Tuesday, January 31, 2006

ベルクソンの人格理論

『二源泉』についての講演まで、もうあと一週間となってしまった。今日、レジュメとベルクソンのテクスト抜粋を向こうの大学宛てに送った。テクスト抜粋は、5から40ページという話だったので、『二源泉』全体を概観できるよう、各章から断片を合計20ページほど選び出した。さまざまな要求(1)DEA学生向け、2)経済学ないし社会科学に関するもの)を満たすべく努力したつもりだが、一週間で読ませるには長すぎた気もする。

同時進行で発表用原稿も書いている。やはり書き出すと面白くてとまらなくなる。大筋は頭にあるものの、詳細は書きながら「発見」するし、ときにはまったく予想外の発展を見せることもある。こういうときに日頃「無意味な博学」と揶揄されている事柄が役に立つこともある。

どうやら一時間強喋ればもう十分といった感じであるようなので、逆に時間が足りないな、と思い始めている。各セクション20分くらい。

現在は『二源泉』を概観する第一セクションを書いている段階。大体のイメージはできつつあるが、神秘主義についてゴダール(Jean-Christopheのほうね)のものを読みきるには時間が足りないので、第三章の部分はどうするか。

今日は、グイエの論文「創造的人格」を読んだ。哲学史家の本領発揮といった論文で、ベルクソンの人格理論の発展を時代順におさえている。理論的には得るところが少ない。大変失礼ながら、グイエにしてこのレベルかと安心させられる。

『二源泉』が新たにもたらした理論的寄与として、たとえばドゥルーズは情動の理論や哲学的蓋然性を積極的にプッシュしているが、人格性に関してももう少し掘り下げられるのではないか、というのが私の発表で理論的に新しいところである。人格性に関する議論は各章に出てくるが、とりわけ第二章の出来事の「人格性の要素」はきわめて興味深い。私はカントとシモンドンを使う。

Thursday, January 26, 2006

根源の彼方に

デリダはほとんど読んだことがないが、なんとなく嫌いだ、という方は哲学関係者の中にも多いであろう。だが、少なくともプロである限り、読まず嫌いは禁物である。ここでは、食わず嫌いを緩和していただくべく、ごく簡単にデリダ的な思考の一典型を示してみたい。

次に引用する一節では、「記号」を主題として、それが形而上学的歴史の桎梏から抜け出すことの困難が語られている。簡単に歴史と縁が切れて、新たな思考を始められるとする立場(ここでは新たな記号学・記号論の創設)のナイーヴさに注意を喚起するという態度は、彼の哲学を一貫して貫くものである。

だが、デリダと単なる歴史重視の保守派ないし相対主義を振りかざす懐疑主義者とを隔てる一線は、次の二点において明確である。1)「閉域外のほのかな光を未だ名づけえぬままに垣間見せている断層」、すなわち一時代の閉域を超えて新たに到来しようとするものを正確に捉えようとする注意、2)歴史的相対主義(価値判断停止の恒久化)に落ち込むまいとする意識、がそれである。

以上の方法論的なレベルにおいて見られる超越論的なアプローチは、分析対象の措定の仕方にも現れている。シニフィアンを含む記号、さらにはエクリチュール全般の「外在性」が、それらの概念に存在論的に先行する、という考えがそれである。起源には起源の代補が、差延が先行する、という考えは超越論哲学の過剰なまでの徹底化に他ならない。この意味で、ヴァンサン・デコンブがデリダの思想をフッサール、とりわけハイデガーの「現象学の徹底化」と呼んでいるのは正しい。



≪もちろん、これらの概念を捨て去ることが問題なのではない。それらは必然的なものであって、少なくとも今日われわれは、それらなしにはもはや何事も思惟することはできない。まず問題なのは、分離しうるものだとしばしば素朴に信じられている諸概念と思惟の諸態度との一貫した、歴史的な連係を明らかにすることである。記号と神性とは、同じところで同じ時に生まれた。記号の時代は、本質的に神学的である。それは、おそらく決して終わらないであろう。しかしながら、その閉域はすでに素描されているのだ。

"Bien entendu, il ne s'agit pas de "rejeter" ces notions : elles sont nécessaires et, aujourd'hui du moins, pour nous, plus rien n'est pensable sans elles. Il s'agit d'abord de mettre en évidence la solidarité systématique et historique de concepts et de gestes de pensée qu'on croit souvent pouvoir séparer innocemment. Le signe et la divinité ont le même lieu et le même temps de naissance. L'époque du signe est essentiellement théologique. Elle ne finira peut-être jamais. Sa clôture historique est pourtant dessinée.

 以上の諸概念の構成する遺産を揺り動かすために今日これらの概念が不可欠であるだけに、なおさらわれわれはそれらを放棄してはならない。閉域の内部において、斜に構えた、常に危うい運動によって、そして自身が脱構築しているものの手前に再び落ち込んでしまうという危険をたえず冒しているひとつの運動によって、危機的で危険な諸概念を慎重で綿密なひとつの言説で包囲し、それらの危機的な概念の有効性の諸条件、場、諸限界を提示して、それらが所属している機構はそれら自身によって脱構成しうるのだということを厳密に指摘せねばならず、また同時に、閉域外のほのかな光を未だ名づけえぬままに垣間見せている断層についても、指摘せねばならない。

Nous devons d'autant moins renoncer à ces concepts qu'ils nous sont indispensables pour ébranler aujourd'hui l'héritage dont ils font partie. A l'intérieur de la clôture, par un mouvement oblique et toujours périlleux, risquant sans cesse de retomber en-deçà de ce qu'il déconstruit, il faut entourer les concepts critiques d'un discours prudent et minutieux, marquer les conditions, le milieu et les limites de leur efficacité, désigner rigoureusement leur appartenance à la machine qu'ils permettent de déconstituer ; et du même coup la faille par laquelle se laisse entrevoir, encore innommable, la lueur de l'outre-clôture.

この場合、記号の概念は範例的なものである。われわれは先ほど、それが形而上学に所属していることを見た。しかしながら周知のように、一世紀ほど前から、記号という主題は、意味作用の運動を意味、真理、現前、存在などからもぎ離すのだと自称していた一つの伝統の、断末魔の苦悶である。[…]われわれが気にかけているのは、[新たな記号論の誕生の成否などではなく]記号の概念――これは(現前の)哲学の歴史の外では決して存在もせず、機能もしなかった――の中でなおも一貫して、また系譜的にこの歴史によって規定されているものである。だからこそ、脱構築の概念、またとりわけ脱構築の作業、その「スタイル」はその本性上、さまざまの誤解や誤認にさらされ続けているのである。

Le concept de signe est ici exemplaire. Nous venons de marquer son appartenance métaphysique. Nous savons pourtant que la thématique du signe est depuis près d'un siècle le travail d'agonie d'une tradition qui prétendait soustraire le sens, la vérité, la présence, l'être, etc., au mouvement de la signification. [...] Nous nous inquiétons de ce qui, dans le concept de signe -- qui n'a jamais existé ni fonctionné hors de l'histoire de la philosophie (de la présence) -- reste systématiquement et généalogiquement déterminé par cette histoire. C'est par là que le concept et surtout le travail de la déconstruction, son "style", restent par nature exposés aux malentendus et à la méconnaissance.

 <意味するもの>の外面性はエクリチュール全般の外面性であって、われわれはもっと先で、エクリチュール以前には言語記号は存在しないということを示そうと思う。この外面性なしには、記号の観念そのものが崩壊してしまう。それとともにわれわれのあらゆる世界、あらゆる言語は崩壊するであろうがゆえに、またこの観念の明証性と価値とはある分岐路までは破壊不可能な堅固さを保有しているがゆえに、この観念が、ある一つの時代に所属しているからといって「他のものに移行」せねばならぬとか、また記号を、記号という用語や観念を捨て去らねばならぬとか結論することは、いささか愚かしいことであろう。われわれがここで素描している態度を適切に把握するためには、新たな仕方で「時代」、「一時代の閉域」、「歴史的系譜」という表現を理解せねばならず、まずもってこれらの表現をあらゆる相対主義から引き離さねばならない。≫ (デリダ、『根源の彼方に グラマトロジーについて』、足立和浩訳、現代思潮社、1972年、36-37頁。一部改訳。)

L'extériorité du signifiant est l'extériorité de l'écriture en général et nous tenterons de montrer plus loin qu'il n'y a pas de signe linguistique avant l'écriture. Sans cette extériorité, l'idée même de signe tombe en ruine. Comme tout notre monde et tout notre langage s'écrouleraient avec elle, comme son évidence et sa valeur gardent, à un certain point de dérivation, une indestructible solidité, il y aurait quelque niaiserie à conclure de son appartenance à une époque qu'il faille "passer à autre chose" et se débarrasser du signe, de ce terme et de cette notion. Pour percevoir convenablement le geste que nous esquissons ici, il faudra entendre d'une façon nouvelle les expressions "époque", "clôture d'une époque", "généalogie historique" ; et d'abord les soustraire à tout relativisme." (Jacques Derrida, De la grammatologie, éd. Seuil, 1967, pp. 25-26.)

Thursday, January 19, 2006

運転再開

Auf deutschを新たな形を加えつつ再開することにしました。よろしければご覧ください。hf

Monday, January 16, 2006

1.『二源泉』の位置(1)新たな論理の探求

慌しく一週間が過ぎた。さぞ集中して勉強に励んでいることだろうと思われるかもしれないが、まったくさにあらず。相変わらずの事務処理に加え、思いがけない事件に巻き込まれ、2,3日潰れてしまった。

卑俗な、物悲しい、救いのない話で、精神的に疲弊した。私なりの「大リーグ挑戦」を励ましてくれる方もいれば、こうしてものの見事に脚を引っ張ってくれる人もいる。安心して背中を見せていたらいきなり撃たれたという感じである。疑念を抱くということは誰しもあるものだが、その疑念を客観的に相対化し、最低限度コントロールできるかどうかは知性、すなわち学者に必要不可欠な能力の枢要である、ということだけは付言しておきたいと思う。そもそも私の精神の単純率直さが分からないとは!

これから留学される私の友人たちには、この先きっと色んなことがあるだろうけど、nervous breakdownしないよう精神的なタフさを身につけることをお奨めしておきたい。一人で、海外で、博論準備の重圧に耐えるのはそう簡単なことではない。



さて、リズム論文の校閲も終了し、残るは『二源泉』読解である。もう残り一カ月をきってしまった。

以下は、いずれフランス語で書かれる講演の素描である。ベルクソンの『二源泉』をまったく(あるいはほとんど)読んだことがない、しかしベルクソンについて一応の予備知識を持っているという哲学科の学生を聴衆として念頭においている。



あまりscolaireな形で、protocoleにのっとって皆さんを眠くさせるのは本意ではないので、一気に主題に入らせていただきます。

ベルクソンの『道徳と宗教の二源泉』の主題とは何か?この一見きわめて容易に見える問いが、実は、『二源泉』をめぐる問いのうちで最も難しいものの一つなのです。

はたして『二源泉』は哲学書なのか?道徳と宗教の歴史的起源を探る歴史書なのか?社会学的・人類学的著作なのか?誰がこれらの問いに完全な答えを与ええたでしょうか?

実はこの諸科学を横断しているところから来る曖昧さこそ、ベルクソン哲学の独創性をなす構成要素の一つなのです。その独創性は、ベルクソン哲学が諸科学と特殊な関係を結んでいるところに由来します。その関係とは一言で言えば、それら諸科学の絶えざる再鋳造の試みとでも言えるでしょうか?

実際、『試論』とは何でしょうか?人間の意識を抽象化して取り出すことに反対し、生のままの具体的な意識を持続の中に見出すことを主眼とする著作だと考えられています。しかし、実際には、人間の意識を粗雑な抽象化によってその本質を毀損することなしには捉えられなかった当時の実験心理学(精神物理学)に対する批判であり、持続概念を用いることによって、意識をより正確に、より繊細に把捉しようとする新たな論理を提出しようとした著作ではなかったでしょうか?

『物質と記憶』とは、記憶を大脳の物理化学的機能によって説明しようとするいわゆる局在化理論に反対し、記憶の真の精神的性質を見出すことを主眼とする著作だと考えられています。しかし、実際には、記憶を粗雑な一対一対応によってその本質を毀損することなしには捉えられなかった当時の大脳生理学に対する批判であり、記憶概念の洗練(運動記憶と想起記憶の区別)によって、心身問題をより正確に把握しようとする新たな論理を提出しようとした著作ではなかったでしょうか?

『創造的進化』についても同じことが言えます。生命進化の過程をすでに進化し終えたものの総体から説明しようとする従来の進化論に反対し、ありのままの生命の流れの原理を「エラン・ヴィタル」の中に
見出すことを主眼とする著作だと考えられています。しかし、実際には、生命進化を粗雑な網の目にかけることでその本質自体を毀損することなしには捉えられなかった当時の進化論に対する批判であり、新たな生命進化の概念である「エラン・ヴィタル」を用いることによって、生命進化の問題をより正確に把握するための新たな論理を提出しようとした著作ではなかったでしょうか?

要するに、ベルクソンとは、合理的説明に非合理的現実をつきつけることで対抗しようとした非合理的・神秘的な哲学者ではなく、粗い網の目しか持たない不十分な合理性に対して、より繊細な網の目をもった計測装置、概念装置の必要性を説く哲学者、したがって当時の合理性の観点からすれば非合理と捉えられるとしても、単に新たな、より広く、より柔軟な合理性を探し求めた哲学者であったということができます。

むろん、すぐに付け加えておかねばなりませんが、彼の試みが成功したかどうかというのはまた別の話です。もし我々がベルクソンは上記の諸分野において新たな「科学」を確立したと言えば、それは言い過ぎということになるでしょう。

しかし少なくとも、彼は新たな「論理」を提出しようとしたということはできるし、またそこにこそ彼の哲学探究の真価を見て取らねばならない。では、ベルクソンの四大著作のうち、前三作の探求した論理が以上にごく簡単に素描したようなものであったとして、最後の大著『二源泉』の探し求めた論理とは、いったいどのようなものであったのでしょうか?(続く)

Monday, January 09, 2006

plan G (続)

以前、plan Gとして話していた計画がほぼ正式に決まったので報告しておきます。2月8日に南仏Aix-en-Provence大学の「哲学と経済学(および社会科学)」というセミネールで、ベルクソンの『二源泉』について話すよう招待を受けたという件です。

友人の招待ですが、とても嬉しく思っています。今後の日本人若手研究者のこともあるから、あまり恥ずかしい事はできないな、とも。気を引き締めてかからねば。日本人研究者もハイテク機械で高名な哲学者の録音ばかりしているわけではなく、なかなかやるじゃないか、と言われるように。

二時間半くらい話せ、ということなので、もちろんきちんと原稿を用意していくつもりです。日本ではどうか分かりませんが、少なくともフランスの哲学分野においては、セミネールで(もちろん学生向けのセミネールではなく、研究者間のセミネールで、ということだが)一つ発表をせよという招待を受けた場合、多かれ少なかれ完成した読み原稿を用意してきているように思います。

しかし、参加者の中には、DEAの学生もおり、『二源泉』が課題として挙げられているということなので、講演の組み立ては以下のようにしようと考えています。

1.ベルクソン哲学における『二源泉』の位置(DEA学生向け)

2.ベルクソン哲学(とりわけ『二源泉』)における身体論の重要性(ベルクソン研究者向け)

3.ベルクソン哲学(とりわけ『二源泉』)における合理性・功利性の取り扱い(社会学者・経済学者向け)

それぞれA4で十二三枚ずつくらい書いていけば、二時間半ということになるでしょう。というわけで、以後しばらくベルクソンの話ばかりになります。

Friday, January 06, 2006

Caute !

冬休みは二つの論文の仏訳、フランスの某雑誌に掲載される予定のエッセイの改稿、そして何よりも書類の処理に明け暮れた。実際、一昨日、ようやく二ヶ月以上にわたる滞在許可証更新作業を終了し、昨日は一日中、事務処理に忙殺された。その甲斐あって、幾つかの懸案事項が一挙に解決されたことは喜ばしい限りだが、精神的にはかなり消耗した。

これら一連の作業およびそれにまつわることどもを通じて痛感したのは、「慎重に」という姿勢の重要性であった。一つだけさして支障のないものを例として取り上げてみる。

先に言及したエッセイとは、昨年、リールのとある独立系書店の25周年を祝って(2005年5月31日のpostを参照のこと)刊行された小著Ici, là-bas, etc...ブログを参照のこと)のために執筆したBright future? Quelques réflexions sur les "sans-papiers" à venirのことである。ここで言う「サン・パピエ」とはいわゆる滞在許可証を持たない不法滞在者のことではなく、文字通り「紙なし」の電子空間の到来が決定的な影響をもたらす独立系書店とその未来のことである。

改稿にあたっては、再三再四「中立性」を要望された。もともとが独立系書店の可能性を探るという展望のもとに書かれている以上、当然予想されることだが、改稿は困難であった。そもそもその手の「中立性」など信じてはいないということもあったが。しかし、中立的(毒にも薬にもならない)でない効果をもたらすためにはまさに中立的でなければならない、ということも教えられた。

また、ある種の思想的党派性がなくもない雑誌なので、引用する哲学者の名前一つでリジェクトされる可能性もあると言い含められた。その結果、重要なレフェランスも落とさざるを得なかった。むろん分かる人には分かる目配せはしてある。

かなりタイトなスケジュールで辛かったが、私にとっては実に貴重な体験だった。



「初夢」などという過激な小文を正月早々ものしておきながら「慎重に」もないものだと嗤われるかもしれないが、慎重さはすでにスタイルの中にわずかながら努力として顔をのぞかせている。

ホワイトヘッドは、

諸事物の本性のうちにある深みを探索する努力は、どんなに浅薄で脆弱で不完全なものであるか。哲学の議論においては、陳述の究極性に関して、独断的に確実だと単にほのめかすだけでも愚かさの証拠である。
Combien sont superficiels, insignifiants et imparfaits les efforts pour sonder la profondeur des choses. Dans la discussion philosophique, c'est folie que de laisser entendre paraître la moindre certitude quant au caractère définitif de toute affirmation.

と言っている(『過程と実在』、序文)。また、彼は合理主義の口を借りて、

哲学における主な誤りとは、誇張である。
L'erreur primordiale en philosophie est l'exagération.

とも言っている(『過程と実在』第一部・第一章・第三節)。年初にあたって肝に銘じておきたい。