Saturday, August 31, 2002

Geopsychanalyse (3)

 さて、表題の一部にもなっている「世界の残りの部分」。これは、IPA規約草案のなかの「(当協会の主な地理的活動エリアは、目下のところ、合衆国-メキシコ境界線以北の北米、同境界線以南の全南米、そして世界の残りの部分、と規定される。)」と括弧書きされた一文からとられたものです。

 お分かりのように、そこでは精神分析発祥の地であるはずのヨーロッパ(と「分析的入植が強固に行なわれたあらゆる地域」)と、精神分析がいまだ本格的に足を踏み入れたことのない諸地域が、一緒くたにされている。

 そこでデリダは、このIPAの(実質的には)四区分に対して、自分なりの四区分を提案します。まず「精神分析の処女地」がある(81年のデリダによれば、「ほぼ全中国、アフリカのかなりの部分、非ユダヤ・キリスト教世界のすべて、しかしまた幾千もの欧米の奴隷たち」)。この第一の地域は、1)精神分析も人権観念も未発達の社会主義東欧諸国と、2)それ以外の地域の二つに下位区分されます。

 次に、精神分析は強固に根付いている、人権はそれほど守られているわけでもないけれど、ラテン・アメリカの多くの国ほどにひどいものではないという地域(3)西欧+北米)。

 そして最後に、4)「精神分析装置と政治暴力の展開が[3)とは異なる形で]共存するもう一つのタイプ」、精神分析が隆盛する一方で、人権は尊重されず、「現代的軍事-政 治暴力」が前代未聞の形で横行し続ける社会、「隆盛を極める精神分析的社会と、もはや古典的で粗暴な、簡単にそれと分かる形で行われるのではない拷問が大 規模に行われる(市民的であれ、国家的であれ)社会とが(対立しつつであれそうでなかれ)共存している、世界でただ一つの地域」を、デリダは「精神分析の ラテン・アメリカ」と呼ぶわけです。

 精 神分析の制度と歴史的運動の観点から見て、ラテン・アメリカで起こっていることは、精神分析が生じなかった、あるいはまだ場を占めるに至っていない世界の あらゆる部分、「世界の残りの部分」[デリダの区分で言えば1+2]で起こっていることとは比べものにならないし、精神分析が根を張っていて、人権は少し 前からもはや、あるいは未だあれほど大規模な、見世物的な、恒常的な形で侵されていないほうの「世界の残りの部分」[デリダの区分では3]とも比べものに ならない。

 で、この「今日、精神分析にとってラテン・アメリカという名が意味するように思われるもの」を名指すこと、「ラテン・アメリカと名指すこと」が重要なのだ、と言って締めくくるわけです。

 ま、面白そうな観点もないではありません(例えばデリダは、明らかに『郵便葉書』を意識しつつ、規約の採択方法をめぐるIPAの議論(会議出席者の直接投票が後日送られる欠席者の郵便投票に影響を及ぼしうる以上、両者の比重をどう考えるべきか)を問題にしている)。

 が、しかし正直言って、デリダのこの講演が成功していないと私が感じる最大の理由は、デリダがここで読むことを提案している二つの資料(一つは、NY大会の議事を再録したIPA会報144号であり、もう一つはエルサレム大会で提案された(ヘルシンキ大会で採決されるべき)新たなIPA規約の一部)が面白くないということに尽きます。

 脱構築されようのない、重層性の全くないテクストが相手では、いかにデリダでも、純然たる政治的言説にならざるをえないという好例でしょう。

 では、日本に精神分析は根付いたと言えるのか(あるいは、適応するための問題点は何か)という非常にシヴィアな問いは残っていると思いますけれども。これもkさんにフランクに伺ってみたい問いではあります。

Geopsychanalyse (2)

(ML01133の続きです)

 もちろん、文学・芸術的なテクストへの応用は駄目で、社会・経済・政治的な運動への応用はいい、といった単純な話でもないだろう、と。この点(治癒=効果をもたらす理論=実践)を明らかにしてくれるのではないかと柄谷の「日本精神分析」に期待しているのですが。

 デリダは初期から現在に至るまで、実にさまざまな仕方で精神分析を扱っていますが、『Psyche 他者の発明』(初版1988年、増補21997年)という論文集に収められたテクスト「地精神分析 と世界の残りの部分」(初出1981年)は、彼が精神分析を具体的な地政学的文脈で取り上げ始めた最初のテクストではないかと思います。

 しかし、内容はがっかりするようなもので(むろんデリダ本人に言われるまでもなく、癒し系人文諸科学に喜ばれそうなバシュラール風の「大地の精神分析」「大地と憩いの夢想」の焼き直しにならないのは当然として)、後年例えば、『マルクスの亡霊たち』(1993年)にちらりと出てくるような「喪の作業」の地政学的応用といったものとは何の関係もありません。

 それでも興味のある方のために(以下、興味のある方向けです)、一応要約・再構成しておくと――

 「地精神分析 と世界の残りの部分」は、ルネ・マジョールが提案して19812月にパリで行なわれたフランス=ラテン・アメリカ会議の開会講演です。デリダの他のすべての講演と同様に、いつ・どこで・誰を対象に行われたかということは、講演の内容と密接に関わっています。

 どこで・誰に。ルネ・マ ジョールが発案者であること(著書『ラカンとデリダ』はご存知かと思います)、「今日の精神分析の諸制度・政治」を主題とする会議であること、フランスと ラテン・アメリカの分析家たちが主な参加者であること(南米ではクライン派やラカン派が絶大な勢力を誇っているらしい)は、この講演が必然的に反主流的、 すなわち流派的に言えば反アメリカ的、制度的に言えば反IPA(国際精神分析協会)的なものになるであろうこと、しかし同時に講演者がデリダである以上、むろんフランスとラテン・アメリカの精神分析の現状を無批判に称揚することはないであろうことを示唆しています。

 いつ。19812月は、1977年のIPA30回エルサレム大会、1979年の第31NY大会を経て、数ヵ月後にIPAの総会である第32回ヘルシンキ大会を控えた時期であり、デリダはこの講演によって、「ささやかな、無責任な、きわめて非合法的な」形ではあれ、大会で票決されるはずのある議題(新たなIPA規約の採択)に介入しようとしています。

 ま、あとは大雑把にまとめてしまいますが、IPAの前二大会で、「アルゼンチンをはじめとしてラテンアメリカ諸国で、精神療法を流用した新たな拷問がかなりの規模で行なわれているらしい」という噂が駆け巡ったので、IPAは報告書を出さねばならなくなったが、予想通り「こういう問題は他でも起こっているから」ということで名指しを止め、「こういうことは起こってはならない」という穏健な、といえば聞こえはいいけれど、毒にも薬にもならないものになった、と。

 こうしてIPAは、 「人権」を擁護する、世界的に認められた精神衛生機関になろうとしているわけだけれど、はたしてそれでいいのか、精神分析とはそもそも直面したくないもの を表面に曝け出すことを使命とした、その意味で他の微温的な精神衛生機関とは根本的に断絶したところに成り立つきわめて現代的な、ラディカルな機関である べきではないのか、と。これはIPAの問題。

(続く)

Friday, August 30, 2002

animalité (3)

(以下、ssさんのML01135-01136に対する返信です。)

1*デリダの動物論

 私は『自伝的動物』所収のデリダの"L'animal que je suis"を読んでないので(リールのいかなる図書館にも存在しない!!)、現時点でのデリダの動物論の核心部分については今のところ何とも言えません。

(ちなみに"Fichus"というデリダのアドルノ賞受賞記念講演は、浅田さんの要約も原文邦訳もネット上で読めますが、アドルノが動物を論じた断片の将来なされるべき読解を予告しています。興味のある方は、アドルノ『啓蒙の弁証法』『ベートーベン、音楽の哲学』をどうぞ。)

そこでさしあたり、「なぜ動物性なのか」という放置しておいた「原理的な問い」にデリダはどう答えているかを見るだけにとどめます。



 デリダは、女流精神分析史家のルーディネスコと昨年出した対談本De quoi demain...(ユゴーからの引用ですが、『明日は何が・・・』と訳せるかな?)の中の一章(「動物に対する暴力」)で、なぜ動物性の問題が重要なのかを解説しています。「暴力的に要約」すると――

 動物性の問題というのは、他の重要な哲学的問題のなかのひとつというのではなく、それらすべての前提をなしている隠然たるヒューマニズム(『ヒューマニズム書簡』(1947)の言葉を借りて言えば、「形而上学的な意味におけるヒューマニズムでない人間性Humanitas」を模索し、「従来のあらゆるヒューマニズムに反対するが、しかしそれにもかかわらず、非人間的なものの弁護者にはおよそ決してならない」と宣言するハイデガー的な「ヒューマニズム」も含めて)を明らかにするという意味で、最も重要な問題である、と。

 「人間的」ということが「動物的」「獣のような」ということと対になり、この二項対立だけが特権化されている状態からの脱皮を目指す、という意味で、およそ可能な限り「人間的」でない哲学を目指す、と言えばいいでしょうか。

 「動物なるものL'Animal」は存在しない、「人間」と「それ以外の動物」の境界線だけでなく、様々な異なる動物たちのあらゆる境界線の複数性が強調されねばならないのだ、と。

ドゥルーズの「動物に生成変化すること」もこの点において接続するのが妥当かもしれません。cf.『ミル・プラトー』第10章。けっこう馬鹿馬鹿しいくだりもあって面白いですよ。)



(動物性の議論は実は初期の時代から一貫して自分が持っていた問題意識だとデリダは主張するんですけれども、そしてそれはそのとおりなんですけれども、裏を返せば、またもや「音声=ロゴス中心主義」「プラトン以来の西洋形而上学の伝統を覆す云々」といった大風呂敷になってきてるということなんですよね。それをミクロの視点から具体的なテクストに即してやっているうちはいいんですけれども。

 敢えて柄谷との無謀な比較をしてみるならば、長らく大文字の「セオリー」を立てず、批評的な軽快なフットワークで個々の作品読解に即した小さなセオリーだけを積み重ねてきたデリダがとうとう、また「大理論」に回帰しつつあるのか、と。)



 で、ここでデカルトが重要になってきます。デカルトの「私」=自我=主体は、近代哲学のみならず、近代の法体系の基礎になっている、と。一方で、デカルトの主体は自己を理性的・意識的な主体と認識することによって基礎づける。他方で、法体系の中で重要な概念は「責任ある主体」というものです。
「責任=義務を果たせる者にだけ権利も与えられる」という考えがあるからこそ、「理性」や「意識」を(部分的にであれ)欠いているとみなされる者(精神障害者、幼児)には一部の権利が制限されたわけで、哲学は政治と関係のないように見えてもやはり根底で政治的な諸概念を規定しているのです。

 お気づきでしょうが、動物は既存の法体系の中で位置を、したがって権利を与えられえない。「動物は確かに理性を持たないかもしれない、しかし動物は苦しむことができる」というベンサムの言葉を引いて、デリダが言いたいのは、「動物の権利を考え直すことは、既成の法概念そのものの根底にある哲学概念を見直すことでなければならない」ということです。

(例えば、「ユダヤ人は獣が屠殺場に連れて行かれるように収容所に連行された」という表現は二重に問題含みだということです。「ユダヤ人=獣」という比喩だけでなく、獣が屠殺場に連れて行かれることにはなんの問題もないかのような考えが根底にあることも。)

 ただ、デリダも具体的にどう見直すべきかを言っているわけではなく、「歓待」という言葉をちらりと垣間見せているくらいで、後は憶測の域を出ません。というより、これは同時代的な哲学問題であって、我々自身がそれぞれなりの仕方で「哲学する」ことを通じて答えを模索すべき問題なのでしょう。Hic Rhodus, hic saltus !

Thursday, August 29, 2002

animalité (2)

 なぜ動物性が問題なのか、という原理的な問いにはさしあたり答えることはできません。

(「動物性」の問題は、「供犠」を通して「宗教的なもの(の世俗化と聖なるもの)」「共同体」の問題から派生したのではないか、したがってハイデガーと共にバタイユを読むというナンシーの戦略はきわめて正しいのではないか、というのが私の仮説なのですが、まあそれはいいことにしましょう。) 

 そこで、フランスではいつ、どのような形で問題になってきたのかだけをお答えします。見通しがいいのでド・フォントネーのまとめを拝借すると、「ハイデガーの1929-30年講義録の仏訳が出版された(1992年)のと相前後する時期に、ハイデガーに関する、ハイデガーとの議論の場における決定的な基準として、動物の問いが現われてきた」ということで、にわかにこの問題が仏現象学派(フッサールも動物を子供などと共に例として取り上げていますから)、仏ハイデゲリアンの間でクローズアップされてきたわけです。

 ではなぜ、1929-30年の講義録『形而上学の根本問題-世界・有限性・孤独』なのか?それは、ハイデガーの動物に関する有名な定義「石は世界を持たない(weltlos)、動物は世界が貧困である(weltarm)、人間は世界形成的(weltbildend)である」がここではじめてかなりの規模で展開されるからです。

(これについては、ジジェク『脆弱なる絶対』(原書2000年)第8章「石とトカゲと人間について」で取り上げていて、さすが見事な「知の行商人」の勘と言いたいところですが、内容はかなり今一つで、むしろ意外に木田元あたりがいいんですよ。『ハイデガー』(初版1983年)『ハイデガー『存在と時間』の構築』(岩波現代文庫、2000年)を読み比べると木田元の「進化」が窺えますが、そんなくだらないことはしなくてもいいんで(笑)、後者だけをお読みください。読みやすくてそこそこのレベルはある、哲学専門でない人にもお薦め本です。

 後者の第一章で、木田元は「<世界内存在>は相当程度生物学由来の概念である」とか「ハイデガーの<世界内存在>という概念の形成に、ユクスキュル[環界繁縛性]やシェーラー[世界開在性]のこうした着想が大きな影響を与えたに違いない」と言っているけれど、「人間の根本構造としての世界内存在に関する『存在と時間』の中心的なテーゼは言ってみれば、今世紀初頭にあって生物とそれを取り巻く世界との伝統的な関係を本質的に修正したこの[ユクスキュルらの]問題構成全体に対する一つの答えのようなものとして読める、ということも考えられないわけではない」というアガンベンの言葉を聞けばさぞ喜ぶでしょう。ssさんが現存在と結びつけたのも「ご明察!」です。)

 さて、この動物性の問題に関するデリダの本格的な出発地点も、またもやssさんのご指摘どおり、ハイデガー、とりわけ『精神について-ハイデガーと問い』(1987年)だと思います。デリダの動物論について、詳しい話は必ずや近いうちにご紹介するとして、ご興味がおありの方は、ひとまず批評空間アーカイヴの王寺さんの紹介文を参照してください。王寺さん、例によって、得意分野じゃない場合の逃げ方も見事なものですよ。

animalité (1)

hf@リールです。

 今週末から、「北ヨーロッパ最大の」(リールで何にでも冠せられる名称)braderie が始まります。要するに大蚤の市で、名物はmoule friteというどうしようもない代物です。私の家の目の前がメイン会場になるので、とんでもない乱痴気騒ぎが繰り広げられるものと予想されます。



 ssさん、本当にお久しぶりですね、お元気ですか?私、来年の2~3月あたりにミュンヘンのmg家を襲撃しようかと密かに計画してるんですけど(笑)、ご一緒にどうですか?


批評空間社の解散と、hfさんが 01129 で言及していたNAMのことについても、ちょっと書くつもりでいたのですが、また今度気が向いたらということで。

キツーいお叱りを覚悟いたしております、とは言いませんが、気が向いたら本当にぜひお願いします。私が何かを書くのは、他人に目を覚ましてもらうためなのですから。



(ssさんのメール01136が入っているのを見たんですけど、修正なしで出したほうが、すれ違いがあって面白いかもしれないので、すでに書いたモノをそのまま出します。)

 さて、「動物性」です。引用ありがとうございました。これやっていただけると非常に助かります。おかげで買わずに済みました(こっちで買おうとすると高いんですよね)。

 というわけで、東さんのはちょっと期待はずれ、というかコジェーヴを予想すべきでした。要するにコジェーヴの「動物」は比喩ですよね。「『動物的』ってじゃあどういう意味?」と問い返されると詰まってしまうという類いの。

 私の言う「動物性」は実際の動物のそれで、この問いはすでに10年以上フランスで問われ続け、昨今ようやく本格的に「国際的」になり始めている問いといっていいかと思います。

(「国際的」と括弧をつけたのは、アガンベンが今年、『開かれたもの-人間と動物』という著作を出し、ほぼ同時に仏訳も出たという事実を指しているにすぎないからです。アメリカやイギリスの文脈はmtさんが報告してくださるまで待たねばなりませんし、ドイツの文脈はmgさんや、何よりssさんが教えてくださらなければなりません。

 ちなみのこのL'ouvert. De l'homme et de l'animal(この仏訳題のほうがちょっといいですね)はネタ帳としては、Elisabeth de FontenayLe silence des betes1998)の小型簡略版(パースペクティヴのとり方が完璧に現代思想に偏ってるけど)とも言うべき重宝な本で、13世紀のユダヤ聖書の挿絵から始まってティツィアーノの『ニンフと羊飼い』まで絵画を読み解いて見せたかと思えば、哲学的に言えばアリストテレスからドゥルーズまで、神学的に言えばアクィナス、パリのギヨームからベンヤミン、バタイユまで、生物学的に言えばリンネ、ビシャからユクスキュルまで、お約束の「レフェランス」を多少超え出る予想外の参照先の、しかも一番おいしいところだけをコンパクトにまとめて見せてくれます。

 がしかし、アイデア・ボックスの域を越えるものではなく、Homo sacerほどの理論的インパクトを備えた話題作ではない。例えば、アガンベンもこの本でコジェーヴについて一章を割いて(「スノッブ」)いますが、話の本筋と何の関係もない。というかこの本は、見所はあるが本筋のない本なんです。

 では見所は何か?隠れハイデゲリアンであるアガンベンによる本書の見所は、なんといっても彼の5章にわたるハイデガー読解です。というわけで括弧を終わって、本文と合流します。)(続く)

Monday, August 26, 2002

Geopsychanalyse(1)

 こんにちは。

 ところで、どなたか、東さんの近刊「動物化するポストモダン」読んだ人はいらっしゃいますか?ちょっと必要があって、動物性の問題を調べているのですが、デリダの動物論とか使ってるんでしょうか?ご存知の方ぜひお知らせください。

 柄谷の「日本精神分析」への私の興味のありかを明確にしておきたいと思います。(まだ読んでないということです)

 私が最も興味を抱いていること、それは、彼の「(精神)分析

というのは、治癒に貢献しなければ何の意味もないはずだ」という観点がNAMの理論・実践との関わりで、また大正期の文学テクストの分析などによってどう具体化されているのか、ということです。

 私は、この「治療=効果」という観点はきわめて重要だと思っています。周囲に文学や芸術領域への精神分析の単純な「応用」が蔓延しやすい人文系にいるだけにいっそうそう思います。

(学部生時代、「精神分析 学自主ゼミナール」という怪しげな団体を主宰していた頃、私が一貫して言っていたのは、私たちがフロイトたちの本を読んで学べるのは所詮、理論としての精 神分析「学」にすぎないので、決してそれを具体的な他者の治癒を目指す理論=実践としての精神分析と勘違いすべきではない、ということでした(例えば、ラ カンについての簡単な参照先は、webcritique、アルチュセールとラカンの差異に触れた浅田さんの「デリダを巡るメモランダム」)。)

 文学や芸術領域への精神 分析の単純な「応用」に私が違和感を覚えるのは何故か。それは、そのような応用が何らの治癒=効果、「処方箋」ももたらさないことが圧倒的に多いからで す。応用することがまずいと言うのではない、精神分析にとって行為遂行的解釈が本質的なものであるなら、そのような解釈を与えない単純な応用はすべて本質 的に(仮に精神分析「学」から借りた概念装置を用いていたとしても)精神分析とは何の関係もないはずだ、と言いたいのです。(続く)