Wednesday, April 26, 2006

固有身体、身体の所有(身体=技術哲学)

固有である(être propre)とはどういうことか。

あるものに固有であるということは、あるものをしてそのものたらしめている、ということである。内角の総和が二直角に等しいという事実は三角形の本性から演繹されるものである以上、三角形に固有である(être propore)。つまり三角形の特性(propriété)である。

所有物(propriété)を所有(appropriation)するとはどういうことか。

所有の原理とは比喩的・アナロジカルなものであるのか。あるものとそれに固有なものの関係と、所有者とその所有物の関係は相似である、といったように?

何かを所有するという身振り、さらには何かに固有であるという存在様態の奥に潜む人間学、存在論とはいかなるものであるのか。

あらゆる身体の哲学は、実は、この驚くほど単純で、恐ろしいほど神秘的な問いへの応答の試みではないのか。なぜなら身体とは特性(propriété)と所有物(propriété)の間で揺れ動くものだからである。そもそも原理的に切り離しえないもの――だが、これはそれほど自明なことではなくなりつつある――を手に入れるとはどういうことか。

おそらく以上の言述はひどく抽象的なものに見えるかもしれない。サミュエル・バトラーの言葉を引いておこう。

「多様な人種を区分する主なものは、黒人諸部族、チェルケス人、マレー人、アメリカ原住民などの間に求めるべきではなく、むしろ、金持ちと貧乏人との間に求めるべきである。この二つの人種に見られる身体組織の差異は、いわゆる人種の類型間にある差異よりもはるかに大きい。金持ちの人間は、ここから英国へと、行きたくなればいつでも行ける。それに対し、もう一方の人間の脚は、目に見えぬ運命にしばられて、彼らを一定の狭い範囲を越えて運んでいくことができない。

…自分の身体に、いずれかの太平洋航路客船会社の一船室を付け加えられる人は、それができない人よりも、はるかに高度な身体組織にめぐまれているのである。

…見事にあつらえられた一揃いの手足をもつのは、大金持の人間でしかない。われわれは、このうえない科学的厳密さをもって断言することができるのだが、知られうる限り最も驚くべき身体組織となっているのは、かのロスチャイルド家の人々にほかならない。」

ここにベルクソンの身体=技術哲学の根本原理をなす一節を重ね合わせる。

「有機的に組織された(ほかならぬ直接の行動を目指して組織された)われわれの身体は、ひどくちっぽけなものだが、その表面がわれわれの現実運動の場所だとすれば、有機的ならぬわれわれの巨大な身体(宇宙)は、将来とられうる行動の、また理論的に可能な行動の場所だと言える。

…われわれの身体諸器官が自然の手になる道具と言えるとすれば、われわれの手になる道具は、当然人工の身体器官だということになる。職人の使う器具は、彼の腕の引き続きだと言えよう。してみれば、人類の道具制作は、自分の身体の延長である。」

ドゥルーズ+ガタリの『アンチ・オイディプス』や『ミル・プラトー』がこの延長線上に来るのはもはや明白である(ドゥルーズをきちんと勉強していない人のために言っておけば、先のバトラーの一節は、若きドゥルーズがつくった教科書的アンソロジーからの引用である)。この問題系に、表層的なレベルではなく、最も概念的なレベルで、しかし常に現実から離れることなくアプローチすることを可能にするもの、それが身体なのである。

いかに冗談ととられようとも(笑)、「結婚の形而上学」とその脱構築が位置するのも、まさにこのレベルにおいてである。愛する人を所有するということ、とはどういうことか。浅見さんの本は出発点として貴重である。私たちは哲学的な問題としてまだまだ展開できるし、西洋哲学史にはいくらでも扱うべきテクストがある。

Tuesday, April 25, 2006

怠け三題

アレルギーに悩まされている。動物の毛というか皮膚成分+ハウスダスト+花粉症のトリプルパンチである。フランス北地方の花粉の飛ぶ時期は2~4月らしいのでそろそろ終わってほしいのだが、ひどいときはまったく何もできない。する気さえ起こらないのである。

アレルギー患者でない人の目には「単に怠けているだけ」と映るようで、そのような無理解はもちろん十分理解できることなのだが、実際は怠けているのではない。偏頭痛や生理などの身体的理由、欝などの心理的理由から仕事が手につかない、という人にはお分かりであろう。



私自身はさほど怠け者だとは思っていないが――昨年度だけで論文4本、ドイツ語からフランス語への翻訳ひとつ、発表を5つ(仏語2、英語1、日語2)やっているのだ。怠け者などと言われる筋合いはないと思うが――、しかし、たしかに学者の仕事につきものの「怠け」というものもある。

教育者・大学教員としての話をしているのではない。学者・研究者には、芸術家に近い、創造的な部分があり、この部分を単にお役所仕事的に、半ば機械的・事務的にこなしていくのは、予算をとるためといった外的な理由を除けば、あまり意味がない。

短期的・個人的には利益もあり、「生産性」もあるかもしれないが、真の意味で生産的・創造的であるとは言えない。創造的であるためには余暇や怠けが必要であるという点で、少なからぬ思想家・芸術家の意見は一致している。



フランス人は怠け者でバカンス好き、日本人は働き者で有給もとらない、といった紋切り型が通り相場かと思うが、別の見方もあり、それはそれで筋が通っている。日本人の働き方は効率が悪い、朝から晩までずっとオフィスにいるが、常に集中して仕事に取り組んでいるわけではない、というものである。だからといって、フランス人の勤労意欲を弁護しようという気にもなれないのだが(笑)。

しかし、哲学者に限って言えば、フランス人のバカンスの取り方はやはり堂に入っている。何度も言うように、日本では哲学というのは教授の子息でなければ変人のやるものであるが、ヨーロッパでは教授の子息でなければブルジョワや貴族崩れのやるものなのである。この社会階層の違いは、よきにつけ悪しきにつけ、哲学をする「スタイル」にまで影響を及ぼしている。



近況としては、四月末までに共訳書の2稿をひとまず終え、それと同時に身体論文の校正を終える予定。同時並行で、5月中旬の発表の準備も進めている。これだけ働いても文句が出るのだから、やはり社会人というのはおそろしく働いているらしい。…日本人だけという気もするが。バカンスなのに、こんなに狂ったように朝から晩まで働いているのは。

Friday, April 14, 2006

翻訳について(1)

ここしばらく書くほどのことがない。そういうわけで、(き)(ふ)さんたちからお借りしているユリイカ特集号『翻訳作法』から抜粋でもしようか。

柴田元幸のインタヴュー≪君は「自己消去」できるか?ゼロ志向の翻訳ゲーム、最強プレイヤーかく語りき≫より

≪実は翻訳ほど、受験英語をちゃんとやったことが報われる仕事もないんじゃないですかね。[…]誰も使わない表現や古くなってしまった表現なんかを教えたって仕方がないっていう批判があるわけですが、翻訳する上ではどんな表現も一通り知っていたほうがいい。[…]受験英語で覚えて、そのあとずっと見たこともなかったけど、翻訳していて小説のなかで出会った表現というのはけっこうある気がする。≫

≪大学の授業で学生の翻訳を見ていると、特に「時制」についての理解が雑だったりします。[…]「時制」の理解は、翻訳する上ですごく重要です。≫

≪基本的な表現に関しては、単に辞書的な意味を知ってるだけじゃなくて、その言葉の「顔」を実感としてわかっていることが大事でしょうね。tiredと言わずにexhaustedと言ったら「あー疲れた」という疲労感がより強いとか、justifyは「正当化する」と訳されるけど、日本語の「正当化」みたいに否定的なニュアンスは普通ないとかね。そういうのを覚えるにはやはり受験勉強のようなやり方ではなく、濫読的に英語を読んだり、映画を見たりするのがいいでしょうね。もちろん英語圏で暮らすのが理想だけど、なかなかそうもいかないし、英語圏に住んでも周りが日本人ばっかりだったりするとあんまり効果はないしね。≫

≪一度「この言葉はこう訳せばいいんだな」と定まってしまうと、もう文脈も考えずに、自動的にそう訳してしまう。これはマズいです。やはり原文のトーンを聞かないといけません。だから、翻訳は数をやればうまくなるかどうかも実はわからない。逆にある種の「型」にはまってしまう危険性があるかもしれません。これって人生すべてそうかも(笑)。≫

≪岸本佐知子さんが言ってましたが、「翻訳者は小心者のほうがいい」ということもあって、「辞書にはこう書いてあるけど、これでいいのかな」と常に不安を感じる人のほうが向いてますよね。特に、形容詞、副詞とかで、辞書にそう定義が載っているからといって、なんかしっくり来ないなあと思いながらそのまま書いたりするのはマズい。そういうときは、少なくとも英英辞典の一冊や二冊は引かないとね。英英辞典は形容詞や副詞に関しては英和辞典よりずっとよくわかる。そもそも英和辞典はたいてい、プリンタとスキャナとファクスの複合機みたいな感じで、どんな状況にも対応できるように、よく使う意味もあまり使われない意味も全部ずらっと並べていて、どれを選んだらいいかよくわからないことが多いですよね。それに対して、ロングマンなどで出している学習用の英英辞典は、あまり使われない意味は見事に切り捨てています。現代英語を訳す上では、むしろそのほうがありがたかったりもする。まあ、何でも載ってる英和と併用するからそう思うんでしょうけど。≫

≪たしかに昔の翻訳者には、英語のスピリットがよくわかっていなかった人も多かったかもしれない。文字通りにも比喩的にも英語が「聞けない」し、文章を読んでもそのトーンがわからないということがあったかもしれません。バイリンガルの人たちはその逆で、英語のトーンとか、どういう感じかというのはよくわかるんだけど、そこで完結してしまって、それを日本語ではどう言えばいいかということをあまり律儀に考える気にならないんじゃないか。まあでもバイリンガルの人だってみんな一人ひとり違うから、あんまり一般化しないほうがいいでしょうけど。[…]理想的ってことで言えば、もっと若い人たちのなかで出てきはじめている、アメリカでバリバリ勉強してきて博士号までとってきて英語力から発想からボディランゲージから何から全部身につけてきた人のほうが理想的じゃないですかね。なんて言うと嫌味か(笑)。≫

≪人文科学の翻訳が総じてひどいのは、心理学なら心理学の専門家が一人で訳しているからであって、ほんとは心理学の専門家と英語を専門にしている人間が協力し合うのが理想。それと同じことを、日本語母語者と英語母語者でやるといいよね。≫

≪英語翻訳の場合、英語について言えば、いろんな英語の文体を知っていて、いろんな声を聞き分けられる、ということは必要ですね。日本語の語彙や表現も豊富でないと、ということもよく言われるし、理屈としてはそうだと思うけど、実感としてはあんまりそういう感じがしないですね。僕は日本人として決して語彙が多いほうだとは思いません。敬語とかも全然知らないし(笑)。で、実感としてはむしろ、「この文体には、この日本語はそぐわない」というように、「原文の雰囲気や感じにそぐわない言葉を削り取る」能力が大事な気がする。例えば、ヘミングウェイの禁欲的な文体に妙に男臭い、安っぽくハードボイルド風の言葉が混じってしまうとかいうのは、マズいよね。

 英語は、土着的なアングロサクソン語と、知的なラテン系の言葉で成り立っている。それと同じように、日本語も、土着的な大和言葉と、インテリ発の漢語で成り立っている。だから、レベッカ・ブラウンやポール・オースターが書くような、アングロサクソン語中心の文章を、やたら漢語の多い日本語にしてしまうと、かなり違ったものになってしまう。推敲する作業って、そういうそぐわない言葉を抜いていくという面がかなりありますね。これとこれは雑草だから抜かないと、みたいな感じかなあ。≫

思想系翻訳の場合には、したがってある程度漢語が多くなるのは必然なのだが、とはいえ読者層を意識しなければいけない場合、このバランスが難しい。フランス語は名詞偏重の言語でもあるだけにいっそう厄介な問題だ。

Tuesday, April 04, 2006

神の一手か、最善手か

以下の文章の端々に『ヒカルの碁』を読んだ痕跡が見られる(笑)…。

ところで、いい機会なので、ここで一言はっきりさせておけば、私は別にポップカルチャーを蔑視しているわけではない。連ドラでも漫画でもJ-POPでも芸能ニュースでも、分け隔てなく楽しむことができる。ただし、ポップカルチャーはあくまでもポップカルチャーであって、これが大なり小なり普遍的な価値をもつ、などと主張することはできない。早い話が、ベビースターラーメンは好きだが、だからといって誰にでも「これほんとにおいしいから」と薦めようとは思わない、ということである。私が何らかの文化現象に「くだらない」という表現を使う場合、それは必ずしも個人的な趣味判断の問題ではない。普遍的には「素晴らしい」が個人的には「つまらない」場合と、普遍的には「くだらない」が個人的には「好きだ」という場合を分けて考えなければならない。


3月29日(水)

マシュレゼミ。友人fkのロバートソン=スミスに関する発表。やっぱり同世代の中では、彼の社会学・人類学に関する情報収集・整理能力はずば抜けている。しかし、私同様、アイデア先行の部分が目立つ。議論ではそこを突いてやる。議論はいつも真剣かつ楽しく。議論の仕方にちょっと八方美人的過ぎるところもある彼だが、彼となら真剣かつ楽しい議論ができる。

同日夜、鮨聖Mの「最後の晩餐」を味わうべく、親友gb&df、畏友cdmおよび共通の友人aら六人で集合。共通の知人で博論に苦しむpの話が出る。cdmの指摘はいつもながらとても鋭い。

「彼の問題はね、アリストテレス解釈の中で議論の余地があるとされている部分と、識者の間ですでに評価の定まっている部分との見分けがついていないってこと。彼にとってはすべてが重大な問題で、すべてが議論し直される必要があるっていう感じなのね。で、それはまずい。別に識者の意見に盲従しろっていってるんじゃないのよ。ただ、従来の「常識」を覆して自分の意見を言うにせよ、まずはそれが常識であるってことを踏まえてる必要がある。そうじゃないと、彼は単なる知的アナーキストになっちゃう。」

日本では哲学科の学生たちというのは男も女も「もさい」というのが定番になっているような気がする(そうでもないか?)。ヨーロッパのさまざまな国籍の哲学者を見てきたが、おしゃれのみならず知的洗練の度合いは平均的に高い(これは社会階層の問題が関係しているのだと思う)。男女を問わず、「知的な美しさ」というものがある。もちろん「知的」というのは「物知り」intellectuelということではない。「本物を知っている」intelligent ということだ。

『ヒカ碁』第18巻「番外編」の「奈瀬明日美」の回などはまったくその好例である(笑)。風俗ビルの囲碁サロンで、かなり胡散臭いおっさんに囲まれて、しかしひたむきに碁を打つ奈瀬。碁の院生・奈瀬のルックスに惹かれて彼女を口説こうとしていた若者は、自分の「常識」をはるかに超えた世界にただただ恐怖を覚えて逃げていく。彼女の真剣さに打たれたわけですらない。ただ、彼女と彼女の生きる世界が「ちょっとヘン」だから怖くなったのだ。こういう人には「知的な美しさ」は一生分からない。ひたむきに本物であろうとする人の美しさが。

共訳者の翻訳チェック。コメントを書くのは翻訳の直しより時間がかかる。


3月30日(木)

たまにメールを見ない夜に限って重要なメールが入っていたりする。どうして私の指導教官は、ぎりぎりまで重要なことを言わないのだろうか?「緊急にカッシーラー論文&解説をPUFの担当者に送れ」って。日程を知ってれば、あらかじめ間に合うように最後の微調整(語句をいじるなど)をしておくのに…。豪友gcに頼んでおいた添削を慌てて取り入れて送信。

「明日(木)15-16時に会えるから、よかったら大学に来たら?」って…。はじめてバリケードと妙に威張った学生検問をかいくぐり、指導教官と会談。博論に関していろいろ収穫あり。

前々から懸念されていたカッシーラー論文の「問題」が最終的に浮上。カッシーラー全集の著作権を握っているのはイェール大学なのだが、著作権料がかなり高いらしい。で、それをPUFが買ってくれるかどうか。それから、仏語版全集を出しているCerfがすでに翻訳権を取得してしまっていないか。…って、もっと前から調べといてくれよ(笑)。

翻訳チェックで徹夜。徹夜しないとまとまった時間が取れないのである。


3月31日(金)

アレルギー科の医者に診てもらう。最近の疲れは、もしかすると花粉のせいかも、という仮説も捨てきれない。

共訳者と会合。彼に叱られるのは精神的な滝に打たれているようで痛いが心地よい。私はひそかにexercice spirituelle と呼んでいる(笑)。


4月1日(土)

awからメールあり。来週月曜日にバディウと一緒にラジオ番組をやることが急遽決まったので、私がバディウをどう思っているか聞きたい、とのこと。急遽決まったとはいえ、なんで急ぎで「私のバディウ観」を言わなきゃいけないの?調子のいい甘えん坊だなあ。しょうがないので、ごく基本的な視座を与え、去年edがやったバディウ&ダヴィド=メナールとのセッションでの私の「質問」(という名の批判)のtranscriptionを添付ファイルで送付。

同日、日仏哲学会から公募論文の査読結果が到着。「採用」とのこと。条件付きだから完全に問題のない論文として認められたとは言えないが、「再査読なしの採用」だから論文全体のクオリティは認めてもらえたらしい。査読の論評は、これまで読んだどんな論評よりも私の論文の特性と問題点を捉えていて、素直に嬉しかった。こんな論評を自分も書けるようになりたいものだ。

夜、6年来の戦友およびラトビアなyy嬢にそれぞれの「愛と哀しみの青春」を語りつくしていただく会。この歳で夜更かしはもう無理だ。二三日引きずってしまう。「絶対面白いから!!」と『ヒカルの碁』を手渡された。悪魔の贈り物


4月2日(日)

を一日半廃人のように読み耽り、最終第23巻まで読了。

夜、fkよりメールあり。次の水曜日のマシュレゼミでの発表(二回連続)の前に会いたい由。彼とは、2000年に私がリールに来て以来の仲。今はボルタンスキーのところで研究員をやっている。ノルマリアンたちが抜け、今やずいぶん発言者のレベルが下がってしまったマシュレゼミでは、残念ながら私の発言くらいしかまともな質問がないので、彼は私の前回の質問の続きを聞きたいのだろう。少しずつfkにも実力を認められつつあるのだなと素直に嬉しい。実力は論文や講演、発表、質疑応答の中ではかられる。それ以外のところで、いかに友達ぶろうが、私的な会話の中で知識をひけらかそうが、駄目である。

『ヒカルの碁』は、前半三分の一くらいは、『月下の棋士』路線(強烈な個性同士がぶつかり合い「神の一手」を追求する路線)で行くか、もう少し現実に近い「切磋琢磨」路線で行くかに揺れがあった。『月下の棋士』の棋士たちの多くは研究会を開かなさそうだが(一手一手に命がこもっているので、下手に練習できない(笑))、『ヒカルの碁』の棋士たちは実に精力的にいろんな研究会を飛び回っている。

しかしまた、あまりにリアルになると(毎日シコシコと棋譜の読解・整理に励む院生、プロの間の低俗な感情のもつれ…)、これはこれでドラマ性に欠けるし。際立ったカリスマであるアキラや野生の天才をもつヒカルといった「選ばれし者たち」も、普通に研究会や碁会所で切磋琢磨し、最善手を検討する。その「天才」と「リアル」のバランスがよかったのであろう。

「切磋琢磨」のリアリティがよく出ているのが伊角(イスミ)くんのエピソードである。筋はいいのだが、優しい性格が災いしているのか精神的に脆く、日本棋院院生からなかなかプロに上がれない彼(第10巻)。ついに四つ年下の主人公ヒカルたちにまで先を越され院生をやめてしまう(第12巻)。立ち直りのきっかけをつかもうとやってきた中国での特訓中に「感情のコントロールは、習得できる技術」と教えられ、少しずつ復調していく(第16巻)。実際のプロ棋士の間で伊角くんの人気が高い(最終第23巻)というのも、あながちルックス面や性格的な面での評価ばかりではあるまい。我々別種の「院生」から見ても、なかなかリアルな悩みを抱えた人物だからではあるまいか。しかし、彼が主人公であれば、ずいぶん地味なドラマしかできない。


4月3日(月)

畏友lfが予告どおり最新の論文を送ってくれる。Cahiers Gaston bachelard に載った奴。「君にも興味ある主題だと思って」なんて言いつつ、「○○や××にも渡してくれ」なんてちゃっかりしてる。それぞれへの献辞が関係を表していて面白い。一番世話になった人には「友愛と最良の記憶とともに」、親しくないけど関係を大事にしておきたい人には「amicalement」、友達には「amitiés」(後二者はわずかな程度の差で、ほとんど同じ)。

夜は、独立系書店Meuraの集い。