Saturday, September 28, 2002

Communitas (1)

 またまた待っている間に。

***

 ロベルト・エスポージトの"Communitas"(伊版1998年、仏訳2000)を紹介してみたい。

 Roberto Esposito (1960-)は、イタリアの政治哲学者。ナポリの東洋研究所の政治学部で政治哲学を、同じくナポリのスオル・オルスラ・ベニンカーサ研究所で道徳哲学を教えている。とりわけ数多くの雑誌や叢書の編集で活躍中。著書に『政治(学)の起源』(1996年)、『政治(学)を超えて。非政治学的思想アンソロジー』(1996年)など。


 位置的にはアガンベンにきわめて近いように思われる。つまり、デリダ 派、とりわけナンシーから着想を得て、政治哲学の古典的なテクストを読み直すというスタイル。アガンベンが隠れハイデゲリアンだとすると、エスポジート は、彼の提唱する「非政治学」の頂点に位置するのがバタイユであることからも分かるように、はっきりとバタイイアン。

 しかし、今回導入部としてご紹介する本書の序論「共通のものは何もない」は、手法的にはハイデガー的。つまり、表題"Communitas"が ラテン語であることからも予想されるように、似非語源学を駆使して、現在用いられている語にこびりついた近代的偏見を削ぎ落とし、その語本来の輝きを取り 戻すというものである(この手法にはある致命的な欠陥があるのであるが、それは以前指摘したと思うので、措くとしよう)。具体的にはどういうことか。

 「共同体community」という言葉から連想されるのはふつう、「複数の個人によって共有される所有物property」(それが土地であれ、宗教であれ、民族であれ)といったものである。この観点からすると、「共通common」とは、「あるグループに固有のものであって、別のグループに属するのではない」ということであって、共同体は、所属・同一性・集団所有物というタームで考えられている。

 ところで、辞書を調べてみると分かるが、「共通common」とはまさに「固有proper」とは正反対のものである。共通のものとは、みなの(あるいは大多数の)ものである以上、誰かに固有のものではない。私的で個別のものではなく、公的で一般的なものなのである。したがって共通は、同一性ではなく、他性と関係するのである。

 語源的に見るともっとはっきりする。Communitasは、cum (=with) + munusである。munusと は、あるものが他者のために遂行せねばならない「贈与」「義務」「ミサ」などを意味する。つまり、共同体という考えの起源には、共通の所有や所属などと いったものがあるのではなく、我々を他者に対して拘束する何かがあるのである。所有するというよりは、収用されるのである。所有でなく負債。同一性でなく 変質。我々が自分というものの中に閉じこもるのでなく、自分固有の利益から抜け出すよう、我々を促すもの。したがって、共同体とは、諸個人が(国・宗教・ 民族といった)より大きくより強力な「個」へと溶け込んで出来上がるようなものとして考えられるべきではない。

  「共同である」ということは、「我々に似ている、我々に属している」ということよりもむしろ「我々とは異なっている」ということと関係している。すぐにそ れと識別可能なものとではなく、最初は我々にとって外的で異邦人的なものと関係している。共同体とは本来的に、似通わぬものたちの共同体であるはずなので あり、「我々」とは異なる者との接触、それによる差異・変質を体験できるという可能性と危険に開かれた共同体であるはずなのである。

(続く)

Thursday, September 26, 2002

東浩紀と大学教育

2005年の註:いくら内輪でしゃべっていた軽い調子のメールであるとは言え(その事は冒頭の部分から十分に窺われる)、今ならもうこんな論の立て方はしないだろう。そもそも、人にない物ねだりをするより、自分にない物ねだりをすべきだと思うからだ。しかし、彼の状況論とそれに対する処方箋への不満、「エリート養成機関」に関する考えは今も変わっていない。

***

kさん、どうもありがとうございます!

 kさんのお話にはきっと他の方々からもいろいろなレスポンスがあるでしょうから、それを待ちつつ、少し前に出た東浩紀さんの話をもう少し。



 東さんは「オタク」「批評家」の他に「哲学者」とも名乗ってますが、彼がそう名乗っていいんなら、私は「精神分析家」とでも名乗ろうかと思ってしまいます(笑)。「哲学者は教養ではない」と仰る方もいらっしゃるでしょう。たしかにピアニストであるためにコンセルヴァトワール出である必要は少しもありません。が、少なくとも(ジャズでもクラシックでも構いませんが、その領域の)レパートリー・奏法を一通り知っている必要はあります。

 駒場・表象の教官たちは、もっと哲学の勉強をするように東浩紀を真剣に引き止めるべきでしたよね。ほんと、エネルギーがあるだけにもったいない。ああいう逸材をまともな哲学者に育て上げられないのは、大学教育の怠慢であり、哲学界の損失ではないでしょうか。

 東さんが反逆者を気取りたいなら気取らせとけばいいんで、彼を「立派な」反逆者に育て上げるためにあらゆる策を講じて東大内に留めおいて学問的に鍛え抜く、という寛大な措置を取れる度量の広い人物が駒場にいなかったのかな。今の彼は、悪い意味で自由に逃げられる位置から好き放題を言っているにすぎない。

 私はこの点、「国家のイデオロギー装置」としてのエリート養成機関に多くを期待し要求しています。(詳しくはまた別の機会に)

 ここでは、とりわけ彼の状況認識を取り上げてみます。

 彼の書き方が十分に哲学的・コンスタティヴでない、と言われれば、東さんは「ジャーナリズムとの俗情の結託を怖れず、パフォーマティヴにやらねばならない」と言うでしょう。逆もしかり。しかしジャーナリスティックな書き方でもコンスタティヴでありうるはずだし、アカデミックな書き方をしていても(仲間内への目配せ程度の)パフォーマティヴな効果しかない、ということもある。

 結局、「面白いテクスト」が多く流通していかない日本(あるいはポストモダン社会)に特有の条件を探るための分析手段として、ジャーナリズム/アカデミズム、コンスタティヴ/パフォーマティヴといった二項対立は必要十分なのか、という当然吟味されるべき諸前提自体への懐疑が東さんには欠落しているように思えるのです。

 それだけではない。きわめて疑わしいそのような二項対立の設定自体に対して向けられるべき懐疑が欠如しているうえに、そのような二項対立を乗り越えて見せる(あるいは両方を駆使する)という仕草自体がきわめてパフォーマンスに乏しい。そんなことは「現代思想」関係者の誰もが言い、やっていることではないか。東さんの状況論は、コンスタティヴにもパフォーマティヴにも失敗しているのではないか、自分の事は棚に上げておいて言うならば、そんな風にすら思われます。

Saturday, September 07, 2002

feu Imago

 こんにちは。hf@リールです。

 湾岸戦争以降、イラク南部に引かれた「飛行禁止空域」というのは、私にはずっと理解できないままです。

ssさん、

 ご丁寧にありがとうございました。今後もよろしくお願いします。

おっしゃってる雑誌は [Der] Morgen でしょうか。

 私もそう思いたいところなんですが、私の指導教官が書いたベルクソンの自伝には、"Die" Morgenと書いてあるんですよね。まあ彼、自称ドイツ語できることになってるんで聞きにくいんですけど(笑)、今度聞いてみます。

mgさん、

 iさんのサイト見ました(笑)。哲学的なパースペクティヴが致命的におかしいということですね。でも、私は大学教員と学振生に厳しく、塾・予備校講師に甘いです、党派的に(笑)。

***

 この間は偉そうに要約紹介なんぞしてしまいましたが、実は邦訳があったということに後から気づきました。

「地球精神分析(ジェオプシカナリーズ)」

吉田可南子訳、『imago(イマーゴ)』5月号 第5巻第6号,頁 p.214-236.青土社:19945

 今は亡き(ですよね?)イマーゴ・・・

 この情報の元ネタである以下のラカン派書誌も、よかったらどうぞ。

http://www1.ocn.ne.jp/~lsj/biblio/article/article6.htm

 最後に次回のためにさりげなく前フリを。

フランス精神分析主要人物小事典

http://pages.globetrotter.net/desgros/auteurs/galerief.html

(ケベックの分析家が作成したらしいこの事典、仏分析史の主要人物をほぼ網羅していて、なかなか便利です。特に写真は貴重かも。

 ミレールの正統ラカン派からも距離をとっているようで、その意味では「中立」と言えます。

 最低限の仏語の知識でも、辞書と首っぴきで頑張れば読めます。)