Thursday, November 30, 2006

感謝知らず-高潔の哲学史(取るに足らぬ序文)

sympaな人はいくらもいる。magnanimitéをもった人はなかなかいない。フランス語のmagnanimeの語源であるラテン語のmagnanimusは、magnus(大きい)とanimus(心)からできた語である。寛大・高潔・高邁・高貴・広量・雅量などと訳される。

純潔を保つために人を遠ざけ、あるいは「孤客(ミザントロオプ)」であるがゆえに否応なく保たれた純潔が腐り落ち、傲岸不遜に堕する、そういった人々のことをいっているのではない。純潔と高潔は異なる。マニャニミテは、泰然自若とも訳せるはずだ。

人と交わることを怖れず、人の輪の中にあって高潔を保ち、どうしても空の高さを感じさせずにおかない人。ごく稀にそういう人に出会うと、性別はどうあれ、心がときめく。少し時代がかっているかもしれない、でもそれがなんだろう。

Sed omnia praeclara tam difficilia, quàm rara sunt.

とスピノザも言っているではないか。私自身も、常々magnanimeでありたいとは思っているし、またそのように振る舞うよう努力もしているのだが、修行が足りないのでずいぶんつまらないことで腹を立てることもある。

もっとも、《いろいろと親切に教えてあげてもなんとも思わない》とか、《情報をしれっと利用した挙句にあたかもはじめから自分は知っていたと言わんばかりのポーズで対抗意識をむき出しにしてくる》とかいうくらいはかわいいもので、全然許容範囲である。

パリのとある友人があるテーマについてゼミを開くことにしたと予告を送ってきたのだが、そこに並んでいる参考文献は一年前なら彼の知らなかったものばかりだ。たしかに悔しい気持ちもないとはいえない。だが、この悔しさはフランス人の彼がパリで当該テーマについてセミナーを開くという事実に対する私の地政学的な関心(羨望?)に由来するもので、彼のそういう性格自体への怒りに由来するものではない。たぶん彼は私に情報提供を乞うたという事実すら忘れている幸福な人なのだから…。まあ、そういう人は世界中どこにでもいる。

自分のmagnanimitéを本当に試されるのは、いわれのない攻撃を受けた場合ではあるまいか。火のないところに煙は立たぬという。しかし、マッチ一本から大きな山火事に至るには、相当乾ききった心か、苛立ちの大風という下地がなければならないはずである。なんでも悪く取る用意のある人に対してどう毅然とかつ穏やかに対処できるか。哲学者たちの声に耳を傾けてみよう。

ちなみに、「取るに足らぬ序文」とは、キェルケゴールのドン・ジョバンニ論である「直接的エロス的諸段階、あるいは音楽的-エロス的なもの」(『あれか、これか』第一部第二論文)序文の表題である。ウェブ上ではデンマーク語で読むこともできる

Tuesday, November 28, 2006

混線、混戦-戦場で友に送る手紙

最近年齢の壁やfameないしstatusの壁にこつんと当たる小さな事件が幾つか起こってきている。今自分が置かれている状況と自分にできること、あるいは自分が実現したいと思っていることの間に開きがあるからだ。しかし、それでもなお、弛まず進んでいきたいと願い、日夜努力を続けている。

そんな中で、温かい声を掛けてくださる方々がいてくださって、精神的にとても助かっている。自分の研究のことは自分でやるほかないという以上に、単に自分の事柄なわけだが、状況を変えていこうとすると、求められるのはそういった事柄以上のものだ。しかし、自分の仕事と決して無関係ではない。見知らぬ人が他人を判断する基準は仕事しかないのだから。

他方で、物見高く見ているだけという人々もいる。自分は知らないよ、と。おこぼれには与るけれど、と。 ある程度優秀な学者も含めて、普通はそういうものかもしれない。たぶん「羊たちの沈黙」はいつの時代にもある。彼らはいつも小声で文句を言いながら付き従う。私の努力が実を結ぶのはまだまだ先のことだろうが、そのとき彼らは、今私が時代状況に感じている閉塞感やそれを突破するために払っている努力や犠牲の大きさなど一顧だにせずに、結果だけを平然と受け取るだろう。彼らはいつも小声で文句を言いながら誰かにつき従うだけだからだ。あてにできるのは、研究レベルの努力と制度的なレベルの努力という「両面作戦」で行動を共にしてくれる友人たちだけだ。

しかし、「日本は知的砂漠である」という意見には反対である。教育国家と文化国家の違いも弁えないそのような放言にはルサンチマン以上のものを認められない。言い放つだけならとても簡単だとも思う。大切なのは内側から(繰り返すが研究レベルだけでなく制度的なレベルで)少しずつでも変えていくことだ。そのような努力抜きの「鋭い批判」などに何の意味もない。

aboutに掲げているが、大事なのは嘲笑することでも、慨嘆することでも、呪詛を投げつけることでもなく、理解しようと努めることである。真の理解はやがていつの日か真の変革につながる。

Thursday, November 23, 2006

Master Mundus追加情報

専用サイトが設置されたと連絡がありました(11月1日の項に追記)。すでに複数の日本人に連絡が行っているようなので、今回はメールでは流しません。もしかすると新たな情報が追加されているかもしれませんので、興味のある方はチェックを、周りに興味のある方がいらっしゃりそうな場合にはアナウンスをお願いします。hf

Sunday, November 19, 2006

予行演習にゼミを活用する

現在、「《大いなる息吹…》 ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』における呼びかけ・熱狂・情動」(仮)という論文を執筆中である。

『二源泉』に現れる《声》《火》《道》のイメージを丹念に追いかけることで、「開かれたもの」(開かれた道徳・動的宗教)のダイナミズム、創造的行動の論理の構成要素、すなわち《呼びかけ》《熱狂》《情動》の諸特徴を明らかにするとともに、哲学研究において隠喩をたどること、テクストの声に耳を傾けることの重要性を強調する――といった趣旨である。

先々週、h大学aゼミで、先週t大学sゼミで、それぞれ予行演習として発表させてもらった。自分の考えをまとめるのにこういった形で親しい先生方のゼミを使わせてもらうのが好きだ。勝手知ったるアットホームな雰囲気で、けれど真剣勝負で発表する。

まあ、往々にして最初はアイデアをたくさん詰め込んだまとまりのない発表で、聞いていただく方々に申し訳ないくらいなのだが、それでも徐々に形になっていくのだから、やはり発表はしてみるものだと思う。人それぞれ自分なりの仕事のスタイルがあるから、別にお勧めするわけじゃないけれど。

発表はたいてい同じ反応。最初に哲学科で聞いてもらうと、たいてい構成がクリアでないと言われるので、ここで大枠を明確にするよう努める。次に仏文科で聞いてもらうと、専門ではないので難しいと言いながら、けっこう細かい点をいろいろと突っ込んでくれるので、ここで微調整する。

先週の発表では読み上げ原稿を完成できず、三分の二程度はアドリブで喋ったのだが、そのほうが圧倒的に分かりやすくて面白かったとほとんど全員言っていた。喜んでいいのか悲しむべきなのか。

水曜が締め切りなのに、まだ最終形が見えない。『二源泉』を読んだことのない人にも分かるように丁寧な序論を書いたら、それだけでかなりの分量になってしまったので、ひとまず《声》《火》《道》で三分割することに決めた。というわけで、今回は「(上)《声》-呼びかけにおける人格性の問題」を扱う。査読側がなんと言うか分からないけれど…。

Friday, November 17, 2006

近況

このへんで、帰国後の仕事ぶりをまとめておきます。まず研究発表。

1)9月9日(土)日仏哲学会2006年秋季研究大会(於:法政大学)にて、「ベルクソンと目的論の問題-「苔むした」生気論?」と題した研究発表を行なう。

2)9月18日(月)第20回ベルクソン哲学研究会(於:学習院大学)にて、「場所の記憶、記憶の場所-ベルクソンとメルロ=ポンティ」と題した研究発表を行なう。

3)10月28日(土)日本フランス語フランス文学会2006年秋季大会(於:岡山大学)にて、「唯心論(スピリチュアリスム)と心霊論(スピリティスム)-ベルクソン哲学における催眠・テレパシー・心霊研究」と題した研究発表を行なう。

1と3はそれぞれの機関紙に掲載されるよう、これから論文化を鋭意行なっていくつもりですが、2は機関紙がないのでどうしたものか。

次に、論文(掲載決定済み・現在投稿中・投稿予定)ですが、

4)カッシーラーのベルクソン『二源泉』に関する長い書評(というより研究論文)の仏訳、および、それに付した私のこれまた長い序文が『ベルクソン年鑑』(PUF)に掲載されます。近日校正刷が送付されてくる旨(ようやく・・・)連絡がありました。

5)「哲学の教育、教育の哲学」(仮)と題するエッセイを某所に投稿中。これは厳密には私の研究分野ではありませんが、興味をもっている主題の一つなので、これまでに書きなぐったものを出してみました。まったくの床屋政談ですが、どうなることか。

6)大学紀要に「《大いなる生の息吹…》 ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』における呼びかけ・情動・熱狂」と題する論文を投稿予定。現在鋭意執筆中です。

これからの執筆計画。

7)ベルクソンにおけるメタファーやアナロジー(修辞学の問題)に正面から取り組んでみたい。これは来年春の仏文学会向け。

8)来年の百周年トゥールーズ篇では、もう一度「目的論」の問題を取り上げなおし、いっそうの深化を試みるつもり。あるいは技術論をやり直そうか。

9)最後に、問題の大論文。これらと同時並行的に。というか、これらの仕事は全部、大論文のélaborationの過程なわけですが。

Monday, November 13, 2006

テクストの聴診-杉山直樹『ベルクソン 聴診する経験論』

ネットでフランス哲学に関するラジオが聞けるという話をした。朗読や講義のCDがあるという話もした。もちろん重要なのは有名人のお話(師のお声)を謹聴することではない(2005年3月2日の項「追っかけは追っかけ(『異邦人のまなざし』余談2)」)。聴くという体験を通じて思考を紡ぐことが何をおいても重要なのだ。

「聴く」と言えば、日本のベルクソン研究者一同が待望していた杉山直樹氏の著作がこの10月に刊行された。その名も『ベルクソン 聴診する経験論』(創文社)。カバーに印刷された仏語題名は、

Naoki SUGIYAMA, Bergson, auscultateur de l'expérience, Sobunsya, 2006.

となっている。いずれ仏訳していただきたいものだ。書評はまた別の機会にして、本書の印象を一言で言えば「王道を行く」という感じ。私はしばしば杉山氏を「日本のヴォルムス」と呼ぶのだが、そのような直感は間違っていなかった、と本書に目を通しながら思った。

王道にもいろいろあるので、守永直幹氏の著作『未知なるものへの生成 ベルクソン生命哲学』(春秋社、2006年)も、個人的には「王道」路線だと思っている。ファイティング・ポーズが勝っているので、分かりやすく言えばマイク・タイソン、より正確な比較対象を探せば輪島功一ということになろう。杉山氏は、一見より穏やかだが、舌鋒は鋭い。分かりやすく言えばモハメッド・アリ、より正確な比較対象を探せば具志堅用高ということになる。プロレスで分かりやすい例を探せば、猪木と馬場となる(ちなみに「猪木スタイル」必ずしも「ストロングスタイル」ならず、と言っている人がいるが卓見である)。

ちなみに、檜垣立哉氏の『ベルクソンの哲学 生成する実在の肯定』(勁草書房、2000年)は、入門書と研究書の中間くらいという位置づけだと思うが、チャーミングな魅力に満ちているので、『酔拳』のジャッキー・チェンといったところであろうか。千鳥足だからと打ちかかったらとんでもない目に遭う。彼の研究スタイル全般に言えることだが、やりたい放題に見えて、けっこう計算されているのだ。

話を元に戻せば、ベルクソンを「経験の聴診者」と定義する杉山氏自身のアプローチが実にベルクソニアンである、つまり「聴診的」である。
[ベルクソンの文体は]流麗なリズムをそなえた繊細な文体、などと言われはするし、確かに目の前の数行単位で読む限り、彼の言葉はそう言われもしよう心地よい滑らかさを有してはいると思うが、しかしそうしたフレーズたちが構成する全体はというと、それは私には、実に見通しの悪く、ぎこちない、今にも崩れそうな集塊のように映る。ノートを取り、用例集を作り、自前のレキシコンを作成し、つまりは「哲学書」を前にしての通常の読みの作業をするのだが、こんな難物はない。[…]このような哲学を「明晰」だの「端正」だの形容する人々が少なくないようだが、きっと彼らは、ベルクソンのテクストを本当に自分で読んだことがないのだ。

引用の仕方でその人がテクストを読むという行為をどう考えているのかは如実に分かる。explication de texteの伝統のない場所では、読むという行為にあまり注意が払われないようにも思える。引用とは添え物ではないし、偉大な哲学は論理の骨組みだけに解体されはしない。

というわけで、本書にはいくつかの偏りが生じている。本書は「ベルクソン哲学」というものの包括的な注釈書とはなっていない。参照される著作のページリストを作れば、どこが素通りされているかは明らかだと思う。私としてはまず、テクストとして前述の「異様さ」を強く孕むと感じられた箇所を中心に読解を試みたつもりである(ある意味、この取捨選択が本書の一番大きな主張だとも言える)。[…] このように一定のテクストの読解だけにこだわる態度がある種の顰蹙と嘲笑の対象になることは分かっているが、今の私は、騒がしい「アクチュアリティ」にとびつくよりもむしろその種の地味な作業を続けることにこそ意義があるように感じている。

テクストを前にすればごく当たり前の態度をこのように「偏り」と呼ばせ、いくつかの特権的テクストを執拗に読解し続ける態度が「ある種の顰蹙と嘲笑の対象になることは分かっているが」と予防線を張らせずにおかない場所において、哲学のテクストを「読む」とはいったい何でありうるのだろうか?

この「読む」ことに関する無関心はまた、「読みあげる」ということに関する無頓着と切り離せない関係にあるように思う。現在の哲学系(思想系ではない)の発表はたいがい原稿を事前に配布しそのまま読み上げる形式のものだが、形式としては実に退屈で工夫がない。原稿を配るのなら、わざわざ読み上げる必要はないではないか。

もちろん、目の前にテクストがあったほうが親切だという考えは分からないではないし、一字一句を点検できるという意味で可能性としては緻密な議論が展開できるようになっていることは認めるが、テンションが如実に下がることもまた事実だ。これでは、耳で話を追うという重要な思考の体験がまったく蔑ろにされていると思うのだが、どうだろうか。思考の刺激ということだけから言えば、いっそ「4分33秒」のケージよろしく発表時間中ずっと沈黙を守っていたほうがいいのではないかと思うくらいだ。

海外では数え切れないほど発表を聴いたが、読み上げ原稿を配布する場面に出会ったのは、外国人相手とか自分が慣れない外国語で話すとか、そういう例外的事態だけである。もちろん、何も配らないことが多いフランス流のやり方が完全だというのではない。おそらく両方の中間くらい、各項目のレジュメ+引用文がいいのではないか。

「読む」ことへの無関心、「読み上げる」ことへの無頓着は、結局のところ「聴く」ということに対する不感症に通ずる。何度でも言おう。耳からはじめること、哲学の歌を聴け。

Saturday, November 11, 2006

哲学の歌を聴け(追加情報)

あがるまさん、「ファンレター」(!)、ありがとうございました。読みやすいシンプルな外観さえ整えば、あとはあまりデザインにこだわらないという私のような機械音痴にとって――この怠惰があまり快いとは言えない事件を惹起したりもしましたが――、ブログは大変便利な道具です。

今のところ直接お顔とお考えを存じ上げない方とブログ上で交流させていただくことには消極的ですが(したがってこういった形でいつもお返事を差し上げられるか分かりませんが)、いただいた貴重な情報は皆で共有できればと思いますので、これからもぜひご教示くださいませ。

*あがるまさんのメールより一部抜粋
ウィーン大学の講義や講演(の一部)はhttp://audiothek.philo.at/modules.php?op=modload&name=Downloads&file=indexで聞くことが出来ることを知りました。大御所E.Tugendhatの2002年の動物と人間の違ひについての2つの講演などもあり、内容は余り面白くもなささうですが、話し方は明確で聞き易いですね。その他の大学はどうなつてゐるのか知りませんが、Toulouse大学の資料の頁は充実してゐました。ところでパリのF.Dasturの許で(10年くらい前に)九鬼周造についての論文を書かれた方の消息をご存知ですか?

こういった「耳」の情報、とてもありがたいです。最近はいろいろな音源がネット上にアップされていて、こういったものを「哲学耳」のトレーニングにどんどん活用していくべきだと思っています。九鬼の方は存じ上げません。DasturはパリⅠのあと、今は亡きジャニコーの誘いでニース大学に移り、近頃退官したはずです。私は彼女を見るといつも「やんちゃで憎めない精悍なドラ猫のようだ」と思います。彼女は私と会うといつも(たぶん日本人なら誰にでも)「デリダとヘーゲルについてすごい博論を書いた日本人がいるんだけど、知ってる?どこの出版社も出してくれないのよ」というのですが、そのたびに「名前なんだっけなあ」と言ってました。覚えといてよ、っていう(笑)。日本人の名前って彼らには難しいですからね。

Thursday, November 09, 2006

『創造的進化』百周年トゥールーズ篇

トゥールーズ大学のサイトに告知されてしばらく経つから、もう日本でも伏せておく必要はないだろう。来年はベルクソンの『創造的進化』が刊行されてからちょうど百年目にあたり、世界各国でそれを祝う催しが企画されている。トゥールーズ大学でも来年2007年の4月にAtelier Bergsonを開こうという企画が持ちあがり、私にorganisateursの一人になるよう要請が来た。

まだろくにキャリアもスタートしていない人になぜ、と驚いてはいけない。フランスではコロックを仕切るのは、どちらかと言えば、将来を見込まれた(?)若人たちのやる仕事なのである。フランスの御大たちはむしろ自ら率先して発表をしたがる。これは齢を重ねるほど落ち着いて「差配」仕事だけを引き受けたがる風土とはかなり異なる。

今回の一件で本当に驚くべきは、まだろくにキャリアもスタートしていない「外国人」になぜ、ということである。これには正直私も驚いた。それとともに、人種の分け隔てなく人を見る目を持った(?)co-organisateursに驚嘆もし感謝もしている。と同時に、冷静に見れば、これは「アジアを引き込む」という遠大な戦略のごくわずかな一端なのだとも思う。

それはともかく、今回の私の望みは、1)『創造的進化』に関する日本最強布陣をつくること(もちろんフランス語ができることが最低条件である)、2)フランス側に旅費を出させること、であった。二つ目は些細な金銭問題のようだが、決してそうではない。フランス側にほぼ全額出してもらって日本人哲学者チームが丸ごと呼ばれたことが、果たして過去何度あったか?

日本人がフランスに行って発表したといっても、たいていの場合は個人招待が限度、グループの場合は持ち出しが多い。しかし相手の誠意、こちらに対する評価は、そういう部分に表れるのである。望みは十分に叶えられたので、とても満足している。

このブログを読んでくれている数少ない私の友人たち――しかし真の知的友情とはいつの時代も稀なものだ。無理に耳目を集める必要はない――にはまだもう少しサプライズがある。いずれここで一番にご報告できればと思う。

Tuesday, November 07, 2006

哲学の歌を聴け-『意志的隷従に関する文言』のCD



フランスやドイツには哲学関係のCDが少なからず存在する。ドゥルーズのものは日本でも(日本でこそ?)よく知られているであろうから、ここでは日本人にとってもっと切実な意味で重要なCDを紹介しておく。切実だという理由はすでに述べたことがあるので、ここでは繰り返さない(2003年8月2日の「意志的隷従と怠ける権利」の項を参照のこと)。

朗読しているドゥニ・ポダリデスは、名前からしていかにもギリシャ系移民の二世ないし三世。私のお気に入りの役者だ。コメディー・フランセーズで「リュイ・ブラース」に出演しているのを見たこともあるし、ブルデューの息子の情けないドキュメンタリーにも友情出演したりと芸の幅は広いが、やはり軽い映画がいい。ガストン・ルルー原作の『黄色い部屋の謎』は誰にでもお薦めできる佳作である。

このCDを出しているテレーム出版社の名前はもちろんラブレーの「テレームの僧院」から来ている。作家・思想家の言語のもつ「音楽性」に注目し、「声に出して読むことは、偉大なテクストを誰の手にも届くものにする」と宣言できるのは、それ以前のフランス知識人たちの地道な努力、歴史の積み重ねがあるからにほかならない。日本の哲学はどうだろうか?「聞くに堪える」だろうか?あるいは、より正確に言えば、思想の重みに堪えて聴き続けようとする聴衆はいるだろうか?



日本でも西田の対談の録音などが残っているようだが、記念館の独占物にしておくというのはいかがなものか。また、西田の主著の録音などは不可能なものか?もし不可能に思えるなら、なぜ不可能なのか?近代日本の哲学がはらんでいる問題の核心には案外そんな素朴なところから接近できるかもしれない。耳から始めること、哲学の歌を聴け。

Sunday, November 05, 2006

哲学に-耳を澄ませば(ネットラジオの効用) 

哲学の祖をソクラテスとするか、プラトンとするか。いずれにしても、哲学と耳の関係は決定的に重要だ。ソクラテスは著述活動より口頭での対話を自らの思考の手段として選んだ。プラトンはそのスタイルをできるかぎりエクリチュールに、すなわち韻とリズムを重んじた言葉に移し変えようと試みた。

日本の西洋哲学研究にはいろいろと大きな問題があるが、その一つに「耳」の問題がある。より詳しく言えば、西洋諸語を聴くことの困難という問題があり、また翻訳日本語で西洋哲学を聴くことの困難という問題がある。



フランスは文化国家であり、日本は教育国家である。フランスにはarteがあり、日本には教育テレビがある。フランスには一流の研究者が最先端の研究成果を自由に発表するコレージュ・ド・フランスがあり、日本には大家が実に行き届いた入門コースで懇切丁寧に教えてくれる放送大学がある。

悪平等社会である日本は「目」新しいものをすぐに取り入れる自由闊達さがあるが、また資本の論理に従ってすぐに忘れてしまうという気風があり、階級社会であるフランスは外来のもの、新手のものをなかなか取り入れないが、いったん取り入れると粘り強く「耳」を傾けるという気風がある。ニュートラルに言えばそういうことだが、殊高等研究に限って言えばそうはいかない。

日本では大衆教育や啓蒙には金を出すので人が集まるが(文化センターやレクチャー・コースの隆盛を見よ!)、金を出すだけではどうにもならない高等研究は遅々として蓄積していかない。建築への意志、文化への意志、すなわち堅固(堅実にして着実)な制度化が欠けているのだと思う。アメリカのそれとかなりよく似た、自由で軽やかで純粋資本主義的な状況下で、日本の人文科学、とりわけ哲学・思想研究は無限の後退戦を強いられている。

このような気風を一朝一夕に変えられるわけもないし、状況を客観的に見れば、そんなことを望むことすら非現実的と笑われかねない。だが、小さなところから始めることは暗い時代の人々にも可能だし、暗い時代にはむしろそのようなところから始めざるを得ない。

France Cultureでは、毎週金曜日に哲学に関する放送「Vendredis de la philosophie」が朝十時から一時間放送される。私たちはそれをネットで聴き、podcastで録音していつでも聴きなおすことができる(Windowsでも)。日本はどうだろうか?日本の哲学は、真剣な哲学・思想研究は、人々の耳に届いているだろうか?

耳から始めること、哲学の歌を聴け。

***

p.s.ラクラウ=ムフのすでに古典となった『ヘゲモニーと社会主義者の戦略』に関するバリバールらとのCollège International de Philosophieにおける討議もよろしければどうぞ

Wednesday, November 01, 2006

Master Mundus、あるいは無限の後退戦を戦い抜くこと

数ヶ月前からすでに数人の方にはお知らせしておりましたが、Master Mundusがとうとう本格的に動き出すこととなりました。

Erasmusというヨーロッパの大学間短期留学・単位互換制度はご存知の方も多いと思います。Erasmusは学部レベルですが、それを今度は大学院レベルで長期、それも独仏の哲学・思想研究の少数精鋭に絞ったもの、それがMaster Mundus EuroPhiloです。

詳細は当該サイトを参照していただきたいのですが(専用サイト設置:2006年11月22日追記)、年間2万1千ユーロ(150円換算だと315万円)相当の奨学金を得ながら、二年間で仏・独などの三つの大学で優秀な研究者のもとで研究し、フランス哲学とドイツ哲学両方のスペシャリストを目指す、というものです。この制度に非ヨーロッパ圏からも参加者を募ることがこの度正式に決まった旨、フランス側の代表者であり私の友人でもある
Jean-Christophe Goddard氏から連絡がありました。

一年に全世界(非ヨーロッパ圏)から13人だけ選ばれるという超難関コースですが、教育内容的にも財政的にも恵まれた環境で研究するという経験は、日本の優秀な哲学・思想系の若手研究者にとって何物にも代えがたい財産となることでしょう。

この壮大な実験を見るにつけ、現在の日本の西洋哲学・思想研究には大きく二つの構造的問題があるという事実が浮かび上がってきます。今この話に関係のある限りで簡潔に言えば、一つ目は、哲学研究における語学教育(とりわけ書く・話す)の軽視や早期からのインテンシヴな教育の不在など、「高等教育」という視点が決定的に不足していること、二つ目は、ドイツ哲学とフランス哲学の間に積極的な共闘の姿勢があまり見られず、とりわけ「両刀使い」を育てようとする姿勢がほとんど見られないことです。
Cf. 以前書いたgribouillage「哲学の教育、教育の哲学」を参照されたい。
(1)数の問題 (2005年2月21日)
(2)エリート教育の問題 (2005年5月9日)


私たちの国の問題を他国の新制度によって解決できるなどと幻想を抱いているわけではありませんし、日本人にとって西洋諸語の言葉の壁が大きいことも重々承知しています。ただ、手遅れになる前にその欠を少しでも埋めていくのは現在の大学人、哲学・思想研究者の責務であるとも思っています。人文科学が強いられている無限の後退戦をただ嘆くばかりでは何も始まりません。若手の優秀な研究者の出現を偶然の産物とするのでなく制度的に促進していくこと、今回のMaster Mundusはそのごくわずかばかりの補完になりうるのではないかと期待しています。

自薦他薦を問いませんが、皆様の周りの優秀な大学院生(来年度から即留学できるので修士終了間際がベスト、博士前半まで)をこの制度にご推薦いただけませんでしょうか?現実問題としましては、フランス語ないしドイツ語のどちらか一つがとてもよく出来(読み書き話す)、もう一つは読める(少し話せる)くらいでよいと思います。仏独の思想を研究対象としていれば、どの学科に所属していても問題はありません。

フランスの大学に応募される場合、いろいろとご相談に乗ることも出来るかと思いますので、どうぞ私のほうまでお気軽にご相談くださいませ。