Monday, February 04, 2002

怒りの後で(3)

 みなさん、こんにちは。

 電子インタヴューのために書きかけで放置していたラカン筋ゴシップ記事、とうとう「モノ」が出てしまったので、情報としての価値が完全に消え去らないうちに後編を投稿します。理論的にはほとんど見るべきものがないままですが…

カッサンドラのために

≪ファシズムはフランスで生まれたものじゃないんだよ。1936年以前、我がフランスにはいかなるファシスト政党も存在しなかった。1936年以降、唯一その名に値するジャック・ドリオの運動もあるにはあったけれど、でもほんの些細な取るに足りないものだった。1940年から1944年まで権力を握っていたのは似非ボナパルティズムで、もしファシズムがあったとしても、それはよそから来たものだったんだ。

(…)国民戦線[現代フランスの極右]について言えば、幾つかの面で極右と結びついているからといって、それでファシストということになるのか?まあ、安心しろよ。フランスじゃ、ムッソリーニのイタリア、フランコのスペイン、サラザールのポルトガル、将軍達のギリシャほどに事態が深刻だったことはないし、これからもないよ。≫(p.13)

 最悪の事態がやってくるまで、人はそれを信じようとはしない。けれど、最悪の事態がやってきても、やはり人はそれが最悪の事態であることを信じようとはしない。ひどいときには、それが去った後ですら最悪の事態であったことを認めようとはしない。「あたかもペタンの国民革命が夢遊病者たちの間で行なわれた独裁であったかのように」(pp.13-14)。

(註:「ペタン元帥」ことフィリップ・ペタンは、一次大戦最大の山場(とフランス人は思い込んでいる)である「ヴェルダンの攻防」で陣頭指揮をとってドイツの猛攻をしのぎ、祖国を守りきった功労者として一躍名を揚げた。34年に「戦争相」、39年にマドリッド大使と着実にキャリアアップを続け、40年6月、遂に政府の首班となって休戦協定を締結。元来は保養地として有名であったヴィシーに政府を置いて、ドイツ占領下で親独的な政策を取り続けたので、45年の「解放」後、アカデミー・フランセーズ会員の地位を剥奪され死刑判決を受けるが(蓮実の『凡庸な芸術家』の冒頭にも出てくるけれど、アカデミー会員は別名「不死の人」とも言われるから、筋は通ってる)、ユー島での終身禁固刑に減刑された。1951年死去。

 「国民革命」とは、中華民国国民政府のそれでもなければ、ナチ党のそれでもなく、ペタンが唱えたスローガンで、標語は「労働、家族、祖国」であった。)

 トロイア王プリアモスと妻ヘカベの娘カッサンドラを見初めたアポロンは、好意という見返りを期待して彼女に予見の術を教えるが、あえなくふられてしまう。怒ったアポロンはこう付け加える。カッサンドラはすべてを正しく予見するだろう、ただし誰も彼女の言うことを信じようとはしないだろう、と。

 カッサンドラは神託を告げるようになった。が、告げる前に必ずトランス状態に陥ったので、家族の者は、彼女が紡ぎ出すすべての言葉は無意味な戯言で、彼女は気が触れたのだと考えた。トロイアの滅亡を予言した彼女の言葉は、誰にも聞き入れられなかった。そしてトロイアは滅亡した。

マオイスト的ラカン

 「まえがき」に続いて『怒りの後で』の導入的な役割を果たす短編「あたかもすべての道がヴィシーに通じていたかのように」では、ペタン主義に加担した技術者、実業家、公務員たちは決して罪を問われることなく、警官は警察署に残り、司法官たちは裁判所に残ったこと、すなわち1945年に国を挙げて否定されたのは表面的なファシズムであって、その本質をなすペタン主義は生き延びたこと(「昨日のペタン主義、今日のル・ペン主義」[ル・ペンは国民戦線の党首])が強調される。

 続くほぼ同じ長さの長篇エッセイ2本「フランス的なおぞましさ」「"Minute"があった」では、このペタン主義、すなわち「国民革命というフランス風独裁」(p.20)について、「戦中と戦後の間」(丸山真男)で個別例が研究される。すなわち前者においては「ヴィシー体制を支えた諸制度のうちで最も特徴的なもの、ペタン主義の特性と同時にその一貫性を最もよく理解させてくれるもの」としてCGQJ(ユダヤ人問題最高委員会)が、後者においてはペタン主義を戦後において支えてきた「何の苦もなく極右と識別しうるシンボルの一つ」(p.9.)である週刊誌”Minute”が取り上げられ、それらの歴史が素描される。

(註:一つだけ例をあげておこう。ユダヤ人虐殺といえば、すべてドイツ人がやったかのような幻想だけは少なくとも持たなくてよいように。

 1940年9月27日にドイツの行政命令として占領下のフランスに与えられたユダヤ人の定義は、ただ宗教的告白にのみ基づくものであったが、10月3日、フランスの司法大臣アリベールが発案し、1941年6月にCGQJ委員長のヴァラによって強化されたユダヤ人の社会的地位は人種の概念を導入するものであった。ナチのそれよりもはるかに広いユダヤ人の定義を提案したのはフランス側なのである。そして、1942年の大規模な一斉検挙が始まった頃、より大勢の犠牲者を死へと追いやるために、誰を強制収容所へ送り込むかを決定するに際して、ナチスは自分たちの行政命令の文面を放棄し、フランス人たちのそれを採択したのであった。)

 長短3本のエッセイからなるこの『怒りの後で』において、GMが目指しているのは、「老元帥の亡霊を地下牢から引き立ててくることで、幾つかの事実を思い起こさせること」である。隠蔽され抑圧された過去の真実を甦らせるのは、現在の現実そのものの隠蔽と抑圧を明らかにするためにほかならない。ここで「精神分析と政治」というテーマが浮上してくる。

≪最後に一言だけ、この「まえがき」に付け加えておきたい。僕が精神分析家だと知って、僕のアンガージュマンに驚く人がいる。まるでフロイトの発見が死んだ魚みたいにしてなきゃいけないみたいだ。けれどはっきりしているのは、世間で思われているのとは違って、どんなに些細な棘も取っ払って丸くおさめ、健忘症者たちの織り成す調和の中で皆が共存していけるようにする、なんてのは精神分析の役目でも何でもないということだ。精神分析は、それとはまったく逆に、リアルの次元を活性化させ、「記憶」と「真実」という言葉に力を与えるのだ≫(pp.14-15.)

 むろん、ここにラカンの精神分析理論の先鋭な解釈がある、などとは間違っても言うまい。私が言いたいのはまったく逆である。ここにはジジェクが言っているのよりももっと素朴な意味で「ドグマティック」な、精神分析の歴史学の領域への応用がある。『怒りの後で』は、ラカン精神分析を最も粗暴な形で政治的に応用したプロパガンダ用のパンフレットである。あるいはこう言ってもいいだろう、ジジェクが英米の左翼的言論界においてラカンのスターリニズム的用法を大規模に展開したのだとすれば、GMはフランスのメディアの海を巧みに泳ぎきって、ラカンのマオイスト的用法をゲリラ的に展開して見せたのだ、と。GMもJAMも出自はマオイストなのである。



 以上に見てきたGMの自由奔放な芸能活動と、JAMの地味な「セミネール」出版活動の何たる好対照、と人は言うかもしれない。だが、そう見るべきではない、と私は今思っている。両者の底には同じ「怒り」が渦巻いている。彼らの時間は68年で止まったままだ。そして、私がそう思わずにいられなくなったのは、ある小冊子のおかげなのである。(後編へ続く)