d'un repos sabbatique éternel, lors d'un sabbat sans soir, comme dans La Cité de Dieu d'Augustin) ni à la poétique d'une nostalgie tournée vers un âge d'or ou un paradis terrestre, à ce moment de la Genèse où, avant le péché, la sueur du travail n'aurait pas encore commencé à couler" (p. 52).


労働時間の脱構築

デリダによるsabbatの頻用は一見すると奇妙なこだわりに見えるでしょうし、私のこだわり方も尋常でない(笑)ように見えることはよく承知しています。が、それは、時間や労働(ないし労働時間)といった概念の脱構築こそが、「哲学と大学」論を現代に通用するものにするために通らねばならない道であると、私もデリダ同様、信じているからです。

時間(heure)とは、「純粋に虚構的な数えうる単位」であり、「時(temps)を制御し、秩序づけ、数え(compte)、物語り(conte)、作り出す《かのように》」であるとすれば、講義、ゼミ、講演、あまつさえ「アカデミック・クォーター」さえもが、労働の時間によって規定されているのです。大学教員の怠慢(?)の代名詞のような時間すら、それ自身ある歴史(例えばスウェーデンの)を持っているのです(もちろん遅刻を擁護しているわけではありません)。

"L'heure reste le compteur du temps de travail hors et dans l'université, où tout, le cours, les séminaires, les conférences, se calcule par tranches horaires. Le "quart d'heure académique" lui-même se règle sur l'heure" (p. 62).

7つ目のポイントが「7日目(=日曜日)でない」と言われてしまえば、デリダのこの本を金曜的だと強弁している私たちには、5つ目のポイント――これは5日目(=金曜日)的ではないのでしょうか?――がどのようなものであるかが気になるところです。

"5. Ces nouvelles Humanités traiteraient, dans le même style, de l'histoire de la profession, de la profession de foi, de la professionnalisation et du professorat. [...] Nous assistons bien à la fin d'une certaine figure du professeur et de son autorité supposée, mais je crois, l'ai-je assez dit, en une certaine nécessité du professorat" (pp. 71-72).

「職業=プロフェッショナル」という概念の歴史――例えば、professionは必ずしもtravailともmétierとも重なりません――、「所信表明 profession de foi」の歴史、「職業化・専門化 professionnalisation」の歴史、「教授職 professorat」の歴史を再検討することを通じて、ある種の「教授」像の終焉と、彼が備えていると想定されていた「権威」の終焉を確認し、と同時に、教授職を維持するある種の必要性=必然性を確認せねばならない、というのがデリダの構想する「新たな人文学」の5つ目の、そしてprofessionという語を強調していた西山さんにとってもおそらくは最も重要な、ポイントです。

このとき、デリダは決して実生活と切り離された真理追求という日曜日的なポジションにいません。彼は、職業として、脱構築という仕事・労働に従事しており、ウィークデーにいるのです。そして、「大学は無条件的に真理を追求できるものでなければならない」というデリダの信仰告白=信条表明は、聖金曜日のpietàにも似た悲痛な響きを伴っています。これがデリダの「哲学と大学」論を金曜日的だと見なす理由です。(続く)

Tuesday, March 11, 2008

哲学者の土曜日(5)日曜日から金曜日へ

二つの目の参照軸は、ネグリ+ハート『帝国』です。この本には様々な読み方があるでしょうが、私にとってこの本の中心概念の一つは、《非物質的労働 travail immatériel》です。

農林水産業中心のパラダイムから産業革命後の工業中心のパラダイムへの移行、社会の工業化を「経済の近代(モダン)化」と呼ぶのが正当だとすれば、人口の大半が第三次産業(サーヴィス業・情報産業)に就いている状態への移行、社会の情報化過程をためらうことなく「経済のポストモダン化」と呼ばねばなりません。そこで生み出される労働やその結果生み出される財の特徴、それが非物質性です。

《サーヴィスの生産が結果としてもたらすのは物質的財や耐久消費財ではないのだから、私たちはこうした生産に含まれている労働を非物質的労働と定義することにしよう。すなわち、それは非物質的な財を産み出す労働――サーヴィス、文化的生産物、知識、コミュニケーションのような――のことである》(アントニオ・ネグリ+マイケル・ハート、『帝国―グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』、以文社、2003年、375頁)。

"Comme la production de services ne débouche sur aucun bien matériel ou durable, on définit le travail impliqué dans cette production comme travail immatériel - c'est-à-dire un travail qui produit un bien non matériel tel que service, produit culturel, connaissance ou communication" (Michael Hardt et Antonio Negri, Empire, tr. fr. Denis-Armand Canal, éd. Exils, 2000, p. 355).

もちろん『帝国』に関しても非物質的労働概念についても批判があることは承知しています。前者にはジジェクの批判がありますし――ただし、ジジェクの批判は煎じつめれば《現代に必要なのはマルクスの再読解ではなく、レーニンの反復だ》という相当乱暴なものですが――、後者には例えば宇仁宏幸(うに・ひろゆき)さんの「ネグリの《非物質的労働》概念について」(『現代思想』2003年2月号、119-129頁)がなかなか有効であるように思います――「構成 constitution」概念の失敗が、「労働の自己価値増殖」の過大評価につながっている、という論文後半部の仮設の妥当性は量りかねますが。また、「非物質的労働」概念自体に私自身、留保がないわけでもありません――それが様々な労働過程の均質化を意味する、というのは首肯できないからです。

しかし、ともかくも、現代の政治経済学を考えるうえで、「非物質的労働」概念の《批判》が避けて通れない仕事であることだけは言を俟たないと思います。この概念をはじめとする新たな労働状況の出現が日曜/日常、余暇/労働、家庭/仕事の伝統的な区別を内側から蝕んでいるのです。

《政治的な文脈において生産と再生産の区別が徐々に消えていくことは、時間と価値の計測不可能性を再び際立たせることになる。労働が工場の壁の外に溢れ出すにつれて、労働日という虚構の尺度を維持し、生産の時間を再生産の時間から、あるいは労働時間を余暇の時間から切り離すことはますます困難になる。

生政治的な生産の地勢上にはタイムカードは存在しない。プロレタリアートは、一般性を十全に発現するような形で、あらゆる場所で、あらゆる時間に生産しているのだ》(同上、499‐500頁)。

"L'indistinction progressive entre production et reproduction, dans le contexte biopolitique, illustre aussi - une fois encore - la non-mesurabilité du temps et de la valeur. Comme le travail sort des murs de l'usine, il est de plus en plus difficile de maintenir la fiction d'une mesure quelconque de la journée du travail, donc de séparer le temps de la production de celui de la reproduction, ou le temps de travail du temps de loisir.

Il n'y a pas d'horloges pointeuses sur le terrain de la production biopolitique : le prolétariat produit partout, dans toute sa généralité, toute la journée" (p. 484).

従来自明視されてきた仕事を取り巻く二項対立図式が、科学技術、とりわけ情報技術の発達による時間概念の変化を通じて大きく揺さぶられており、日曜/日常もその例外ではありません。大学教員や哲学者が大学と社会、哲学と社会の関係を考えるに際して、「無用の用」を持ち出すとしても、これまでのような日曜日のamateurism・純粋主義を前面に押し出した形では説得的な議論はなしえないのではないかと思うのです。

大場さんが「《われわれ》とは誰でしょうか?哲学者?大学教員?社会全体?」という批判的な質問を投げかけたとき、念頭にあったのは「大学とは誰のものか」という決定的な問いを抜きに立論すると、哲学者による机上の空論に終わりかねないという危惧ではなかったかと思いますが、私の方からは以上のような方向性(日曜日の脱構築)でお二人の議論は収束しうるのではないかということを申し上げておきます。


日曜日から金曜日へ

しかし、私たちはヘーゲルとそう簡単に手を切れるのでしょうか?ヘーゲルと訣別したつもりで、その実、私たちはよりいっそう否定的なもののもとへと滞留し続けることになるのではないでしょうか?「朝(あした)に笑う者は夕べに泣く」「盛者(じょうしゃ)必衰」に該当するフランス語の諺に「金曜日に笑う者は日曜日に泣く Tel qui rit vendredi dimanche pleurera.」というのがありますが、ここでは「日曜日を笑う者は金曜日に泣く」とでも言ってみたい気分に駆られます。

というのも、実は、ヘーゲルは金曜日についても語っているからです(笑)。1802年に書かれた『信と知』Glauben und Wissenの最後に、

「思弁的な聖金曜日」
speklativer Karfreitag
Vendredi-Saint spéculatif

という言葉があります。聖金曜日とは、キリストがゴルゴタの丘で磔刑に処された受難(Passion)の日です。先に「人生の日曜日」には様々なバリエーションがあると言いましたが、この「思弁的な聖金曜日」の解釈にも様々なヴァージョンがありそうです。例えば、2006年9月にSteffen DIETSCHという研究者が、その一例としてHans Urs von Balthazarという神学者の描き出した終末論的なヘーゲル像をポワチエ大学で紹介したことがあるようです

それはともかく、この「思弁的な聖金曜日」は、『精神現象学』のやはり最後に出てくる

「絶対精神のゴルゴタ」
Calvaire de l’Esprit absolu (仏語のニュアンスについてはこちら
Schädelstätte des absoluten Geistes

とほぼ同義で、純粋概念が、あるいは無の深淵としての無限性が、「無限の苦痛(Schmerz)――歴史的には教養の立場において"Gott selbst ist tot"という感情としてあったところのもの」を単なる一契機として示すことで、有限性を絶対的なものとみなすカントらの「教養の立場」を否定する過程を意味しています。

要するに、「神は死んだ」という感情を最終審級と見なすのではなく、この感情の冷徹な真理性を「絶対的な受難(Leiden)」として受け止めるということは、受難の金曜日を世界の終わりと見なさず、その後に復活が、そして復活祭の無限の反復が待ち受けていると考えることです。

これを私たちの文脈に置き換えて言えば、「無用の用」としての哲学から日曜日が持ちうる楽観的ないしアマチュア的な相貌を剝ぎとり、無限の批判作業が職業(プロ)として行われるべき金曜日の性格を哲学に見てとることだと言えるでしょう。

こうして私たちは、ヘーゲルの大学論からデリダの大学論へと移行することになります。(続く)

Monday, March 10, 2008

哲学者の土曜日(4)日曜日の脱構築

日本の日常:日曜の頽落

要するに、このグローバリゼーション状況下にあって、日曜/日常、聖なるもの/日常的なもの、余暇/労働の伝統的な二項対立図式を保持したまま、利害を超越した大学ないし哲学の真理探究という《無用の用》の側面、《日曜日》の側面を特権視するだけで、絶えずさらなる有用性・効率性・機能性を要求する新自由主義的な言説に対抗しうるのだろうか、ということが大河内さんの問題意識ではなかったでしょうか。

ここで瀬戸一夫『時間の民族史―教会改革とノルマン征服の神学』(勁草書房、2003年)に言及しておきたいと思います。瀬戸氏は、中世ヨーロッパ人の来世信仰は必ずしも我々現代人の理解を超えたものではないと強調し、現代の高等教育を例にとっています。

高等教育が必ずしも成功や幸福の確実な保証とはなりえないにもかかわらず、私たちが若い時期のかけがえのない時間を犠牲にして学業に耐えているのは、そのことによっていつの日か実社会で《成功》や《幸福》に近づくことができるという「信仰」のためではないか。受験戦争に巻き込まれた多くの小中高生、予備校生のメンタリティは、来世を待望しつつ信仰生活を耐え抜く修道僧のそれとさしたる相違はないのではないか。

中世と現代は「来世」=「実社会」、「天国」= 裕福で安定した「老後の生活」、「修道院」=「学校」という対比構造で捉えることができるという瀬戸氏の類比は、プロテスタンティズムに拠らずともカトリックの枠内で資本主義をはじめ現代的生の予定説的な側面を語りうる可能性を示し、上述した古典的な時間の生-権力が今なお脱魔術化されきることなく私たちを呪縛していることを物語ってはいないでしょうか。

現代社会、とりわけ日本社会にあって《神聖》なのはむしろ働く時間であり、日曜日はまた一週間を走り抜けるための《卑俗》な骨休めにすぎません。大学、とりわけ人文学でしばしば見られる「無用の用」の言説、日曜日ないし余暇、真理の客観性・科学性・中立性の魅惑を単純に強調することは、主権(至上権)が行使される週日に行なわれる《労働の聖別sacralisation du travail》に対抗するかに見えて、その実、二項対立図式として同じ地平を共有しており、地平線の向こうへと眼差しを向けさせないという意味では、後者よりたちが悪いとすら言えるかもしれません。

重要なのは、日曜日の脱構築を通じて日常/日曜の対立そのものを内側から解体することです。そのためには、例えば、古今東西のさまざまな「怠けparesse」論を読み直さねばならないでしょう(私の2003年8月のポストも参照のこと)。ネット上でもポール・ラファルグの名著『怠ける権利』を読むことができますので、ぜひご一読下さい。


日曜日の脱構築:世界化と非物質的労働

ここではしかし、フランス現代思想の最前線から二つの参照項を借りて、大河内さんの議論を延長すると同時に、大場さんの議論との接続の可能性をごく手短に示唆するという方途を取ることにします。それら二つの参照項の共通点は、グローバリゼーションに二項対立の形で対抗運動を対置しようとするのではなく、グローバリゼーションそのものの中に現在支配的な傾向とは異なる要素を見出し、その潜在的な力に注目しようとしているところにあります。

一つ目の参照軸は、ジャン=リュック・ナンシーによるグローバリゼーションに関する議論です。

《もし世界化が――価値を普遍的なものとすることによって――価値の生産を転位させる前に、世界化(脱神学化)が価値というものを転位させる――価値を内在化させる――ならば、この両者はともに、「創造」を世界の「理由=根拠の不在」へと転位する。だがこの転位は、存在‐神論的図式、あるいは形而上学的‐キリスト教的図式の場所移動、その「世俗化」ではない。この転位は、この図式の脱構築、空洞化であり、また、賭け=遊動――と危険――の他の空間を切り開く》(『世界の創造 あるいは世界化』、現代企画室、2003年、42‐43頁)。

"Si la mondialisation (la déthéologisation) déplace la valeur - l'immanentise - avant que la mondialisation déplace la production de la valeur - en la faisant universelle -, les deux ensemble déplacent la "création" en "non-raison" du monde. Et ce déplacement n'est pas une transposition, une "sécularisation" du schème onto-théologique ou métaphysique-chrétien : il en est la déconstruction, l'évidement, et il ouvre un autre espace de jeu - et de risque - dans lequel nous entrons à peine" (Jean-Luc Nancy, La création du monde, ou la mondialisation, éd. Galilée, 2002, pp. 55-56).

フランス語では、「グローバリゼーション globalization」という英語の概念を指すのに、通常globalisationは用いず、mondialisationという語を用いますが、ナンシーは通常等価と見なされるこの二つの語の間に錯綜した関係を見出すことでグローバリゼーション状況の分析と批判を同時に行おうとするわけです。ここで重要なのは、「mondialisation=世界化」という概念がグローバリゼーションを横溢しやがて内部から転覆する剰余の契機として考察される際に、「価値」概念が持ち出され、その否定ではなく批判こそが重要だと言われている点です。

価値・効用・有用性は経済的な概念だからと忌避するのではなく、その似非科学的で形而上学的な側面を批判し、価値概念の刷新を図ることが、同時に経済状況への介入となる。我々の文脈で言えば、大場さんの指摘された「大学における質保証」や「評価」の問題を単に忌避ないし呪詛するのではなく、逆にそこで用いられている「質保証」や「評価」といった概念の批判的な検討を行なうことが、同時に教育の政治状況への哲学的な介入となるのではないでしょうか。(続く)

Sunday, March 09, 2008

哲学者の土曜日(3)日曜日のヘーゲル

1.日曜日のヘーゲル

ではさっそく大河内さん、西山さんの発表の核になる部分を振り返り、それを適宜延長することで大場さんの発表との刷り合わせを試みてみたいと思います。

大河内さんの発表「教養・体系・国家:ヘーゲルにおける大学と哲学」の中心を占める鍵概念も、何といっても有名な《生活[人生]の日曜日 Sonntag des Lebens》ではなかったでしょうか。私なら発表タイトルを「日曜日のヘーゲル」(笑)とでも名付けてみたいところです。

コジェーヴにはじまる

周知のように、「人生の日曜日」には幾つかのバージョンがあります(昨年末の日本ヘーゲル学会で入江容子さんという方が《ヘーゲルにおける「人生の日曜日」の問題》と題した発表をされています)。おそらく最も有名な例は、『美学講義』のオランダとドイツの絵画に関する章に出てくるものではないかと思われます。

《人生の日曜日こそがすべてを平等にし、邪悪なものすべてを遠ざける。これほど上機嫌になれる人間が、根っからの悪人であったり、卑しい人間であったりするはずはない》

„In dieser unbekümmerten Ausgelassenheit selber liegt hier das ideale Moment es ist der Sonntag des Lebens, der alles gleichmacht und alle Schlechtigkeit entfernt Menschen, die so von ganzem Herzen wohlgemut sind, können nicht durch und durch schlecht und niederträchtig sein.“ (ヘーゲルの言わんとするところが絵画付きで分かる重宝なサイト

« Le moment idéal réside justement dans cette licence exempte de soucis ; c’est le dimanche de la vie, qui nivelle tout et éloigne tout ce qui est mauvais ; des hommes doués d’une aussi bonne humeur ne peuvent être foncièrement mauvais ou vils » (Esthétique, troisième volume, tr. fr. par S. Jankélévitch, p. 314).

この一節が有名なのは、フランスの小説家レイモン・クノーが1951年に『人生の日曜日』という小説を発表し、その冒頭にこの一節を掲げたからです。これまたよく知られているように、アレクサンドル・コジェーヴの『ヘーゲル読解入門』(1947年)は書き下ろされた「著作」ではなく、作家にして編集者でもあったクノーが編集出版した「講義録」でした。

コジェーヴ≒クノー(イコールではありません)の「人生の日曜日」は、「歴史の終わり」を生きる人間のシニシズムに満ちた平穏な生活を意味しています(実は『美学』にあたってみると、例えばブリューゲルの絵に見られる何とも言えない農民風のおかしみ、ほとんど動物的な陽気さ、といったほぼ完全に異なる意味で使われているのですが…)。

近々(3月10日)、マルコ・フィローニというイタリア人哲学者が同題の著書(Il filosofo della domenica. La vita e il pensiero di Alexandre Kojève, Bollati Boringhieri, Torino 2008.)刊行を機に「日曜日の哲学―20世紀フランス哲学におけるアレクサンドル・コジェーヴ」と題する講演をUTCPで行なうそうですが、何という偶然でしょうか。ヘーゲルにおける「人生の日曜日」がクローズアップされるようになったのは、少なくとも私の知る限り、まさにコジェーヴを通じてのことなのです。


日曜と日常、聖と俗

さて、しかし、大河内さんが発表で主に依拠されたテクスト「ベルリン大学教授就任講義」(1818年)に現れる「人生の日曜日」は、コジェーヴ≒クノー的なそれとはまた違ったものです。

そもそも、日常(Alltag, quotidien)と日曜(Sonntag, dimanche)の関係は、社会組織のみならず、個人の行動原理、精神構造までも少なからず規定しています。フランス語で「日曜日」を意味するdimancheがdies dominicus(主の日 jour du Seigneur)の縮約形であることから分かるように、かつて時間は教会によって支配され、超越的な原理の顕現する特別な日(Sonntag,太陽の日 jour du soleil)を中心として、一週間が組織されていました。世界創造を終えた後の安息日の休息は神聖なもの、信仰者にとっての責務であり、他のすべての日(Alltag)は、日常的なもの(alltäglich)、卑俗なものでした。

岩崎さんも言及されたotiumとnegotiumの伝統的な概念対、すなわち余暇と労働の関係に基づく古典的な「時間の政治学 chronopolitics」――むろん永井陽之助(1924年-)のそれとは必ずしも重ならない意味での――、より正確に言えば時間の生-権力があったわけです。

「ベルリン大学教授就任講義」で、ヘーゲルは日曜と日常のこの伝統的な二項対立を持ち出しています。

《最も偉大な制度のうちの一つであるのは、通常の市民生活において時間が仕事日の仕事と日曜日、つまり必要の関心、外面的な生活の仕事(そこで人間は有限な現実性に沈み込んでいる)と、人間がこの仕事を免れ、彼の目を地上から天へと向け、彼の神性、永遠性、彼の本質を意識することになる日曜日とに分けられていることである》(GW XVIII, 26)。

ただし、プロテスタンティズムの国プロイセンの「中心(Mittelpunkt)の大学」たるベルリン大学に来たことに自覚的であったヘーゲルは、純粋で「無用」な信仰生活を送る役割を担っていた僧侶に代わって、自分の他に目的を持たず、したがって「有用 nützlich ではない」真理の認識を生業とする哲学者が「日曜日」を簒奪することを強調しています。「人生の日曜日」という鍵概念が登場するのはこの文脈においてです。

《哲学との交流は人生の日曜日と見なされうる》(ibid.)。

大河内さんの主張のポイントは、ヘーゲルの「哲学と大学」論は「日曜日」(創世記)の世俗化、「日曜日の機能転換Umfunktionierung」であった、したがって伝統的な「日曜/日常」図式の顛倒でも破壊でもなく、むしろその図式が維持され、純化・脱神秘化を経て強化されさえしたということだと思います。

僧侶に代わって哲学者が「無用の用」のミサを執り行ない、そこでは厳しい脱神秘化、概念化の試練が待っている――「日曜大工」「日曜歴史家」など、アマチュア性を示すために「日曜日」という言葉が用いられることがあり、とりわけ「日曜歴史家」などの場合、ただ単に「プロではない」ということを意味するだけでなく、「利害関係から離れた、特定の教義に縛られない、自由闊達な」という含意をもつこともあります。この意味では、ヘーゲルの言う哲学教授は「日曜哲学者」だということになるでしょう。

しかし、たとえ厳しい脱神秘化や概念の試練が待っているとしても、「人間が平日働き通すのは日曜日のためであり、日曜日を持つのは平日の仕事のためではない」(ibid.)という図式は変わりません。

《大学とは社会における/から切り離された「日曜日」的存在であり、哲学とは大学における/の中でも特殊な位置にある「日曜日」である》として、「無用の用」という言説自体は批判的な検討に付されることなく維持されています。これで現代の大学に突き付けられる新自由主義的な言説に対抗できるのだろうか、と。

大河内さんは冒頭で「ヘーゲルの中に必ずしも答えがあるとは思っていない」と言われ、また最後に「日曜日も大学もかつての意味を失いつつある今、その場所を我々はどこに見出すのか」と問われましたが、それはこのような意味合いにおいてのことだったと思います。(続く)

Saturday, March 08, 2008

哲学者の土曜日(2)教育、哲学の他者?

フーコー・ドゥルーズ・デリダにおける哲学・教育・政治

これが二流・三流の哲学者――カンブシュネールは、magistralités secondairesとか「疲弊しきったパラダイム内部で営まれるクーン的な「通常科学」の意味での「通常の」活動」といったソフトな表現を用いていますが、分かりやすく言えばこういうことでしょう――の教育への受動的な無関心だとすると、二つ目の脱備給は、一流の哲学者による教育の積極的な「否認 désaveu」です。

カンブシュネールは、「冒険的な、すなわち予見不可能で慣習に囚われない思考のみを思考とし、それ以外の哲学的身振りが存続しうると想像することを拒否する」態度の代表例として――まさに西山さんもレジュメの中で指摘しておられましたが――フーコーを挙げています。

《フーコー・ドゥルーズ・デリダ》と並べて語られることも多い三人であり、先ほどの《哲学・教育・政治の三位一体》で言えば、哲学と政治に関しては類似点も多く挙げられますが、殊教育に限って言えば、三人の態度、ポジショニングはまったく異なるといってよいでしょう。

(註:ドゥルーズに関しては、2007年1月17日のポスト「哲学と政治」、デリダに関しては、2007年5月23日のポスト「脱構築とは制度の脱構築である」を参照のこと)。

フーコーとドゥルーズには教育、とりわけ大学などの教育制度に関する言及がほとんど見られず、見られる場合には「規律・訓育としてのdiscipline」の観点から語られるのが常であるのに対し、デリダには教育や制度に関するもっとニュアンスに富んだ数多くの言及、幾つかの著作があります。

この違いは著作や発言だけにとどまらず、彼らの制度的な所属先にも見られます。三人が三人共に、アカデミスムの中心であるソルボンヌにいなかった、大学制度の規範が指し示す囲いの外、いわゆる大学の外部にいたという点では共通していると言えるかもしれませんが、フーコーはクラシカルな王制の遺物であると同時に自由な知的機関でもあるコレージュ・ド・フランス教授であり――ベルクソンやメルロ=ポンティのように、と申し添えておきましょう――、ドゥルーズは実験的な大学として有名であったパリ第8大学に「在籍」したのに対し、デリダはまた別の意味で大学の外にあるENSやEHESSに在籍しながら、国際哲学コレージュを「創設」しました。

デリダもドゥルーズもフーコーも天から降ってきたわけではなく、彼らの天才がある時代の、ある国の、ある制度に育まれ、制度と衝突し、制度との格闘を通じて生まれた偶然と必然の産物であるというごく当たり前のことをよくよく肝に銘じておく必要があります。

三人の「制度」やその中での教育や哲学活動というものに対するスタンスの違いから彼らの哲学自体を眺め直してみることは、単に興味深いという以上の効果を彼らの哲学理解にもたらすであろうという事だけは言っておきたいと思います。

(フランス留学を経験した研究者にすらも、しばしばこの「制度」という視点が抜け落ちているのは、彼らが修士や博士課程からフランスに行き、ただただ真面目に必須授業に出席するか、あるいはあたかもコンサートかミサに通うように高名な哲学者たちの講義や講演ばかりつまみ食いするかの違いはあれ、いずれにしても研究者養成制度の一端を垣間見ただけで――私は別のところで、フランスの高等教育と日本のそれとの決定的差異は「研究者養成制度」と「教育者養成制度」の制度的分離であると繰り返し強調してきました――フランスの哲学事情が分かった気になり、あとは部屋や図書館に閉じこもって独学に勤しむという彼らの生活習慣・思考習慣と関係しています。制度に庇護され、あるいは制度に規定されながら、制度の存在やその在り方に無自覚であるというのでは、ドゥルーズやデリダ、フーコーを勉強している意味が大きく減じるように思えます。)


哲学と教育:他者と出会うこと

カンブシュネールが描き出すこの二つの脱備給のタイプは、実はどちらも日本の哲学・思想研究の現状にそのまま見出されるものです。前者の「教育に対する受動的無関心」は保守的でアカデミックなタイプに見出されますし、後者の「教育の積極的否認」は現代思想系で相対的にジャーナリスティックなタイプによく見かけます。

今日ここでコメントをするにあたって強調しておきたかったこと――残念ながらというべきか、予想通りというべきか哲学科の学生・院生がほとんどいないようですが――、それは《教育の哲学》の必要性です。今日蔓延する放棄(délaissement)、相続人不在(déshérence)、自生的な脱備給(désinvestissement)、ほとんど象徴的な去勢とでも言いたくなるような無関心(désintérêt)に対抗して、《教育の哲学》にふたたび関心をもち、積極的に相続し、批判的に備給するだけでなく、哲学に関心を持つすべての人々に関心を持たせる(intéresser)ことこそが真の《哲学の教育》につながるのだ、ということです。

ただしこの関心=利益(intérêt)は、大河内さんがいみじくも指摘したように、時流におもねった哲学の有用性(utilité)を強調するためのものではなく、短期的な有用性――精神医学であれ脳科学であれ――の限界を批判=境界画定する哲学に内在的な効力(efficacité)を強調するためのものでなければなりません。限界を批判するとはもちろん無意味を宣告するということではまったくなく、どこまでも融通無碍な概念装置であるかのような幻想を捨て去るということです。

例えば、誰の目にも明らかなように、可塑性で何でも説明できると思うのは誤りです。しかし、だからといって、可塑性を無視するだけなら、それもまたさほど哲学的な身振りとは言えないでしょう。より興味深いのは、可塑性概念に何が出来て、それによってどこまで行けるのかという境界画定を行なうことです。概念は規定されることで己の力を十分に引き出すのですから。

大場さんは、大河内さんの発表の最後に出てきた《われわれ》とはいったい何者なのかと問われました。これは、今日のこのシンポジウム全体にとって決定的な問いであったと思います。私もこのコメントの最後でやはりこの問いに戻ってくるつもりですが、ここではひとまず、《われわれ》若手哲学・思想研究者が教育の問題、大学の問題に関心を持ち、その関心を公にしていくこと、教育界・教育学者・大学論者・官僚という哲学にとっての他者の言葉に耳を傾けると同時に、彼らにも耳を傾けてもらう場を持つこと、これがこのイヴェント=出来事の大きな意味であり、大場さんがここにいらっしゃる意義の少なくとも一つではなかろうかということを申し上げておきたいと思います。(続く)

Friday, March 07, 2008

哲学者の土曜日(1)哲学・教育・政治の三位一体

2月24日、シンポジウム《哲学と大学―人文科学の未来》に参加。そこで喋ったことを(時間の都合上喋れなかったことも含めて)ここに再構成しておく。

***

大河内さんが会の冒頭で予言されたように、彼がヘーゲルで《トス》を上げて、西山さんがデリダで《アタック》という展開で前半を終えました。前半の「哲学者の大学論」とは内容的にも形式的にも――パワーポイントの使用といった事だけでなく、語り口そのものの性質が――まったく異なる大場さんの「ヨーロッパの大学制度論」は、その伝でいえば《レシーヴ》ということになるでしょうか。

私の役目は、このレシーヴの意味を明らかにするよう努めること、感性と悟性の間を繋ぐ構想力よろしく、前半と後半の間をつなぐというほとんど不可能に近い課題に挑戦することであります。さて、うまくいきますか。

0.「教育の哲学」が「哲学の教育」に必要である――哲学・教育・政治の三位一体

まず、自分の話から始めさせていただきます。私はフランス哲学・思想を専門とする若手研究者ですが、私の周りを見渡してみて常々不満に思っていることがあります。それは、哲学や思想を研究する者は、常々《自分がどういう場所、どういう状況に身を置いてものを考えているか》ということに意識的、反省的、批判的でなければならないはずであり、哲学・政治・教育はほとんど三位一体とでも言うべき三角形を形成するはずであるのに、現代の哲学・思想研究の物質的・精神的基盤たる「大学」や「研究と教育の関係」といった基本的な事柄に対してほとんど何の自覚も意見も持ち合わせていない人が多すぎはしないか、ということです。

先ほど岩崎さんがおっしゃっていたことですが、大学の独立行政法人化(後の大学法人化)のとき、同じ理論系の「マイナー」学問である地質学や天文学の学者が危機感を募らせて反対運動に加わったのとは好対照に、最もだらしなかったのが人文学、殊に哲学科であったというのは誠に象徴的な話です。

しかし実は、事情はフランスでも同じです。2006年に雑誌『テレマック』で特集「教育を考える」、2007年に雑誌『形而上学・道徳雑誌』で特集「今日、教育を考える」を組んだドゥニ・カンブシュネール(パリ第一大学教授・哲学)は、現在のデカルト研究を先導する一人と見なされていますが、その彼がやはり次のようなことを述べております。

《教育はフランスではなおざりにされた=見捨てられた(délaissée)問題である。個人的に、普通の会話の中でなら、これほど情熱的に語られるトピックもない。それゆえ育児論から教育制度の現状に至るまで、さまざまなジャンルでありとあらゆることが語られてもいる。だが、哲学の分野に限って言えば、事情はそれほど芳しいものではない。

「教育の哲学」は、フランスでは事実上IUFMにしか存在しておらず、したがって厳密な意味での大学には不在であり、こうした一種の制度的な無[néant institutionnel]のゆえに今日では姿を見かけることすら稀になってしまった。》(Denis Kambouchner, "L'éducation, question première", Revue de Métaphysique et de Morale, octobre-décembre 2007, p. 415.)


[註:IUFMはInstituts Universitaires de Formation des Maîtresの略。「教員教育大学センター」「教師教育大学院」「大学付設教師教育部」などと訳されている。]

《この問題に取り組んでいる人々の質云々ではなしに、教育の哲学はフランスでは相対的に恵まれない=相続権を奪われた(déshéritée)分野である。[…]実際、我々の間で、教育の問題が哲学者の興味を引く(intéressent)ことはほとんどない。一つ象徴的な例を挙げれば、LMD制度の準備に関する会合で、哲学科でも教育の哲学に関する部分を増やしてみてはどうかと提案したところ、「それは我々の務めではない」とか「それに取り組むにはIUFMがある」といった発言が同僚の一人からあり、その発言に何人もの賛同者があった。》(Denis Kambouchener, "Les nouvelles tâches d'une philosophie de l'éducation", Le Télémaque, 2006, pp. 45-46. )

カンブシュネールは、このように学校や大学における教育の状況改善・環境整備に対する物理的・精神的な「投資をやめてしまうこと(精神分析で言うところの脱備給) désinvestissement」が現在哲学界を支配しているが、この脱備給には二つのタイプがある、と言います。

一つは、哲学活動の制度的な下部構造の問題です。現在、哲学という活動はたいてい大学で行われることになっていますが、歴史上常にそうであったわけではありません。哲学の年齢は大学の年齢より古い。現在大学で進行している極端な専門分化、細分化(atomisation)は、本来的に体系的な知(エンチクロペディー)であるはずの哲学の広範な弱体化(affaiblissement global)をもたらすと同時に、哲学が長年モデルとしてきた師と弟子の関係を解体し――もはや誰も師の位置を占めることはできない――、教え学ぶということが哲学にとって有している本源的な意味に対する哲学者たちの集団的な無関心(désintérêt collectif)を助長しているというのです。(続く)

Thursday, March 06, 2008

シンポジウム「哲学と大学」

ynさんによるシンポジウム「哲学と大学」の報告文がUTCPサイト上に掲載されたので、興味にある方は是非どうぞ。私のコメントも記憶に残っているうちにこのブログにまとめておきたいと思ってはいるのですが、なにしろ体に無理がきかない状態なので。。

大学論:3月17日に『高学歴ワーキングプア―人文系大学院の未来』の著者水月昭道さんを招いて「哲学と大学」ワークショップが行われますので、お誘い合わせのうえぜひお越しください。日仏の比較に興味のある方は、

マリー・ドュリュ=ベラ、『フランスの学歴インフレと格差社会』、明石書店、2007年12月。

を併読されることをお勧めします。例えばこんな感じ。

《ここ四、五十年来のフランスにおける学業期間の長期化には目覚ましいものがある。中等教育修了後に取得する学位であるバカロレアの保有者の割合は二倍に増えた。この割合は現在、およそ63%であるが、政府はこれを80%にまで引き上げようと目論んでいる。

フランスでは、「さらに多くの」教育を施すことは当然良いことであるとして、とくに高等教育における学業期間の長期化を推進し続ける方針に対して、絶大なるコンセンサスがあるが、本書の意義とは、こうした政治的意向に疑問を呈するところにある。

これまで五十年間で教育レベルは飛躍的に上昇したが、それと同等の社会移動は確認されていない(特に中流階級の子供たちの雇用機会増大は確認されていない)。この事実は何よりもまず、フランスの教育を万能と見なしがちな傾向に反して、雇用を創出するためには学位を生産するだけでは不十分であることを物語っている。つまり、世代の推移に伴う社会移動とは、何よりもまず経済的背景が生み出す雇用環境に左右される、ということだ。

不平等を削減するための唯一の効果的な手段とは、その根源から悪を取り除くことであり、教育の初期の段階から顕在化する、成功から生じる社会的不平等に取り組むことであろう。》(3‐6頁)

教育だけで完結してしまうことの危険、文部省と東大法学部教授の「結託」を非難するだけであれば、政治の世界にありがちな陰謀論に終わってしまう。その陰謀論がどれほど説得力をもったものであろうと、それは所詮陰謀論の域を出ない。その先へ一歩を踏み出すことが明澄な眼差しをもつことにつながる。哲学・教育・政治の三位一体の重要性がそこにある。