Thursday, November 24, 2005

日本は文化国家ではない?

まったく正当な意見である(この対談「日本を取り巻く無責任の体系」は必読)。
国家は費用を出さない、その代わり地方の都合で六・三制さえ五・四制に変えていいなんて、事実上、国家が公教育を放棄したに等しい。教育の自由化・地方分権化を進めるっていうと聞こえはいいけど、実際には、子どもを塾にやる余裕のある人とない人、都市と地方の格差が開く一方だよ。

公教育の理念さえ放棄しようとする国家をもはや文化国家と呼ぶことはできないだろう。教育さえいささかの躊躇いもなく自由化・地方分権化の名の下に――しかしながら実際にはネオリベ的「民営化」の一環にすぎない――叩き売りに付してしまえる国家は、単なる資本主義国家と呼ばざるを得ないのではないか?

義務教育費負担金移譲 高校経費8400億円で代替 地方は反発

 自民党の文教制度調査会と文部科学部会は十八日、三位一体改革で焦点となっている義務教育費国庫負担金八千五百億円の削減に対する代替案として、地方交付税で賄っている公立高校の関連経費八千四百億円を地方へ「税源移譲」する案を党執行部に提示した。与党案として検討した上で首相官邸と交渉するよう求めているが、地方六団体や総務省は「改革の趣旨から外れた内容で論外」と猛反発している。
 代替案によると、教職員給与費など公立高校の運営関連費は全国で約二兆千億円(二〇〇四年度分)。このうち、地方交付税分は約八千四百億円で、残りは地方税で賄っている。この八千四百億円を地方税へ振り替えることで「地方交付税への依存度が低くなり、地方財政の自立が図られる」としている。
 河村建夫調査会長は記者団に対し「交付税が抑制される中で教育費削減の懸念も出ている。まずそちら(高校分)を移譲し、きちっと自主財源で行うべきではないか」と語った。
 これに対し、総務省は「『税源移譲は補助金負担金から』という骨太の方針に反する」と批判。全国知事会も「地方交付税は地方の固有財源で、いわば一般財源。まさに形だけの移譲案だ」と切り捨てた上で「もし地方税に振り替えた場合、財政難の自治体は高校教育費を捻出(ねんしゅつ)できない恐れも出てくる」と反論した。
 同負担金は昨年の政府・与党合意で税源移譲の対象となった二兆四千億円の中に含まれているが、削減は暫定扱い。地方六団体は一般財源化を求めているが、文科省や中教審は負担金制度維持を主張。同調査会と同部会も制度堅持の緊急決議をしている。(西日本新聞) - 11月19日2時18分更新

また、もう少し一般的にいうと、この意見にはまったく同感である。
小泉みたいなやつが暴走すると、ある種、国権派と真の民権派が最低限綱領では一致しちゃうわけだ。たとえば、教育は国家の義務だというのは、森喜朗や石原慎太郎が言うとおりだし、公共事業の無駄をなくしつつ、しかし、地方でも安心して暮らせるインフラをつくるのが国家の義務だというのは、亀井静香の言うとおりであって、その点では一致せざるをえない。

Monday, November 21, 2005

アメとムチ?

<東京大>学業優秀なら行きたい学部へ 来年度から

 優秀な学生はお望みの学部へ――。東京大(小宮山宏学長)は1~2年の学部前期課程から後期課程に進む際、成績優秀者には、入学したすべての科類から、すべての学部に進学する可能性がある「全科類」枠を06年度の新入生から導入する。一方、導入後、例えば文科1類から従来は全員が法学部に進めたが、成績次第では必ずしも「全入」とはいかない場合も出る。日本を代表する大学がアメとムチで学業のレベルアップを促す異例の取り組みと言え、大学改革がどこまで進むのか注目される。

 同大では、入学1年半後に学生の志望と成績によって、後期課程の学部・学科などを決める進学振り分け制度を実施している。従来は文科1類から法学部、文科2類から経済学部、理科3類から医学部医学科には前期課程を終えた全員が自動的に進学できた。

 同大が15日発表した06年度入学者募集要項によると、新制度では成績による振り分けを行う。主に成績優秀者の選択肢を増やすため、教養学部後期を除く全学部に「全科類」枠を設け、文系から理系、理系から文系を含め、より自由な進路変更を認める。

 例えば、法学部は受け入れ予定数415人のうち、文科1類からは395人(入学定員415人)に絞り、14人を「全科類」枠に割り振る。理科全類を対象とした6人の枠も加えると、文科1類の20人が予定数からあふれる形だ。

 全科類枠は学部によって差があり、法、工、医各学部は予定数の1割を下回る一方、最大は4割を超す教育学部までさまざま。同大は「安易な進路変更を奨励するものではない。強い動機と優秀な成績があり、場合によっては進学先の『要求科目』の履修をこなす、かなりハードな努力をすれば、変更も不可能ではなくなるのが趣旨」とくぎも刺している。【長尾真輔】(毎日新聞) - 11月16日9時35分更新

Thursday, November 17, 2005

情動の科学哲学(épistémologie des affects)

パスカル・ヌーヴェル(Pascal Nouvel)が、情動の科学哲学(épistémologie des affects)についてのセミネールをパリ7で行っているようだ。

ダーウィンの古典的な情動研究から、情動をコントロールする(エクスタシー、 MDMAなど)現代のメディカル・テクノロジーまで、カンギレム=フーコーのエピステモロジーを「情動」という現象に適用しようということであろう。

興味のある方は、彼のサイトをご覧ください。

Tuesday, November 15, 2005

nemo repente turpissimus

"Croire le mal moins rude quand il nous est commun avec plusieurs personnes, c'est, disait-il, une grande marque d'ignorance, et c'est avoir bien peu de bon sens, que de mettre les peines communes au nombre des consolations." (Spinoza, selon Lucas)

上の世代が戦わなかったツケは、下の世代に押し付けられる。その結果、我々は同時に複数の戦線で戦わざるをえない。上は「生意気な」と言うか、「やるならやれば」と言うだけである。周りは無知な呑気さを振りまいているか、勇気を出せずに怯えているかである。少しずつでも「連帯」できる友人の輪を広げていくほかない。

はじめに(2005年2月10日)

New Deal (2005年4月10日)

「連帯」と「世間」(2005年2月12日)

意志的隷従と怠ける権利(2003年8月2日)

「おフランス」と「ここがダメだよ日本人」(2005年2月22日)

哲学の教育、教育の哲学(1)数の問題(2005年2月21日)

哲学の教育、教育の哲学(2)エリート教育の問題(2005年5月9日)

哲学のアグレガシオン、アグレガシオンの哲学(序論断片)(2004年10月11日)

アグレグ(2004年9月28日)

両面作戦(哲学の地政学)(2004年11月1日)

スシボンバーの憂鬱(2004年10月20日)

デーゲーム(2005年5月19日)


「国立大は安い」今は昔? 入学料では私大と逆転

 国立大で入学料や授業料の値上げが続いた結果、入学料では国立大の方が私立大より高い“逆転現象”が起きている。充実した施設とともに、国立大の売りだった「安さ」。各大学は「これ以上学生の負担を増やすことがないように」と、国の予算編成を前にさらなる値上げを警戒している。

 長崎市で7日、開かれた国立大学協会(国大協)の総会。会長の相沢益男東京工業大学長は「入学料の値上げは断固反対だ」と発言した。今春に授業料の基準となる「標準額」が1万5000円引き上げられたため、「次は入学料」という警戒感を国大協として表した。(共同通信) - 11月14日11時37分更新

cf. 大学は出たけれど2005(2005年5月7日)


授業料減免 全学年一斉に厳格化 大阪府立高 公平性など重視

 大阪府教委は十一日までに、来年度から適用基準を厳しくする府立高校の授業料減免制度について、全学年一斉に適用する方針を固めた。九月議会では新入生から段階的に実施する方向で検討していることを明らかにしていたが、公平性の観点や、財政難から早期に全面適用を求める声などもあり、一斉適用を採用することにした。今年度に減免を受けている生徒については、経過措置として新基準で除外されても現行基準(旧基準)で再審査する。

 府立高校の年間授業料は全国一高い十四万四千円。平成十六年度で全国トップの24・4%、ほぼ四人に一人が減免を受けている。新制度では両親と子供二人のモデルケースで、これまでは総収入四百三十六万円以下だった全額免除の基準を二百八十八万円以下まで引き下げる。

 減免の基準になる収入は、これまで源泉徴収票や確定申告書の控えなどで判断してきたが、不動産などの副収入や複数の収入先がある場合などは把握が難しいため、新制度では住民税の課税証明書をもとに正確な収入を算定する。

 運用について府教委は、九月議会で「在校生は現行の減免制度を利用することを前提に府立高校に進学したという事情もある」と答弁。新基準の適用は新一年生からとし、二、三年生については旧基準を適用する方向で検討してきたが、公平性などを欠くことから見直すことにした。

 ただし、今年度に減免適用を受け、新制度では除外対象になる生徒については、経過措置として旧基準で再審査を行い判定する。

 この場合の適用期限は修業年限プラス一年で、全日制などは平成二十年度、定時制や通信制などは二十一年度、高専は二十二年度まで運用される。

 府教委は新基準での正確な収入状況を把握できる書類を基に、これまでの適用者に制度見直しに伴うしわよせが大きくならないように努めるとともに、「収入が多いのに減免を受けているケースがある」といった批判も解消したい考えだ。(産経新聞) - 11月11日15時12分更新

Sunday, November 06, 2005

Invasions barbares

以下のことは、特に、科学哲学や分析哲学など、科学性・厳密性・普遍性を標榜する学問に携わる若い研究者たちに向けて書かれている。

哲学が、あるいは一般的に言って学問が、真理を目指し、普遍性を目指す営為であるなら、それにより見合った手段でなされるべきである。現在、自然科学の分野で英語がスタンダードと化したのは、――愚かなファシストが言うように、英語が「数を数えるのに適している」からでないことは言うまでもない――、世界の歴史的・政治的・経済的な動向がもたらした必然的帰結である。

哲学では、現在、英・独・仏の三ヶ国語が他にぬきんでて、特権的な地位を占めている。もし私たち日本の哲学者が世界の哲学の動向に積極的にコミットしたいと思えば――それ以外に真理や普遍性の探究に参与する方法があるというなら、禅でも日本語でも「日本固有」のものを持ち出せばよい――、好むと好まざるとにかかわらず、これらの言語で読み、書き、話していかなければならない。

この厳然たる事実の哲学的な意味を理解している日本の哲学者はどれくらいいるのだろうか。逆に言えば、日本語でしか思考できないことを思考し、書けないものを書いている哲学者がどれくらいいるのだろうか。そうでなければ、普遍性の探求であり、世界に開かれてあるべきはずの哲学研究を、なぜ日本語という普遍性に開かれているとは言いがたい言語で書くのか(私はもちろんここで各言語の質的優劣を論じているのではない)。

≪ある個人が言語共同体の外にいるとき、その人は社会的な共同体一般からも脱落してしまうことになるのです。なじみのない言葉を話す人はそのままよそ者、すなわち、内的な人間的-道徳的な絆が成り立たない「野蛮人」と思われてしまうのです。

たとえその人が高度の精神文化を身につけていても、今所属している共同体の内部で言語的に理解されないならば、その人はすぐさま「野蛮人」になってしまうのです。オヴィディウスがTristia ex Pontoで、「この地では、わたしは野蛮人だ。というのは、何も分かってもらえないのだから」と述べているとおりなのです。

言語を越えた共同体という思想、すなわち特定の言語の使用により作り出され、まとめあげられるのではないhumanitasという思想が獲得されるまでには、きわめて大きな努力が費やされ、きわめて大きな精神的-道徳的な苦労が必要であったことを、人類の歴史は教えてくれます。

たしかに、この「人間性」という理念は言語を越え出ています。しかし観点を変えれば、言語はこの理念への不可欠の通過点であり、この理念に至るためにぜひとも必要な段階だということになるのです。≫
(カッシーラー、「言語と対象世界の構築」)

Saturday, November 05, 2005

Ce qui nous manque

France Cultureというラジオ局がある――以下に書くことはどれもフランスに住んでいる知識人なら知っている基本的な情報ばかりである――。プログラムを一瞥していただければ分かるように、ハイカルチャー・ラジオ局である。

Des tours de Babelではハイカルチャーテレビ局の話をした。どうもこういう話ばかりしていると、自分が鼻持ちならない教養主義者のような気がしてくるのだが、しかし教養総崩れの現在の日本を見ていると、やはりどうしてもこのような「反動」的な姿勢をとらざるを得ない。私が教養主義者なのではなく、現在の日本の知識人の平均があまりにも教養を軽視しすぎるのである。)

毎週金曜日の午前9時からは、CIPのFrançois Noudelmannらが監修する"Les Vendredis de la philosophie"という番組がある。今日は、ベルクソンについて、フレデリック・ヴォルムスが50分ほど話した。先週はドゥルーズについて新しい世代(我々の世代まで含めて)が話していた。放送はネット上で一週間だけ聴くことができる(一週間経つと消えてしまうので注意!)ので、興味のある方はどうぞ。

日本では、いかに文化的な放送局であっても、純粋に哲学的な議論のためだけに毎週金曜日の午前9時という時間帯を開放してくれるところがあるだろうか。古くはデモクリトスやエピクテトスから、エックハルトやジョルダーノ・ブルーノを経て、ナンシーやランシエールに至るまで、毎週専門家を呼んで、小一時間しゃべってもらえるところが?

もちろん、こういったことは一方で、国家の文化政策(文化省)のバックアップが欠かせないし、他方で、哲学の新刊書を出す際に宣伝を打ちたいと考えている学術系出版社との協力が欠かせない。フランスの大学界がさまざまな問題を抱えているとしても、こういう側面では日本よりはるかに進んでいる、と言わざるをえない。

すると、こんな答えが返ってくる。フランスと日本では制度が根本的に違うのだから、羨んでみても仕方ないのだ、と。そんなことなら何十年も前から分かっているのだ、と。なるほど。

では、少なくとも、羨むところから始めよう。この放送を聴いて、我々(個人としての我々、制度としての我々、文化国家としての我々)に欠けているものが何かを正確に把握するところから。少なくとも。

しかし、それすらも難しいのだ。なぜならネオリベ的な大学改革に反対している私の友人たちですら、1)フランスにおける哲学の特殊な位置づけに話を還元して事を片付けるか、2)こちらも「現実主義」で対抗すべきなので、古典教育だとか教養主義だとか悠長なことは言っていられない、と考えているようだからである。しかし、果たしてそうだろうか。