Friday, June 29, 2007

『創造的進化』百周年・日本篇詳細

「生の哲学の今―ベルクソン『創造的進化』刊行百周年記念国際シンポジウム」
(2007年10月16-20日)

ベルクソン『創造的進化』刊行百周年記念国際シンポジウム実行委員会主催,
在日フランス大使館・関西日仏学館・ベルクソン哲学研究会・法政大学・学習院大学後援

第1日:『創造的進化』の哲学
10月16日(火)学習院大学 創立百周年記念会館小講堂
開会式(10:00-10:30)
セッション1(10:30-12:10)
 フレデリック・ヴォルムス(リール第三大学)+杉山直樹(学習院大学)
セッション2(14:00-15:40)
 ジャン=クリストフ・ゴダール(ポワチエ大学)+藤田尚志(日本学術振興会)
セッション3(16:00-17:40)
 ピエール・モンテベロ(トゥールーズ第二大学)+平井靖史(福岡大学)
全体討議(17:40-18:30)

第2日:哲学史・科学史の中の『創造的進化』
10月17日(水)法政大学 スカイホール(ボアソナードタワー26F)
開会式(10:00-10:30)
セッション1(10:30-12:10)
 ジャン・ガイヨン(パリ第一大学)+安孫子信(法政大学)
セッション2(14:00-15:40)
 ポール=アントワーヌ・ミケル(ニース大学)+金森修(東京大学)
セッション3(16:00-17:40)
 アルノー・フランソワ(リール第三大学)+ミシェル・ダリシエ(パリ中国・日本・チベット文化研究所)
全体討議(17:40-18:30)

第3日:『創造的進化』と現代思想
10月20日(土)京都大学 文学部新館第3講義室
開会式(10:00-10:30)
セッション1(10:30-12:10)
 ジョン・マラーキー(英ダンディー大学)+檜垣立哉(大阪大学)
セッション2(14:00-15:40)
 マイケル・コルクマン&マイケル・ヴォーガン(英ウォーウィック大学)+合田正
人(明治大学)
セッション3(16:00-17:40)
 スザンヌ・ガーラック(米カリフォルニア大学バークレー校)+守永直幹(宇都宮
 大学)
全体討議(17:40-18:30)


■関連企画(東大グローバルCOE「死生学の展開と組織化との共催)
在日フランス大使館・ベルクソン哲学研究会後援
ワークショップ「生の哲学の彼方 ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』再読」
10月18日(木)東京大学 文学部教員談話室

開会式(10:00-10:30)
セッション1(10:30-12:10)
 岩田文昭(大阪教育大学)+杉村靖彦(京都大学)
 [レスポンス]フレデリック・ヴォルムス(リール第三大学)
セッション2(14:00-15:00)
瀧一郎(大阪教育大学)
 [レスポンス]アルノー・フランソワ(リール第三大学)
セッション3(15:20-17:00)
 鶴岡賀雄(東京大学)+中村弓子(お茶の水大学)
 [レスポンス]ジャン=クリストフ・ゴダール(ポワチエ大学)
全体討議(17:00-18:00)

Thursday, June 28, 2007

すしボールの憂鬱(それにもめげず)

何度でも繰り返し言わねばならないのは、それだけ病根が深いからでもある。

フッサール業界のある若手の人が「世界(ドイツ)に出ていく必要を感じない。ついて学びたい人も特にいない」と言っていた。こういう趣旨の発言は、ベルクソン業界でも、ついこの間まで聞かれた。

[以下に読まれることの中で、問題とされている「フッサール業界のある若手の人」に関する記述は、私が6月27日時点で下していた拙速な判断に基づいて書かれており、したがって事実認識の部分に誤りがあると判明した。必ず本項目コメント欄における氏の反論と、6月30日付の私の「謝罪」を併せ読んでいただきたい。重ねて氏にはお詫び申し上げる次第です。]

しかし、重要なのは、その人が世界のフッサール研究をいかに認識しているかではなく、その人を世界のフッサール研究がいかに認識しているか、なのだ[氏はすでに英語で発表され、英語論文も用意されているとのことである。]

いかに正確な世界のフッサール研究の見取り図を自分の頭の中に描くか、が問題なのではなく(それはそれでまずは素晴らしいことだが)、世界のフッサール研究がその人のことを知らなければ(評価していなければ)、そういう認識・発言はあまり意味を持たないということをもっと痛切に認識したほうがいいのではないか。[繰り返すが、氏はすでに英語で発表され、英語論文も用意されているとのことである。]

そういう評論家的態度は、これまでの日本の西洋哲学研究に相当程度染みついている(例外も、特にドイツ哲学研究には、多いけれど)。《世界水準は知っているがどうせ大したことはない》ので、《マーケットもどうでもいい》、ただ真理を追究できれば、と。そして、その「真理の探究」はもっぱら日本語で行われる。

だが、世界に向けて書くという姿勢が、哲学には根源的に要請されているのではないのか?そういった基本的な哲学的問いを自らに厳しく問いただすという姿勢が日本の平均的な哲学科大学院生には欠如しているように思われる。自分の語学能力の不足などという学問以前的な理由でその問いを回避し続ける。そのくせ、批評家的態度は保持する。自分に甘く、他人に厳しい。

世界ではまだまだ日本人の思想研究は知られていない。知られても最初のうちは、「色もの扱い」とは言わないまでも、好奇の目に晒されることは確実である。それほど、海外での日本人に対する愚かな(そう、愚かとしか言いようのない)先入観というのは抜きがたいものなのだ。海外で研究するということは、そういう偏見をはねのけながら戦うということも意味している。

一人や二人活躍したって全く不十分なので、野茂やイチローがあれだけ長期間、並みの大リーガー以上の活躍をし続けても、少し別のところで新たに活躍する選手が出てくれば、そいつは依然として「スシ」なのだ。

私がしばしば取り上げるスポーツの譬えがよく分からないという人に日本で研究している人が多く、いちいちよく分かるという人に海外で研究している人が多いというのは、示唆的である。日本で研究している人は、自分がどのような制度にどれほど守られて(規定されて)生きているのか、おそらくあまり意識したことがないのではないか。


米紙が桑田を特集 カーブは「すしボール」
2007年6月27日 (水) 9:51 共同通信社

 米大リーグ、パイレーツの地元紙、ピッツバーグ・ポスト・ガゼット(電子版)が26日付のスポーツ面のトップで桑田真澄投手の活躍を取り上げた。

 記事では、桑田のカーブを「SUSHI-BALL(すしボール)」と命名。のり巻きの具としてボールが挟まっているイラストも掲載された。のりに巻かれ、中身が分からないすしのように、打者に対して予測が不可能なカーブを投げると説明している。

 桑田のボールを一番多く受けているブルペン捕手のアンドラデさんは「ボールの動きはすごいよ」と驚き、同僚のラローシュ内野手も「僕にはチェンジアップのように見える」と話した。

 これまで6試合に登板し6奪三振。日米通算2000奪三振にもあと「14」と迫っている。中継ぎとして良い結果を残している桑田の存在感は地元でも高まっているようだ。(マイアミ共同)

Tuesday, June 26, 2007

Il naquit, travailla et mourut. 宇井純のために

23日土曜日は、午前中「実存思想協会」の発表を聴きに行き、午後「フランス哲学研究セミナー」に出席した。

そういうわけで、出られなかったのだが、東大安田講堂で、昨年十一月に亡くなられた環境学者の宇井純さんを偲ぶ催しが行われた。以下は、「日本環境会議」のHPから一部抜粋。

≪宇井純さんは、公害と環境の研究と運動において、常に「気になる人」だった。宇井さんの言葉と仕事は、ポジティブに、また人によってはネガティブにも、強いインパクトがあった。宇井さんはよく歩き、多くの人と語り、そして仕事をした。昨年11月に宇井さんは亡くなったが、彼のインパクトは多くの人たちの中に生きている。

「公害に第三者はいない」という科学の客観性と公平性に関わる問題提起、「分からなくなったら現場に出ろ」という現場主義、「矛盾している情報を掘り下げてゆくとそこに真実がある」という論理的思考と実証的データの重視、「複数の研究分野をもて」という学際的研究の実践、「どんな立場にいてもやることはある」という連帯への指向など、宇井さんの遺した言葉を、私たちは自分なりに咀嚼し、あるいは批判して、今後に活かす必要がある。そこで私たちは、学問や大学に対する批判も含めて、宇井さんの言葉と仕事が自分にとってどんな意味を持つのかを、宇井さんを直接知らない若い世代とともに考えるための場を企画した。≫

よく歩き、多くの人と語り、そして仕事をする。歩くといっても営業ではないし、語るといっても自己顕示ではないし、仕事といっても業績づくりではない。理念をもった現実主義者。

Friday, June 22, 2007

無様なautomatisme

これも何度も言っているのだが、日本の新聞のスポーツ欄、スポーツ新聞の記事は一般的に――例外もあることは言うまでもないし、これまでにも積極的に取り上げてきた――きわめてレベルが低い。勝った負けたと一喜一憂し、次のスターを仕立て上げることに血眼、まさに「朝三暮四」を地で行っている感がある。

フリーランスで書いている人のもののほうがはるかに世界を知っていて視野が広く、長期的な展望に立ち、技術論にも精通している(スポーツナビのコラム)。そんな高いレベルの話ではないが、一例だけ挙げよう。今回、相手チームの質・モチベーションに言及した記事が一般紙にどれくらいあっただろうか?毎回素晴しい記事を書いておられる宇都宮徹壱さんの記事はこんな感じである。

 昨今、日本で行われる親善試合(キリンカップを含めて)では、あまりにもモチベーションの低い、それこそ「試合後の秋葉原」が楽しみで仕方がないような、およそ「代表」とは名ばかりのチームも決して珍しくない。そんな中、このモンテネグロ代表は、久々に出会った、実にすがすがしく健全な(言葉は変だが)正真正銘の「代表」であった。

[…] ファイナルスコア「2-0」は、順当な結果だったと思う。かつてはサビチェビッチ、ミヤトビッチといったジェニオ(天才)を輩出してきたモンテネグロだが、少なくとも現時点では、モチベーションばかりが先行する新生国家でしかなかった。(宇都宮徹壱、「当てが外れたモンテネグロ戦」)

試合を客観的に「報道」するに際して、日本代表の他の試合、他の対戦チームと比較し、あるいはそのチームの過去のパフォーマンスと比較するのは「イロハ」である。それがなされない。あらゆる点で事前の勉強が不足している。だから、オシムは「どこまで貪欲に上を目指すのか」だの、高原は「さすがエース」だの、いかに感情的な「色」を付けるかに腐心することになる。

特に即座にやめてもらいたいのが次の三つ。
・精神論:「気合いで勝つ」「意地でも」「なんとしても乗り越える」
・スター主義:「神」「神様」「聖地に降臨」
・非合理的な断定:「~が~すれば~という不敗神話は継続中」

こういう無様なautomatismeを読んでいると、彼らは結局、他に書くことがなくて仕方なくマスを埋めているのだということが分かってくる。なぜなら広い視野も、長期的な展望も、解説するのに必要な技術論も持ち合わせていないからだ。

一般読者のレベルに合わせている?読者の知性を馬鹿にしている。こんなものを数十年読まされ続ければ、誰だってスポーツの鑑賞眼が落ちる。

ところが、mutatis mutandis、案外、こういったautomatismeは、私たちの業界とも無関係ではないのだ。

オシムの言葉(6.1会見抜粋)

■悪かった点を話す方が将来のためになる

勝った試合ではあるが、良かったことより悪かったことについて言葉を費やすことが明日のためになると思う。例えばパスミス、スキルの低さ、パスのタイミングが悪いこと、手間を掛けすぎること、ボールが私物であるかのように長い間キープしようとすること、などなど……。それらを直さないと、もっと良いチームにはならない。「今日は勝った、おめでとう」というのはお世辞にしか聞こえない。

■スター選手だけでは、サッカーは前進しない

――個人プレーということだが、個人でドリブルで勝負するときは、そうすべきだと思うか?

 そうしてもいいのだが、タイミング、時間帯、そして目的がよくなかったのだ。タイミングが選手のプライベートな要因で決められたことがあった。チームとして前進している時間帯に、チームのためでなく個人のためにボールを使う。例えばシュートして得点する、あるいはナイスパスを出す、あるいは競技場の大画面に自分がアップで映りたいとか、あるいは試合後に自分のユニホームを振り回しながら競技場を一周するとか――。それもサッカーの一部ではあるのだが、そういうことはチームのためにならないと選手には伝えてきた。日本はスター選手、個人で目立つ選手が人気を集める国だ。しかし、それではサッカーは前進しない。

■水野の才能が、潜在的な才能で終わってはいけない

――水野を入れたときに、相当長い指示をしていた。どういう指示をしたのか

私は水野だけでなく、交代選手にはかなり細かい指示を与えている。思うに、日本代表のフルメンバーとしては、まだ彼は子供だ。才能には恵まれているし、アイデアも溢れるほどある。ただし、そのアイデアに自分がとらわれてしまう。例えば、ここに牛がいるとしよう。ミルクが100リットル必要だ。そこで乳搾りをすればいいのに、牛にボールをぶつけてしまう。つまり、そんなことをしてもミルクが得られるわけがない。牛を見つける仕事までして、そこで成果を台無しにしてしまう。

彼には、効果的なプレーをしろと言いたい。サッカーのプレーをしているというよりも、ボール遊びが好きな選手だから。そういう選手がプロとして、職業としてサッカーをしている選手と混じって出場するわけだ。何に気をつけるべきか、指示したことについては、これ以上話すことはないだろう。彼の才能を、チームのために使わないのはもったいない。それくらいの才能を持っている。ただしその才能が、潜在的な才能で終わってはいけないと思う。

***

これは私たちの業界では何を意味しうるのだろうか。それを探すことが、私の言う「研究外在的な努力」の一つである。

≪欧州での経験が生きた。1メートル90前後のDFを常に相手にするドイツでプレーする中で、大型選手をいかに攻略するかで頭を悩ませた。そして得た答えが「縦への対応ではかなわないが、横の揺さぶりには弱い」だった。モンテネグロの先発DFラインの平均身長は1メートル85・5センチ。得点シーンは一度、相手DFの死角に入り、ファーからニアに流れる“横の動き”でマークを外したものだった。今季はリーグ30試合で11得点を記録し、欧州での日本人シーズン最多得点記録を樹立。ファン選定のチームMVPに選ばれた実力を発揮した。≫(『スポニチ』6月2日付記事より)

Tuesday, June 19, 2007

石板と踏切板(レヴィナスとベルクソン)

≪自由が現実に食い入ることが可能であるとすれば、それは制度によってだけである。自由は、さまざまな法が書き記された石板に刻み込まれる。自由が現実に存在するのは、制度的存在にはめこまれることによってなのである。自由は書かれたテクストに由来する。

テクストはたしかに破壊されうる。だがテクストは、他方では持続しうるのであって、そこで人間のための自由が人間の外で維持される。暴力と死とに曝された人間の自由が、ベルクソン的な飛躍によって一挙にその目標に到達することはない。人間的自由は、自分自身を裏切って諸制度のうちに逃げ込む。

歴史は一個の終末論ではない。道具をつくる動物が自らの動物的条件から解放されるのは、その飛躍が中断され、断ち切られるかに見える地点においてである。つまり、蹂躙されることのない意志として自ら目標に向かう代わりに、道具を製作し、自分の将来の行動の可能性を受け渡し、受け取ることができるもののうちで固定する場合なのである。

このようにして、政治的・技術的な現実存在によって、意志にその真理が保証される。≫(レヴィナス、『全体性と無限』



≪生命の跳躍は、生命に背く構造に到達する。自由は自由自体が見る影もなく変わり果てるある決定的な選択に到達する。なんと人を食った矛盾であることか。生命は自分自身を余すところなく実現するために知性に頼るのに、知性は生命の期待を裏切るのである。

私たちが「器官-障害の弁証法 dialectique de l'organe-obstacle」と呼んでいたものは、すでに受肉の必要性をしっかりと打ちたてている。物質が足かせであるばかりではなく、生命の不可欠な協力者でもあるということを理解する機会は繰り返し私たちに与えられている。

物質は、生命がそれに対抗して自分を主張しなければならない抵抗を毎瞬間表しているばかりではなく、その起源からして、次第に枝分かれしていく進化の道の上に生命的飛躍を自らたわむことによって放り出した踏み切り台でもある。これは、飛躍ないし飛翔のイメージそのものが表現していることである。

おそらくは、たとえ物質が存在しなくともなお生命は存在するであろうが、生命的飛躍は存在しないであろう。物質が存在しなければ、本来の意味での進化は、自由の価値的優越性を増大させるという自らの存在理由を失うことになろう。≫(ジャンケレヴィッチ、『アンリ・ベルクソン』

Thursday, June 14, 2007

デジャヴ

別に何王子の話でも構わない。似たことはどの業界でも起こっているのかもしれない。世界を知らずに、日本でしか通用しない言動を繰り返す。その場限りの空虚な「フィーバー」をつくりだそうと躍起になって。

長期的な展望に立った、実のある、持続的な業界の活性化には、そのような喧噪とうまく距離をとることが求められる。

雑誌の特集になると決定することが重要なのではない。どれくらい良質の特集にできるかが重要なのだ。しかし、今の私にはそこまでの実力はない。せいぜい自分の寄与が少しでも見苦しくないものになるよう努力するくらいのことしかできない。


ウッズに「ハニカミ王子知ってる?」

 男子ゴルフの全米オープン選手権を前にした記者会見が12日、米ペンシルベニア州オークモントCCで開かれたが、日本のテレビ局がタイガー・ウッズ、フィル・ミケルソン(ともに米国)に対し、「ハニカミ王子」こと石川遼(東京・杉並学院高)について質問。メジャー大会には全く場違いな問いに、世界中から集まった報道陣のひんしゅくを買った。 ウッズには「彼について知っているか」と聞き、ミケルソンに対しては「石川君にメッセージを」などと発言。大勢の記者であふれ返った会見場のあちこちで失笑が漏れ、質問者には冷たい視線が集まった。 (共同) [ 2007年06月13日 09:27 速報記事 ]


遼クン盗聴工作TBS不誠実に主催者激怒
日刊スポーツ - 2007/6/7 9:51

4番ホール第2打の前にはしゃがみ込み元気のない表情(撮影・小沢裕)

 TBSの不誠実な対応に、アマゴルファーとゴルフ団体が6日、怒りをあらわにした。同局の情報番組「ピンポン!」が、15歳ゴルファー石川遼のラウンド中の盗聴を試みようとした問題などで、同局は非を認めながらも井上弘社長(67)はギャグを交えて謝罪。4、5日と関東アマチュアゴルフ選手権で石川と同組で、TBSの非常識な依頼を断った広田文雄氏(43)に対しては、その名誉を棄損しかねない行為を働いていた。同大会を主催する関東ゴルフ連盟(KGA)は、同局に対する法的手段の検討を始めた。 TBSは表面的に謝罪しながらも、その内容はあいまいなものだった。

 午前8時ごろ、「ピンポン!」を管理する制作局情報センター情報一部長の藤原康延氏と番組チーフディレクターが、関東アマ開催会場の千葉CC梅郷Cを訪れた。同30分からKGA加藤重正事務局長らと話し合った。加藤氏によると、2人は広田氏を通じて石川の盗聴を仕掛けようとした行為については謝罪した。だが、番組ディレクターが広田氏に対して謝礼提供を口にしたことには「本人は『言っていない』と言っている。確認できていない」と主張した。

 ほぼ同時刻、番組プロデューサーは、長野県須坂市在住の広田氏の自宅に電話をかけていた。 広田氏 午前8時30分ごろに、プロデューサーと電話で話しました。最初に謝罪の言葉はありましたが、『本当にディレクターはそんなことを言ったんですか』という感じで、とても誠意ある対応とは思えませんでした。このままでは私がウソを言っていることになる。

 夜になって、広田氏は同プロデューサーからアポなしの訪問を受けた。約1時間話し合ったが「ディレクター本人の記憶があいまいで、事実関係を調査中です」と繰り返されたという。謝礼提供の件など広田氏の指摘を、潔く認める姿勢は感じられず、怒りは静まるはずはなかった。

 午後3時からの定例社長会見では、井上社長はこの問題についての感想を「まあ、一言で言えば、ばっかじゃないのかです。まあ大沢親分風でいえば、喝どころじゃない。喝、喝、喝、喝。それ以前のことですな。非常に腹立たしく、不愉快です」。石川に対しては「そりゃもう、ご迷惑を掛けたの一言です」と笑いながら話した。

 一方でTBSは、番組ディレクターが広田氏以外の同伴競技者2人にも接触を図ろうとしていたことを明かした。しかし、謝礼と石川への質問を用意したことは「今後調査します」と認めなかった。また、同局はゴルフ取材としては前代未聞のヘリコプターによるコース上空の取材を敢行し、石川ら選手に騒音被害をもたらした。その映像を使用した報道番組「イブニング5」は、この日夜までにKGA側に何の謝罪もしなかったという。

 これら一連の対応にKGAの加藤重正事務局長は激怒した。「正直、このままでは広田さんの名誉が棄損される」と、騒動に巻き込まれたアマゴルファーを心配した。そして「ヘリコプターの件も、TBSがこちらに許可を得たことは断じてない。8日の広報委員会であらためて抗議文を書きますが、場合によっては、はっきりするためにTBSに法的手段を取ることもある」と強い口調で話した。


福澤キャスター半泣き!遼ちゃんに謝罪…TBS「ピンポン!」盗聴未遂
スポーツ報知 - 2007/6/7 8:00

 男子プロゴルフで15歳8か月の史上最年少優勝を果たした石川遼選手が出場する関東アマチュアゴルフ選手権で、TBSの情報番組「ピンポン!」が、石川選手の同伴競技者に小型マイクの装着を依頼していたことが6日、明らかになった。同伴者に断られラウンド中の遼ちゃんの「生声」が放送されることはなかったが「非常識な取材」として、この日の番組で司会の福澤朗キャスター(43)が目に涙をためながら謝罪した。写真はコチラ

 いつもはハイテンションの福澤キャスターの目が、みるみるうちに赤くなった。「石川遼選手、同伴者の広田(文雄)選手、あまたいる関係者の皆様、心から、心からおわび申し上げます」。番組による競技そのものをないがしろにした“盗聴未遂”騒動。冒頭から神妙な顔つきで登場し、声を詰まらせながら謝罪した。

 「明らかにルールを逸脱しています。あまりにも非常識。当番組の暴挙」と全面的に非を認める。各メディアがこぞって取り上げる“ハニカミ・フィーバー”。盗聴未遂が発覚する前日の5日の同番組でも、冒頭から遼ちゃんの活躍を大々的に取り上げ、同時にファンのマナーの悪さも声高に指摘していた。

 「あれほどゴルフ場にいらっしゃるキャディーの皆様のマナーを訴えておきながら、このざまです。恥ずかしくて恥ずかしくて仕方ありません。一番信頼していた友人に裏切られた気持ち」と福澤キャスターも立つ瀬がない。「ギャラリー」を「キャディー」と間違えてしまうほどのろうばいぶりだった。

 この日、定例会見を行ったTBSの井上弘社長(67)も「一言でいえば、バカじゃないか。なんでそんなバカなこと考えるのか。大沢親分の『喝(かつ)』なら『喝、喝、喝、喝』ぐらい。腹立たしいし、不愉快です」と激怒。「石川選手には、ご迷惑をおかけしたの一言。足を引っ張っちゃって申し訳ない」と平謝りだった。

 福澤キャスターは「総合司会者は総合責任者。番組としての責任、今後の身の振りようを考えております」と沈痛な表情。最後は「石川遼君は日本ゴルフ界の宝です。皆さんで守らなければいけません。重ね重ね申し訳ありません」としめくくった。

 番組降板を示唆したかのような福澤キャスターの発言についてTBS側は「スタッフへの叱咤(しった)激励ととらえている」と進退や番組の存続については言及しなかったが、度重なるTBSの番組での騒動に、批判の声が上がるのは避けられないところだ。

Saturday, June 02, 2007

近況

今日ようやく『ベルクソン年鑑』第三巻が手元に届いた。カッシーラーの翻訳はすでに三年も前に始めたものだし、序論自体も二年前に書き終わったもので、なんだか遠い過去の出来事のような気さえする。一時期はカッシーラーばかり読んでいたっけ。その後刊行された本がà paraîtreのままになっていたり、時間さえあればもう少し手を入れたい表現も幾つかあるが、まあ出てしまったものは仕方がない。ああ、なんか疲れた。。

今年のpublication(掲載決定済みのもののみ)としては、

1)ベルクソンの人格性概念についての論文(3月既刊)

2)檄文的(笑)エッセイ(5月既刊)

3)上記のカッシーラー翻訳および序論(5月既刊)

4)論文「ベルクソンと目的論の問題」(ロングバージョン、仏語)、トゥールーズでの発表、サイト上で見られます。(5月既刊)

5)同内容の論文(ショートバージョン、日本語)、日仏哲学会誌次号(夏?)。

6)論文「唯心論(スピリチュアリスム)と心霊論(スピリティスム)」(ショートバージョン、日本語)、仏文学会誌次号(夏?)。

7)論文「ベルクソンの手」(英語バージョン)、米の思想雑誌SubStance(冬?)。


今年の発表を含むアカデミックな活動としては、

1)トゥールーズでの日欧シンポジウムの主催、およびそこでの発表。

2)仏文学会での発表(5月20日)は、ハプニングというかサプライズもあったが(来てた人には分かる(笑))、いつもどおり。内容的にも自分の力の平均くらいは出せたのではないかと思う。

3)『創造的進化』百周年日本篇の主催、およびそこでの発表。

4)百周年コレージュ・ド・フランス篇での発表。

5)ハクロン…。

最近の地道な活動。

1)二三日中に『物質と記憶』についてこれまで書いてきたものをまとめ上げる中心的な考えをひとまず完成させたい(ハクロン第2部)。というわけで、ここしばらく関連文献を読み漁っている。いろいろと関連づけはできつつあると思うのだが、なかなか最後のピースがはまらない。

2)その後、6月20日締め切りの紀要論文執筆。三部構成の第二部。前回は「声の射程。呼びかけと人格性」だったが、今回は「火の領分。情動と共同体」。7月上旬にとあるゼミで発表させてもらう予定。

3)ゴーシェの翻訳。というわけで、申し訳ないけれど、今はあまり力を割くことはできそうにありません。