Friday, April 27, 2007

「ものすごく真っ当」な方策

トゥールーズにちなんで、というわけでもないが、興味深い記事。スポーツの例は多くを教えてくれる。

出村謙知(でむら・けんじ)さんの「ラグビーの街トゥールーズから起こった旋風」(4月26日)から一部抜粋。

しかも、トゥールーズFCはボー監督を迎えるにあたって、単にトップチームの指揮官に指名するだけではなく、年齢カテゴリー別に4個あるジュニアチームも含めたトゥールーズFC全体のコーチングスタッフを取り仕切るGMとして契約を結んでいる。

 つまり、ボー監督の立場は単純に現在のトップチームの成績を上げればいいというだけではなく、ジュニア強化を含め、長期的視野に立ってクラブを健全に発展させていく責任も負ってもいるのだ。

まずは選手それぞれの特徴をコーチが受け入れること。こちらから、こういうプレーをしろと押し付けることは指導者の仕事とは対極に位置するものだ。常に各選手の優れている点に着眼しながら、それが集積された時に全体として一番強くなりそうな部分を強調したチーム作りを進める必要がある

 そんなコーチ哲学を持つボー監督が、就任1年目にして早くもしっかりしたチーム作りに成功しているのは、前述してきた成績が示す通りだ。

「このチームの若い選手は素晴らしいポテンシャルを持っていて、その上しっかり組織プレーが植え付けられている。ただ、2位になるなんて考えもしなかったこと。今でも、まずは今季当初からの目標である20チーム中10位以内を確保することの方が優先であることに変わりはない」

 あくまでも控え目な態度を崩さないポー監督への若い選手たちからの信頼は抜群だ。「ボー監督は、若い自分たちが持っている可能性を最大限に引き出してくれている。彼の存在がなければ、今のチームの成功はなかった」(MFアシル・エマナ)

 現在のトゥールーズFCにチーム一丸となっている一体感があるのは、今季スタジアムに行ったことがあるファンなら間違いなく感じていることだろう。よそ者として、一度だけトゥールーズFCの試合を現地取材した者にも、それは十分に感じられた。

 圧倒的な存在であるメジャースポーツ、ラグビーに常に圧倒され、一時は経営破綻から3部落ちまで経験したトゥールーズFC。そんな苦境を脱するために取られた方策は、ものすごく真っ当なものだった。すなわち、ジュニア強化に力を注ぎ、自分たちに最もふさわしい実績ある指導者を招いてトップチームの指揮を執らせる一方で、ジュニアも含めたクラブ全体のコーチングシステムを整えるということだ。

Thursday, April 26, 2007

『創造的進化』百周年・日本篇正式決定!

疲れた。昨日帰ってきたのだが、トゥールーズ篇の前後一週間は毎日熱があり、体調が悪かった。しかし、いろんな人と喋り、飲み、食うのが「お仕事」だから強行軍。ほんと、コロックに出るたび思うのだが、ほとんどビジネスだよね。それをいかに生産的な思考のために用いるか。理想を持った現実主義者たれ、と自分に言い聞かせている。

まず、ビッグ・ニュース。実は前々から企画していた『創造的進化』日本篇が、この度本格的に始動することになった。様々な人にあたりをつけ、調整し、企画書を書き、とグランド・デザインを殆ど一人で行なったので、感慨もひとしお。10月15~20日に東京・京都にて(もう一つの地方は却下された。地元人士を恨むべし)。

次に、個人的なこと。

1)『現代思想』5月号のとある欄を執筆。フランス哲学研究の内弁慶的現状をちくり。

2)カッシーラー仏訳と序論、最終確認。三週間ほど遅れて、Annalesの第三巻が出る予定。

3)SubStanceというアメリカの雑誌の『創造的進化』特集に応募していた論文が通った。アングロ=サクソン系には受けるだろうという見通しを持っていたので(彼ら向けに書いたわけではないが)、気に入ってくれたそうで何より。

最後に、友人・知人からメールで報せを受けた新刊・雑誌を幾つか。

・ウェブ上の哲学雑誌としては小柄ながら本格的な部類に入る、P.-F. MoreauのKlêsis。最新号は、ズラヴィシュヴィリ追悼特集。ドゥルーズ解釈では必ずしも彼と一致を見たわけではないが、期待の若手だった。Autour de François Zourabichvili。この手の企画も日本の哲学界では見かけない。お互いを真剣に読み合い、議論し合い、尊敬し合うという当たり前の関係。

・éd. Beauschesneの雑誌 Revue Présentaineの新刊案内。
n°18/19 : Musique, Phénoménologies - Ontologies - interprétations

Abécédaire de Jacques Derrida, sous la direction de Manola Antonioli. Collection Abécédaire, n°3. Éditions Sils Maria/Éditions Vrin, coédition. マノラは最近、『ドゥルーズと政治』というデカイ論文集(actes)も出しましたね。

・François Azouvi, La Gloire de Bergson. Essai sur le magistère philosophique, Gallimard, coll. "nrf essais", avril 2007. 『デカルトとフランス』が出たときから、次はベルクソンだろうと思ってました。彼は完全にコレージュ狙いですね。

Thursday, April 12, 2007

大学の幼児、幼児の大学

正直、どこまで幼稚化すれば気が済むのかとも思う。「がんちゃん」(岩手大学)、「しずっぴー」(静岡大学)、「ビビット」(島根大学)、「ひょうちゃん」(兵庫教育大学)…。時勢に乗り遅れないため、ポピュリズムに迎合するため。

民間企業のように、「私大と同様に」(このことの帰結をじっくり考え抜いた者が果たしていたのか)、親しみやすく、学生に優しく、限りなく優しく、「学生さんはお客様で、お客様は神様です」…。目を開けて見よ、これが独法化の指し示す方向である。

≪戦前の日本の「大学の自治」対国家の闘争は、帝国大学の特権的基盤のうえに立ってはじめて可能であったのであり、それは帝大が日本においては例外的な、本当の意味の、保守主義の砦であったからである。早くから「大衆化」し、「国民化」した私大は、大衆を背景にしたファシズム反動の前に、帝国大学よりもはるかにもろかったし、むしろ便乗しさえした。≫(丸山真男、『自己内対話』、223頁)

一方で、望ましい改善の動きも見落としてはならないだろう。認識においては悲観主義者、意志においては楽観主義者たれ、とはルカーチ経由のロマン・ロランの言葉であっただろうか。


東大キャンパスに保育園オープン、女性研究者ら支援
4月4日11時31分配信 読売新聞

東大・本郷キャンパスにオープンした「東大病院いちょう保育園」で遊ぶ子どもたちを見守る小宮山東大総長(左)

 子供のいる教職員をサポートするため、東京大学の本郷キャンパス(東京都文京区)内に今月から開かれた「東大病院いちょう保育園」の開園式が4日行われた。

 東大の教員に占める女性の割合は9・3%(昨年5月1日現在)にとどまる。女性研究者を育成するには、女性が働きやすい環境整備が欠かせないとして、大学が直接運営する保育所を各キャンパスに設立することにした。

 いちょう保育園はその第1号。計6人のスタッフで運営され、一時保育も含めた定員は32人。当面は看護師ら病院職員を対象に小学校就学前までの子供を受け入れ、現在7人が入園している。将来は、本郷キャンパス内にもう1園を開設するなど3園を作り、教職員や大学院生や学部生の子供を受け入れる方針だ。


<広報合戦>10大学が広告代理店などと業務提携
4月4日3時3分配信 毎日新聞

 国立の全87大学のうち8大学が学外から広報担当者を受け入れ、10大学が広告代理店などと業務提携をしていることが、文部科学省の初の調査で分かった。07年は大学・短大への全志願者数と全入学者数が同じになる「大学全入時代」といわれる。中には「マスコット」を作成する大学も現れ、国立大の広報合戦が過熱している。

 文科省は06年3月以降、国立の87大学を対象に、広報活動の状況を聞いた。 外部から広報担当者を受け入れていたのは▽東京大▽東京外国語大▽東京海洋大▽静岡大▽神戸大▽熊本大▽北陸先端科学技術大学院大▽奈良先端科学技術大学院大の8大学で、広告代理店や私立大学、大手予備校などから招いた。

 また、北海道大や東北大、一橋大など10大学は広告代理店や情報誌、新聞社などと業務提携。大手広告代理店と提携した九州大は「大学のブランド戦略を検討するうえでのアドバイス、資料提供」を目的に挙げている。

 このほか▽岩手大▽静岡大▽兵庫教育大▽島根大は、大学独自のマスコットを作り、「がんちゃん」(岩手大)などの愛称をつけてPRしている。

 河合塾と旺文社から計2人の広報担当者を招いた静岡大は「(04年の)国立大法人化と大学全入時代を前に、入試や広報でさまざまな取り組みが必要になったが、今までの教職員は何をすべきか具体的なイメージが描けなかった。入試改革もマスコット作成も、大学のイメージアップ戦略の一つ」と話した。

 文科省は「これまで国立大は入学試験の広報が中心だった。しかし、法人化以後、私大と同様に大学全体の広報活動をするようになっている。イメージアップは、優秀な学生確保や産学官連携などの際のベースになる」と分析。文科省は各大学の参考となるよう、3月末に調査結果を各大学へ送付した。【高山純二】


<社会意識調査>「悪い方向に」教育がトップ 内閣府発表
3月31日19時31分配信 毎日新聞

 内閣府は3月31日、社会意識に関する世論調査結果を発表した。現在の日本の状況について「悪い方向に向かっている」と思う分野を複数回答で聞いたところ、教育が前回(06年)から12.3ポイント増え36.1%となり、98年にこの質問を盛り込んで以来最高で、初のトップとなった。高校の履修不足問題や、相次ぐいじめ自殺などが影響したとみられる。医療・福祉31.9%、地域格差26.5%も10ポイント以上の増加で過去最高を記録した。

 「政治や社会情勢の影響を受けやすい調査」(内閣府)だけに、安倍政権の課題を浮き彫りにした形だ。 調査は1~2月、全国の成人男女1万人を対象に面接方式で実施。5585人(回収率55.9%)から回答を得た。

 教育と答えた人を男女別にみると、男性36.7%、女性35.6%。年代別では男女とも30代がトップ(男性47%、女性47.8%)で、20~40代の男女がいずれも4割を超えるなど、子育て世代の教育不安を裏付けた。

 教育に、前回トップの治安35.6%(前回比2.7ポイント減)、雇用・労働条件33.5%(同4.6ポイント増)が続いた。急増した医療・福祉(31.9%)と地域格差(26.5%)はそれぞれ、5位と8位だった。

 小泉政権で増加の一途だった外交は前回比8.9ポイント減の22.4%で、日中、日韓首脳会談の再開といった安倍外交を国民が評価していることをうかがわせた。

 一方、「良い方向」(複数回答)は(1)科学技術19.7%(2)通信・運輸18.9%(3)医療・福祉16.5%――の順だった。【渡辺創】

Wednesday, April 11, 2007

基礎練と営業

こういう記事を精神主義的に読むなら(ひたすらシゴキ練習、みたいな)、大した価値はない。だが、細部・具体にこだわって読むなら、そこから何らかの示唆が得られる。

1)世界標準レベルにまだ達していないという冷静な自己認識(Jリーグの一流選手でも、世界で通用するかどうかは不明、という冷静な状況認識)。

2)追いつくために何かをしなければならないという意志(遅れていますがそれが何か?という意味不明の開き直りは、日本の人文科学でも、思想業界にしか存在しない。日本語で書き続ける自然科学者などありえないという自明の事実)。

3)個人の努力ではなく、集団で、制度的な対策を講じる必要性の認識。何を、どのように、具体的にアップさせるべきなのか、についての議論。体力と技術力。語学力、議論する力、哲学史の知識。

4)スター(「神様」ジーコ…)を呼ぶことの意義もあるが、もっと大事なのは自分のレベルをアップさせてくれる教育的資質を持った人材を呼ぶこと。日本のフランス哲学研究者は、観客なのか、批評家なのか、それとも、いかに「ヘタレ」であろうとも、同じ舞台に立つ役者たろうとしているのか。

5)営業ばかりでは困る、そんなのは当たり前のことだ。誰もまともな(自分本位の、営利目的でない)、教育的な営業をやっていない現状において、何もしていない人にしたり顔で指摘されても困るのだ。

6)思想はけっきょく孤独な営み、と自分に呟きつつ、けれど、自分一人で思想を始めたわけでもなければ、また、自分が育てられた教育環境を必ずしも瑕疵なきものと見ているわけでもないことは明白である以上、介入の必要と責務が生じるのではないか。


「いままでにない!」桜戦士初体験…これが世界基準トレ
サンケイスポーツ - 2007/4/10 8:01

 ラグビー日本代表強化合宿(9日、千葉・日本エアロビクスセンター)9月開幕のフランスW杯へ向け、日本代表が練習を開始した。ジョン・カーワン・ヘッドコーチ(42)は、自ら指名した豪州協会所属のマーチン・ヒューメ・フィットネスコンサルタント(50)と、ニュージーランド(NZ)協会から出向するマイケル・バーン・技術コーチ(45)が主導する練習メニューを導入。豪州、NZ両代表の強化メニューを桜の戦士に初日から課し、世界基準を体感させた。

 いきなりカーワン流が炸裂だ。世界に勝つために、世界を知れ。カーワン・ヘッドが日本代表に世界基準を体感させた。

 合宿練習初日。午前練習を指揮したのは、トレーニングのエキスパート、ヒューメ氏だ。NZやイングランドのプロチームなどでコーチ歴があり、03年W杯では日本を破ったスコットランド代表を指導した男。現在は豪州協会と契約し同国代表の体力強化にも携わる敏腕コーチは、豪州代表でも取り入れている7分間のインターバル・テスト(ダッシュとウオーキングと静止をおり交ぜた走力テスト)を課した。 結果は、世界との差を痛感させられることになった。トップは14.7という数値を記録したSH大東功一(NEC)。だが、ヒューメ氏によると「スコットランド代表のトップは16、17台」だという。走力が自慢の日本のBK陣の平均的数値は13前後で、世界の強豪チームのFW第1列と同程度という厳しすぎる現状を突き付けられた。

 午後練習に登場したのは、バーン氏。ヒューメ氏と同様にスコットランド代表を指導し、現在はスキル(技術)コーチとしてNZ協会と長期契約を結ぶ世界的指導者だ、ボールを蹴る時にひざをしっかり伸ばす技術をBK全員に指導し、「苦戦していたが、これを克服すればレベルは必ず上がる」。主将のNO・8箕内拓郎(NEC)は「いままで経験のないメニュー。いい刺激になる」と練習の手応えを語った。

 世界屈指の強豪国と契約を結ぶ2人の指導者を招いたのは、カーワン・ヘッドだ。NZの13人制ラグビーチームに所属していた時にコーチだったのがヒューメ氏。イタリア代表監督時に対戦したスコットランド代表のキック精度を高めた指導者がバーン氏。ツテをたどって招へいした指導者によって体力と技術の向上を目指すカーワン・ヘッドは「フィットネスの向上、そしてキックを使ってトライを取ることは日本にとって重要だから」と意義を説明した。

 肉体強化を託されたヒューメ氏は「初めて体験するメニューで、この結果は悪くない」とフォローした上で、「9月までには、世界レベルの数値にいくこともできる」と太鼓判を押した。W杯へ向けた初練習の場で世界基準を体感したカーワン・ジャパンは、世界を打倒するための一歩を踏み出した。


“走る営業部長”為末、人気回復目指しイベントを企画
サンケイスポーツ - 2007/4/10 8:01

 8月開幕の世界選手権大阪大会の前哨戦『国際グランプリ大阪大会』(5月5日、長居陸)に参戦する為末大(28)が9日、陸上競技の“走る営業部長”に名乗りを上げた。“ミリオネア資金”を元手に陸上イベントを企画するなど、世界陸上銅メダリストが人気回復にひと役買う。

 陸上をマイナーにはさせない。国際グランプリ出場選手の記者会見に出席した為末が「今年は陸上の浮沈が懸かっている。陸上がメジャーになるような仕掛けをしていきたいと思っています。今年はセ・リーグでもパ・リーグでもなくて、陸上界です」と宣言した。

 01年エドモントン、05年ヘルシンキと世界選手権で2枚の銅メダルを持つ男の訴えだ。女子マラソンを除けば、陸上の話題が取り上げられるのはわずか。人気低下が競技人口を減少させ、弱体化につながる。株のトレーダーとしても知られる為末にとって、将来が心配でならない。

 そこで、昨秋に人気テレビ番組「クイズ・ミリオネア」で獲得した1000万円を元手に、繁華街での陸上イベントを企画。8月の世界陸上までの実現を目指して調整している。100メートルの末続慎吾や走り幅跳びの池田久美子ら親しい仲間からもアイデアを募り、サプライズを演出していく。

 昨年は走る速さを高めるため、ハードル競技には出場せず脚力を鍛えた。今大会では、1年9カ月ぶりにハードルを“解禁”する。「スピードは速くなった」。16年ぶりに国内で世界選手権が開催される陸上イヤー。走る宣伝マンが、ファンの視線をトラックへ向けさせる。

Tuesday, April 10, 2007

ソフトからハードを動かす。

最近数ヶ月間にいただいた日本の本・論文をまとめて。

nsさん、三宅剛一の講義ノート、『ドイツ観念論に於ける人間存在の把握』(学習院大学、2006年)、ありがとうございました。「およそ哲学史研究というものが、テクストの厳密な読解や、論理の飛躍をそれと見抜くだけの批評眼を必要とすることは言うまでもない。しかしそのうえで、哲学史研究がわれわれの実存に対して開き示してくれる哲学そのものの『何のために』」こそ示唆に富むのだという解題に記された(kkさんの)言葉、そのとおりだと思います。

hhさん、『現象学を超えて』(Didier Franck, Dramatique des phénomènes, PUF, 2001.)、萌書房、2003年、どうもありがとうございました。フランクといえば有名な『肉と身体』『ハイデガーと空間の問題』くらいしか、しかもざっとしか読んだことがありませんでした。これを機会に勉強させていただきます。

mnさん、デリダ論ありがとうございます。読んで勉強させていただきます。

tmさん、ベルクソンの超レアもの、「アリストテレスの場所論」ラテン語版のコピー、どうもありがとうございます。いつか、ラテン語の辞書と首っ引きで読書会しましょう。

***

 辛仁夏(Yinha Synn)さんのルポ 「フィギュア強国ニッポンの土台が揺らぐ?(2)爆発的ブームの中で何をすべきか」(スポーツナビ、2007年4月2日)は、言うべきことを言っている。一部抜粋させていただく。

人気が出てきた今こそ環境の整備を

注目が集まり、人気が出てきた今こそ、戦略的にフィギュアスケートを世間にアピールしていく必要がある。潤沢ではない強化費用や運営資金など、恵まれていない環境を整備する絶好の機会となるはずだからだ。[…]

伊東秀仁強化部長も「五輪後のこの人気の中で開催できることはタイミングとしてはすごく良かった。この大会でフィギュアスケートを始めたという選手が後に出てくると思う。これをブームに終わらせたくないし、ずっと人気を続けていくことが大事。今後の動きとしては、専用リンクを作ってほしいということが大きい。ナショナルトレーニングセンターにリンクが出来ればいい。将来につなげていくには必要。競技人口が増える中、ソフトからハードを動かしていきたい」と語った。今後はこの人気を活用してリンク減少を食い止め、イモ洗い状態に陥っている現在のリンク不足を一気に解消する動きが出てくればいいが……。


強化体制の練り直し、ジュニア勢の強化が課題

 日本には、海外のフィギュア関係者も注視している、毎夏に野辺山で行われる全国有望新人発掘合宿がある。これは豊富なタレントを輩出する「選手製造工場」だが、昨年新体制になったフィギュア部の強化方針がいまだ明確に定まっていないだけに、今後もきちんと稼動するかが心配される。今季はシニアの世界選手権で手放しの成績を残せたが、その一方でジュニア世界選手権では02年から男女を通じて続いていたメダル獲得ができず、女子の5位が最高だった。

 この1、2年の上げ潮の中で、いかに地道な強化体制を練り直すかに、今後の日本フィギュア界の行く末が懸かっているように思えてならない。来季、新採点システムで育ってくるジュニア勢の強化に本腰を入れないと、フィギュア強国ニッポンの土台が揺らぐことになりそうだ。

***


フィギュアも一極集中 みんな名古屋出身の秘密
3月30日10時0分配信 日刊ゲンダイ

●「世界選手権」視聴率東海地区は最高56% 世界選手権で金・銀メダルを獲得した女子フィギュアの安藤美姫(19)と浅田真央(16)の共通項はズバリ、名古屋出身であること。中野友加里(21)、恩田美栄(24)など日本代表クラスの女子選手はみ~んな、名古屋育ちだ。

 世界選手権の平均視聴率も、名古屋地区は43.0%(ビデオリサーチ調べ)と関東38.1%、関西34.8と比べてダントツ。瞬間最高は56.6%にも達したというからオドロキだ。どうして名古屋人のフィギュア熱は、どえりゃあ高いのか。「名古屋は、お稽古事が盛んで子供より母親の方が熱心なくらい。フィギュアの教室でも、いつも最初から最後まで練習を見つめ、子供もサボれません」(愛知県スケート連盟フィギュア委員長・久野千嘉子氏)

 見た目にも華やかで、嫁入り道具に大金をかけたがる見えっ張りな名古屋人気質にもマッチしている。

 だが、とにかくフィギュアはカネがかかる。エッジを含めたスケート靴の相場は1足12万円!

 これを選手は年4、5足も履き潰し、衣装代やレッスン料だってバカにならない。誰でも手軽にできるスポーツではないが、名古屋の家庭事情にはこんな秘密があった。「都市部の核家族化が進む中、名古屋は大都市ながら3世代同居の世帯数が全国トップ。東京や大阪の倍近い数です。家族の絆を大事にする土地柄で、孫に使う金額もケタ違い。名古屋のフィギュア熱は、祖父母の支援があってこそです」(三菱UFJリサーチ&コンサルティングのエコノミスト・内田俊宏氏)

 スケートの練習にはリンクが不可欠。ほかの地域は夏はプール、冬だけ氷を張るところが多いが、名古屋は3つの通年営業リンクが稼働中だ。通年営業は全国23カ所のみ。うち3カ所ある自治体は名古屋と横浜だけだ。ミキティや真央ちゃんも練習に使う「名古屋スポーツセンター」の黒柳一男社長が言う。「アルベールビル五輪の銀メダリスト・伊藤みどりさんもウチのリンクで練習しました。一般客に交じって滑ることもあり、世界技術に間近で触れる機会が多かったのも人気の要因です。伊藤や浅田を育てた山田満知子コーチなど優秀な指導者も多く、ジュニア教室も活発。今回の金銀独占は底辺拡大の成果です

 真央ちゃんやミキティの活躍でフィギュア教室はさらに活況――。王国は今後も安泰だ。

Friday, April 06, 2007

「戯作者文学論」について(3)切ない鼻息

こういうところで私の仕事の進展とか、外国人研究者との付き合いなどを報告していると、自分にも他人にも必ず幻想、幻覚が生じるので、それには気をつけている。

あまりグループを作りたくない。特にグルーピーとかファンとか弟子とかを持ちたくない。そんなレベルではないのだから。後輩にもなるべくくだけた調子で近づき、あるいは突き放し、脱神話化するよう努めている。

***

安吾は大言壮語の人と思い込んでいる人がいるとすれば、その人は真実の半分しか見ていない。7月14日の項。

≪親類の人の紹介状をもって、浅草向きの軽喜劇の脚本を書きたいから世話をしてくれ、という人が来た。北支から引き揚げてきた人だ。全然素人で、浅草の芝居を見て、こんなものなら自分も作れると思ったというのだが、自分で書きたいという脚本の筋をきくと、愚劣千万なもので話にならない。こういう素人は、自分で見てつまらないと思うことと、自分で書くことは別物だということを知らない。つまらないと思ったって、それ以上のものが書ける証拠ではないのだが、恐れを知らない。自分を知らない。

 夏目漱石を大いにケナして小説を書いている私は、我が身のことに思い至って、まことに暗澹とした。まったく、人を笑うわけに行かないよ。それでも、この人よりマシなのは、私は人の作品を学び、争い、格闘することを多少知っていたが、この人は、そういうことも知らない。何を読んだか、誰の作品に感心したかと訊くと、まだ感心したものはないという。

 名前すら知らない。無茶なんだ。いつまで経っても帰らず、自分の脚本を朗読と同じように精密に語る。私はまったく疲れてしまった。私はまったく、泣きたいような気持ちになってしまった。それは我が身の愚かさ、なんだか常に身の程を省みぬような私の鼻息が、せつなくなったせいでもあった≫(全集第15巻、20-21頁)。

私も学部生や院生と話していると、ときどき自分の「鼻息」が切なくなる。他人との共闘が意味を持つのは、まず自分がいっぱしの仕事をしてからのことである。幾重にも自戒を。

Thursday, April 05, 2007

戯作者文学論(2)心情的共感に抗する

ynさんより、都知事選に関する情報をいただいた。ぜひご覧いただきたい。私たち一人一人は微力であっても無力ではない。

***

安吾は「戯作者文学論」という創作日記の第一日目、1946年7月8日に「女体」という小説の執筆動機をこう記している。

 私はこの春、漱石の長篇を一通り読んだ。ちょうど、同居している人が漱石全集を持っていたからである。私は漱石の作品が全然肉体を生活していないので驚いた。

すべてが男女の人間関係でありながら、肉体というものが全くない。痒いところへ手が届くとは漱石の知と理のことで、人間関係のあらゆる外部の枝葉末節に実にまんべんなく思惟が行き届いているのだが、肉体というものだけがないのである。

 そして、人間関係を人間関係自体において解決しようとせずに、自殺をしたり、宗教の門をたたいたりする。そして、宗教の門をたたいても別に悟りらしいものもなかったというので、人間関係自体をそれでうやむやにしている。漱石は、自殺だの、宗教の門をたたくことが、苦悩の誠実なる姿だと思い込んでいるのだ。

 私はこういう軽薄な知性のイミテーションが深きもの誠実なるものと信ぜられ、第一級の文学と目されて怪しまれぬことに、非常なる憤りをもった。しかし、怒ってみても始まらぬ。私自身が書くよりほかに仕方がない。漱石が軽薄な知性のイミテーションにすぎないことを、私自身の作品全体によって証し得ることができなければ、私は駄目な人間なのだ。それで私はある一組の夫婦の心のつながりを、心と肉体とその当然あるべき姿において歩ませるような小説を書いてみたいと考えた。

私は自分がベルクソンという唯心論者(通常、精神とか魂とか生命というものを重要視しているとされる潮流)の身体「概念」、というよりベルクソン哲学を通じて身体をめぐって漠然と形成されていくある「論理」の生成と構造を目下の中心的な研究対象としているので、この一文に何か非常に近いものを感じる。

おそらく常識的な知識人はこのような粗雑な漱石批判には眉を顰めるに違いない。漱石はなんと言っても日本近代文学の「天皇」である。漱石が好きだと言っておけばひとまず間違いはない。しかし、眉を顰めるということは常識以上の何物も示すものではない。

だが、他方で、安吾のこの一文に心情的な共感を示して興奮する人々に過度の期待をもってもならない。すべからく――68年の大学紛争における「心情三派」同様――心情的な共感などをあてにしてはならない。そういう人々は結局、風向きが変われば、昨日までとは逆のことに今度は「共感」を示し始めるのだから。

研究も同じである。盲目的に誰かや何かを崇拝してみても、嗤ってみても、怒ってみても始まらない。私自身が書くよりほかに仕方がない。私自身の作品全体によって証し得ることができなければ、私は駄目な人間なのだ、と呟き続ける必要がある。「自己内対話」を言うのは、自戒としてである。

Wednesday, April 04, 2007

「戯作者文学論」について(1)日記に抗する日記

ウェブ上には、ときどき「本当にすごいなあ」と手放しで賞賛したくなる偉業がある。

聖書と木材」というページがあり、聖書に登場する木や植物の種類、出典箇所が網羅されている。しかも作られているのはどうやら、大阪堺市の木材屋さん?凄すぎる!

***

あまりにも低次元の話なので、ここで取り上げることもないのだが、最近自分のブログ観やら日記観を一応表明しておかざるをえないと感じるのは、結局どこかで心理的なプレッシャーがかかっているのかもと思うと、あながち無関係でもないのだろう。

≪自分の日記にあしあとやコメントが付くと、周囲から認められたという「認知欲求」、自分を受け入れて欲しいという「親和欲求」が満たされ、それが快感になるという。好意を持っていたり、尊敬している相手からあしあとやコメントが付くと、さらに高い快感が得られるため、快感を求めて日記を更新し続けるという“中毒”症状につながる。(…)

 友人同士をリンクで結ぶ機能「マイミクシィ」(マイミク)が、この応酬をさらにヒートアップさせる。ユーザーは、別のユーザーにリンク申請して承認されると、自分の「マイミクシィ一覧」上に相手が表示される。マイミクはいわば、友人である証だ。

 山崎さんは「マイミクは、社章のようなもの」と言う。社章を付けた人は、その会社の社員であることを強く意識し、社員としてのふるまいを強化する傾向があると考えられている。A社の社章を付けた人は、より「A社の社員らしくふるまおう」と意識するといい、社会心理学で言う「役割効果」が発揮される。≫(IT media News、≪「mixi疲れ」を心理学から考える≫、2006年7月21日より一部引用)

幼稚な心理である。ブログやHPというのは、murakamiさんのように淡々と、あるいは私のように「くどい」のでもいいが、ともかくクールにやるに限る(上方落語は、志ん朝同様、くどいがクールなのである)。

Cf. IT media News、≪「mixi読み逃げ」ってダメなの?≫、2007年3月20日より一部抜粋

≪読み逃げを気にするユーザーの日記などを詳細に読んでみると、リアルで会ったことがないマイミクとの関係に気を遣っているケースが多いことが見えてきた。

 見知らぬ人とマイミクとしてつながった場合、人間関係を保障してくれるのは、mixi日記へのコメントやメッセージ、足あとだけ。だから自分のページに足あとが付けば、必ず訪問してコメントやメッセージを残し、「あなたのことをマイミクと認めていますよ」とアピールするし、相手も同じようにコメントやメッセージを返してくれ、自分を認めてくれることを期待する。読み逃げされると「嫌われたのかな?」「マイミクと認めてくれてないのかな?」などと落胆するようだ。≫



坂口安吾「戯作者文学論」というエッセイがある。「文学論」と題され、私も仕方なく「エッセイ」と呼んだが、「女体」という小説を書き上げる行程を綴った二十日間ほどの創作日記――「私の小説がどういう風につくられていくかを意識的にしるした日録」――である。1947年の作品だから安吾は41歳ごろ。

なぜ創作日記を「文学論」と名づけるのか。あるいは、なぜ文学論の表題の下に創作日記を綴るのか。おそらく二つの理由がある。一つには、自らの文学を語るのに通常の文学論の形態で語ることに嫌悪感を覚えたということがあるだろう。自ら戯作者をもって任ずる彼に「戯作者文学論」を執筆するよう求めた平野謙に対して、安吾はこう答える。

≪私が自ら戯作者と称する戯作者は私自身のみの言葉であって、いわゆる戯作者とはいくらか意味が違うかもしれない。しかし、そう大して違わない。私はただの戯作者でも構わない。私はただの戯作者、物語作者にすぎないのだ。ただ、その戯作に私の生存が賭けられているだけのことで、そういう賭けの上で、私は戯作しているだけなのだ。

生存を賭ける、ということも、別段大したことではない。ただ、生きているだけだ。それだけのことだ。私はそれ以上の説明を好まない。それで私は、私の小説がどんな風にして出来上がるか、事実をお目にかける方が簡単だと思った≫(ちくま文庫版『坂口安吾全集』第15巻、14頁)。

かといって、日記を書くことで、真実の「作者の意図」が記されうると考えるほど、安吾はナイーヴではない。「それに私は、この日記に、必ずしも本当のことを語っているとは考えていない」(同上、15頁)という言葉から、では、安吾は嘘をついているのか、と早合点する人はよもやいまい。それによっては真実を描こうとしても描きえぬ方法というものがあるのである。これが「文学論」と名づけたもう一つの理由である。

≪私は今まで日記をつけたことがなく、この二十日間ほどの日記の後は再び日記をつけていない。私のようにその日その日でたとこまかせ、気まぐれに、まったく無計画に生きている人間は、特別の理由がなければ、とても日記をつける気持ちにならない。

日記などはずいぶん不自由なもので、自分の発見でなしに、自分の解説なのだから、解説というものは、絶対のものではないのだから。


小説家はその作品以外に自己を語りうるものではない。だから私は、この日記が、必ずしも作品でないということを、だからまた、作品であるかもしれぬということを、一言お断り致しておきます≫(同上、13、15頁)。

私のこの「創作日記」もまた、安吾に比べて思想的にいかに惰弱で貧相であろうとも、ささやかな「哲学論」「思想研究論」たろうとしており、それ以外にこのようなものを書く意味もない。思想研究者はその作品以外に自己を語りうるものではない。だから私は、このブログが、必ずしも作品でないということを、だからまた…。

Tuesday, April 03, 2007

フランス哲学セミナー

3月31日(デカルトの誕生日?)、murakamiさんとisさんが発起人になって立ち上げられたフランス哲学セミナーに参加してきた。これからますます面白くなっていくといいと思う。 そのための提案。

1・explication de texteだけでなく、さまざまな点でフランス風を取り入れてみても面白いと思う。レジュメの作り方、読み方など。これについては「テクストの聴診」 (2006年11月12日の項)参照のこと。

2・大きな学会でも、個別の研究会でも出来ないことの一つに、「玄人好みの研究者紹介」というのがある。研究者であれば、誰しもマイ・フェイヴァリットというのがあるはずで、私で言えば、D. Janicaud, J.-P. Séris, G. Lebrun, J.-F. Marquetなど、個別の思想家研究を軽くはみ出てしまう個性的な人たちをいずれ紹介してみたい。それはともかく、「ここでしか出来なさそうなこと」をもう少し追求してみるといいのではないか。

3・コレギウム・プロジェクトと何らかの接続を徐々に模索していければ。

最後に、京都からお呼びたてしてしまったmnさん、もし期待しておられたものと違っていたとしたら、ごめんなさいね。でも、研究者同士のつながり、特に直接会って話すことはとても重要だと思っているので。