Sunday, January 13, 2002

ボチュル『カントの性生活』(2)

 mgさん、私も有福さんの授業でレポート書くのに、ウニベルのヘッフェを使った記憶があります。彼の著作はフランスでも四、五冊訳されてるはずです。

 彼の『カント実践哲学序論―道徳、法、宗教』(仏語版初版1985年、増補二版1993年)は、著者の言葉を信じるなら仏語訳のために書かれたものだそうですが、きっとすでにドイツ語版も出てるんでしょうね。

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  定番クラシックにスキャンダラスなクラシックを紛れ込ませて、すべて10F(フランももうじきなくなってしまうけれど。150~200円くらい)という恐 るべき安値で叩き売ってしまう、その名も「千一夜出版」(éd. Mille et une nuits)から2000年に刊行された『イマヌエル・カントの性生活』を再びのんびりと辿って行くことにします。

 まどろっこしい背景説明は後回しにして、いきなり講義の中身に入ります。

  mgさん、ssさん、他の皆さんにもにお願いなのですが、個々の事例に関するボチュルの解釈について、また事実誤認など、問題があると思われたときは遠慮 なく指摘してください。Kavaliertourや中世の大学教員の収入源(次回)についてなど、関連事項なども教えていただけると幸いです。お忙しいと は思いますが、どうかよろしくお願いします。

閑談の壱:ケーニヒスベルクを愛すること

 みなさん、こんにちは。
  ボロウスキー博士がこの皆さんのコミュニティに招いていただくという栄誉を私に与えてくださったとき、実はかなり長い間ためらいました。私はカントの専門 家ではありません。カントの巨大な著作群は、人を怖気づかせ、奥深く入り込んでいくのに二の足を踏ませるジャングルです。果敢に挑戦していった冒険者たち の中には二度と再び戻ってこなかった者もいるくらいです。

 イマヌエル・カントの性生活についてお話しするのをお引き受けすることによっ て冒涜を冒しているような気になっただけに、私のためらいはいっそう大きくなりました。なんたる無作法!哲学者のintime(内面的、プライヴェートナ ンシーの『無為』『対立』の鍵語でもある)な生活について語るとは!

 こういった伝記に関する諸問題は、ほとんど好意的な評価を受けてお りません。そして、そういった問題を扱う者たちの大半があまりにもしばしば、ある哲学者の著作をその生涯から説明するなどと軽率に請け負って見せる以上、 否定的な評価はむしろ当然のことであります。私の講演の目的はそのようなものではありません。

 私としては皆さんにこう尋ねたいのです。 哲学者の生涯は、彼の哲学を理解するにあたっていささかたりとも資するところがないのでしょうか、と。ソルボンヌの先生方は満場一致で「ない!」とおっ しゃることでしょう。私自身、そのような教育を受けてまいりましたので、この講演を準備するあいだ、非難の調子をこめて私に語りかけてくるある声が、心の 奥底から幾度も聞こえてきたものでした。「どうしてわざわざイマヌエル・カントの性生活について語らなきゃならないんだ、そんなに労力を払ってまでし て?」

 にもかかわらず、得体の知れない力に衝き動かされて、私は皆さんのお招きに応じることにし、ケーニヒスベルクの賢者の生涯に関す るあらゆる著作を(とはいってもごくわずかな数しかありませんが)読み始めたのでした。そうしてただいまから皆様と共に少しずつ明らかにしていこうと思っ ている驚くべき結論にたどり着いたのです。しかし本題に入っていく前にくれぐれも注意を促しておきたいのですが、私のたどり着いた結論がいかに衝撃的で苦 痛に満ちたものであるとしても、私がカントに対して抱いている尊敬、いや崇拝の念はいささかたりとも減じるものではありません。カントは私にとっては、い つまでも哲学者の並ぶもののないモデルです。

 カントのセクシュアリティは、挿話的なあるいは猥褻な主題をなすどころか、私たちをカント 哲学の真の理解へと至らしめてくれる王道なのです。では早速、問題の核心へと入っていくことに致しましょう。詩人も言うように、「夜が更けて、大きな白い ジャガーが僕たちの夢の中に忍び込んでくる」その前に。

定住の人カント? 

 多くの 人々にとって、カントのイメージは、哲学のpère tranquille(物静かな男)というものでしょう。日課の規則正しさやほとんど旅をすることのなかった生涯はみなさんよくご存知のとおりです。歴代 のプロイセン国王が戴冠式を執り行う町ケーニヒスベルクから、カントはほとんど離れたことがありませんでした。これは、ヴォルテール、ルソー、ディドロ、 ヒュームなどありとあらゆる哲学者がまた好奇心旺盛な旅行家でもあった時代にあっては信じがたいことです。

 啓蒙の世紀にあって、フラン ス革命に沸き返るヨーロッパにいて、そして彼自身革命に夢中になっていたにもかかわらず、カントはあのバルト海沿岸の町ケーニヒスベルクに深く腰を落ち着 けたままでした。イタリアに滞在したことも全くありません。カントの同時代人であり、同じプロイセン人たるヴィンケルマンによって一躍有名になり、一世代 後の大ゲーテもそのひそみに倣うことになるあの「イタリア詣で」(グランドツアー、Kavaliertour)という伝統が存在していたにもかかわらず、 です。カントお気に入りのツアーはpetit tour、家から鐘楼までの散歩でした(ミシェル・デルペッシュの往年のヒットソング「青春に乾杯Pour un flirt」を参照されたし)。

無性の人カント?

  カントはケーニヒスベルクに留まっていました。そこに生まれ、死に、そこで働きつづけたのでした。ハレ、イエナ、エルランゲン、ミッタウなど当時のドイツ の名だたる大学が教授職を提示しましたが、カントは辞退し続けました。この一見したところ起伏のない、ドラマのない、危機のない生涯は、人間カントの最も intimeな部分に関わっているのです。彼は公然と恋人関係にあったこともなければ、妻を娶ったこともなく、愛人をもったこともありません。生涯を独身 で通しました。カントは、ニュートンやロベスピエールと同じく、常に変わらず女性の肉を大理石として残したあの偉大な男性たちの列に属していたのです。清 廉の士ということでしょうか?無性の人なのでしょうか?

 カントの家には一人の女性も、下女すらいませんでした。忠実な下僕たるラムペが いただけです。そのランペに結婚話が持ち上がったとき、カントは彼を解雇しようとしたという噂があるほどです…カントは孤独な電子のように、カント家の大 家族の兄弟姉妹とも付き合いませんでした。伝説によれば二十の生涯を生きたというピタゴラスとは違って、カントはどうにかこうにかたった一つの生涯を生き 抜いただけ。率直に言って、伝記作者や色恋沙汰の愛好家たちの良い取引先とは言えません。

 しかしながら私は、この哲学者の単調な生き方 のうちに偏狭さを見ようとする見解には賛成しかねるのです。私が皆さんに示したいと願っているのは、この進んで取り入れられ、大事に育まれた凡庸さのうち には、何かしらカント哲学と不可分のものがあるのではないか、ということなのです。したがって、カントの性生活について私が皆さんにぜひともお願いしてお きたいのは、すべての先入観を捨て、性急な判断を控えていただきたいということ、既成の判断基準で判断されるくらいならいっそ判断なさらないでいただきた いということです。スピノザ『国家論』第一章第4節で奨励しているように「泣かず、笑わず、理解する」という態度をお願いしたいのです。(続く)

Friday, January 11, 2002

投瓶通信(mg・kへのメール)

mgさん

hfさんの重厚なエッセイの途中で、何かもうしわけないのですが、

 こちらこそ毎度ご迷惑をおかけして申し訳ありません。どうか私の文章との関連は気になさらず投稿して下さい。私は投瓶通信のようなつもりでドボンドボンと投げ込んでいるだけですので(しかし、重すぎると沈んでいくだけのようです…)。何か面白いことが書ければいいなあとそればかり考えているのですが…

 最近アップされ始めた王寺さんのエッセイなんか、個々の点には色々あるとしても、全体としてやっぱりいいなあと思います。浅田さんの影響を強く受けた軽くてしなやかなトーン、集積された知識の重みに押しつぶされない簡潔な論理展開。彼のフランス語の著作(クッシーとの共著)『普遍的なものを経験すること』もなかなか面白いです。

 ところで、またまたmgさん、ssさんに質問なのですが(ヨーベルについては補足をいずれ送ります)、オットフリート・ヘッフェってドイツではどんな受け止められ方ですか?チュービンゲン大学教授というのは、日本で言うとどんな感じになるんでしょう?

 ysさん、isさん、ご存知かとは思いますが、今週はFrance Cultureでフーコー特集を組んでいて、特に週末はコレージュでの講義を放送するようです。

p.s. フランス以外でもフランスのラジオを聞けるということをすっかり忘れておりました(日本でも、パソコン上で聞けますね)。France Culture のフーコー特集、土日、日月の夜の放送は一挙5時間、ぜひお聞き逃しなく。詳しい番組紹介は以下をご覧下さい。

http://www.radio-france.fr/chaines/france-culture2/speciale/speciale_foucault/prog.php

 生中継しか駄目なのか、録音をいつでも聞けるのか、詳しいところまでは分かりませんが、まあものは試し、一度お試しください。

 ちなみに以前ご紹介したマシュレのゼミで、ステファン・ルグランという切れ者が『主体の解釈学』を紹介しておりますので、興味のある方はどうぞ。マシュレのと同じアドレスからアクセスできます。

Wednesday, January 09, 2002

ナンシー『対立の共同体』

 ジャン=リュック・ナンシーの近著『対立の共同体』(2001年)は、彼の共同体の理論に本質的な変化をもたらすものではない、と私は言った。この評価を撤回する理由は見当たらない。また、「インドや中国」についての大雑把な注記に対する不満も変わるところはない。

 しかし、いささか手早く通り過ぎてしまった感もなくはないので、ここであらためて『対立』の内容を丁寧に辿って紹介しておこう。



 『対立の共同体』は、モーリス・ブランショの『明かしえぬ共同体』の伊語改訳版への序文を本体とし、それに数頁の前文を加えてなった著作である。『明かしえぬ』が執筆・刊行された当時の状況説明を、という出版社の求めに応じて、ナンシーは、これまでその意味を厳密に考え抜くことなしに放置してきたあるエピソードに立ち戻る。

 1980年代に書かれた「共同体」に関する諸々の哲学的なテクスト(当時のヨーロッパの思想を深く規定していたものでもある)の歴史、より厳密に言えばその出発点となった『無為の共同体』(初版1986年、二版1990年、三版1999年)の歴史が、それである。したがって『対立』の狙いは、『無為』執筆に至った経緯と刊行後の反響、とりわけブランショの反応を素描することである。

 また、そもそもブランショの『明かしえぬ共同体』(1983年末)自体、『無為の共同体』(初版1986年)の元になった同名の論文への応答(1983年春)として書かれたものであることを考え合わせても、『対立』は『明かしえぬ』の序文というよりも、『無為』への15年後の後記であると言ったほうがより正確であるかもしれない。

(むろん、「無為」というモチーフ自体がブランショから、したがってバタイユにごく近い場所から、より正確に言えば、この両者の間の「友愛」あるいは「無限の対話」という名の共同体(コミュニティ)から、この非常に特異な、沈黙に満ちた、ある意味で密やかな交通(コミュニケーション)から、取られた概念であることを考慮に入れるなら、事態はさらに複雑になるのだが…。)

 ブランショは「共同体」のモチーフに、共産主義が強力に遮蔽もし、同じように強力に生ぜしめてもいたもの、すなわち「共同的なもの」の審級、のみならずその謎ないしアポリア、その定かならず統御しがたい性格にふたたび取り組むべき絶対的な、暴力的ですらある必要性を認めていたが、『明かしえぬ』における彼の応答は木霊であり、反響であるにとどまらず、同時に留保であり、そしてある意味では非難であった。

 この留保ないし非難の意味を正確に捉えること、ブランショが『明かしえぬ共同体』という表題によってはっきりと指示している(テクストの終わりの部分にも表れている)秘密、すなわち愛によって与えられる死の中の「明かしえぬもの」、死において与えられる愛の中の「明かしえぬもの」の解明に、十八年の時を経て今ようやく着手する(少なくともその決意を宣言する)こと、これが『対立』の中心的な課題である。

(以下いちいち断らないが、ほぼすべての文章の前に「ナンシーによれば」が付くと思っていただきたい。私の見解を述べる場合には明示する)。



1.バタイユ講義から『無為の共同体』へ(pp.30-36)

 1982-1983年度、ナンシーはストラスブール大学で、政治的な角度から見たバタイユについての講義を行なっていた。ファシズムや共産主義ばかりではなく、民主主義的ないし共和主義的な個人主義の論理からも逃れる未知の方途の可能性を探ることが目的であった。

(当時はまだ「市民」は論じられてはいなかった。いずれにせよこの概念は、ナンシーによれば、上述の議論をさほど進ませるものではない。)

このような目的のためにバタイユをとりあげたのは、彼の著作の至る所に「共同体」という語・モチーフが現れているからであったが、バタイユという選択は同時に、問題が単に政治的なものにはとどまらないこと、言い換えれば、政治的なものの手前あるいは背後に、「共通なるもの」「一緒のもの」「数多いもの」があるということをも示していた。と同時に、どのように現実的なものの領域を考えればよいのか、もはや全く分からなくなっていたということをも。

 だが研究の結果、バタイユは未知の政治学に接近する可能性を与えてはくれないことが明らかになった。彼の戦後のテクストでは、むしろ幾つもの点で、固有の意味での政治的な可能性はすでに消去されていた。自身の戦前の思考が持っていた政治的な雰囲気を退け、「科学」としての社会学への対抗心を失い、社会学コレージュを本格的に創設するという試みを放棄していた。バタイユがファシズムの原動力と見ていた行動主義的な欲動のエネルギーを、「聖なる社会学」がファシズムから取り上げる、などということはもはや問題にはならなかった。ヘテロロジックなアジテーションは失敗し、戦争はエクスタティックな力をまざまざと剥き出しにしてみせるどころか、民主主義の勝利によって終わり、バタイユの政治的な計画はうやむやのままに残されたのである。

 しかし固有の意味での政治的な可能性を与えてくれなかったということは、別の角度から政治的なものを考え直す可能性を与えてくれたということである。バタイユは、"souveraineté'"を「主権、統治権」という政治的な意味ではなく、「至高性、絶対的な力」という存在論的・美学的・倫理的な意味で捉え、共同体の強い(情熱的な、聖なる、親密な)結びつきの本質を「恋人たちの共同体」のうちに見出すに至った。

 「恋人たちの共同体」というものがあるとすれば、それはいわゆる社会的な絆といったものとはまったく対照的な、そのcontrevérité(反語・逆説)として現れるほかないものである。生と死の間を繋ぐあらゆる通路が社会的な絆による拘束を受けているとしても、恋だけはそこから派生してくるものではない。社会を構造化する(たとえ侵犯によって社会に裂け目を生じさせることによってであるにせよ)契機として、バタイユによって想定された「恋人たちの共同体」は、社会の外に、と同時に内に、政治の全く関与しない親密さ=私生活(intimité)の中に託される(déposé)。

 政治と「共同-で-あること」の分離、漠然とではあるが当時次第に姿を現わしつつあったこの現象にバタイユは気づいていた。だが、強い親密さの共同体について語るにせよ、均質的で外延的な絆の社会について語るにせよ、バタイユは、内面性における引き受け(assomption en intéroirité)としての、実現されたユニットの自己現前としての共同体という望ましい場所(恋においてそこに到達するのであれ、社会においてそれを断念するのであれ)を基準点に据えている。しかし、この基準点、共同体のこの前提こそが(たとえ、はっきりと不可能なものとして示され、それによって「共同体なき者たちの共同体」へと反転しているにしても)分析されねばならないのではないのか。

 ナンシー自身は、共同体という表象が、哲学の伝統を通じて、マルクスとバタイユによるこの伝統の超克ないしそこからの横溢に至るまで、維持され続けてきたことを再認識し、80年代初頭のありとあらゆる思考に刻印を押していた「全体主義」に関する考察を通じて、共同体の本質的な性格を「自身の営み(œuvre)として自己実現する」ことであると認識するに至っていたわけであるが、バタイユの難解な、絶えず揺れ動く、苦しげな(malheureuse)部分もないではない思考は、それとは異なる共同体の可能性を考えるように仕向けてくれた(たとえバタイユ自身の思想を越えて進むことによってであるにしても)。それが「無為の共同体」である。(続く)

Thursday, January 03, 2002

ボチュル『カントの性生活』(1)

皆様、あけましておめでとうございます。

 旧年中は数々のご迷惑をおかけ致しました。今年は冷静な文章を書くことを目標に精進を続けていく所存です。願わくは、どうか本年も温かいご批判のほどをよろしくお願い致します。



 甘酒でほろ酔い、コタツでごろごろ、何とはなしにTV、のお正月にふさわしい和やかな話題を探してみました(私なりにですが)。

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二つのボチュリスム

  サンタが水着でサーフィンをやる南半球のことだ、1946年5月のパラグアイには、2002年1月1日のリールのように冷たい小雨が降っていたかもしれな い。一人のフランス人が、カントについての講演を行なうために、今一度、ラテンアメリカの大地を踏む。これが最後になろうとは夢にも思っていなかっただろ う、彼はまだ50歳の若さだったのだから。翌1947年8月15日に51歳の若さでこの世を去ることになろうとは。

 不幸な名前というものは存在するのだろうか。マルクス、マルクシズム、何の問題もない。我々のジャン=バティスト・ボチュル(Jean-Baptiste Botul)の場合はどうだろう。ボチュル、ボチュリスム(Botulisme)。不幸かもしれない。

≪ ボチュリスム(哲学的な意味での)は、長い間、もう一つのボチュリスム(医学的な意味での)という同形異義語に悩まされてきた≫と、「ジャン=バティス ト・ボチュル友の会」代表のフレデリック・パジェスは慨嘆する。私hfは、不幸にしてこれまで「この不当に忘却された哲学者」の存在を知らなかったのであるが、それは、傷んだ豚肉加工食品などに潜むボツルスという病原菌が引き起こす深刻な症状、日本人の間ではボツリヌス菌という呼称が定着してもいるあの医学 的ボチュリスムが、我らの哲学的ボチュリスムの浸透を阻んできたためではなかろうか。そんな妄想にとり憑かれたくなるほどに、おかしくも哀しい生涯を生きた男なのである、ボチュルは。

カントのように…?

 フリギアのミダス王の触れる物はすべて黄金に変わってしまったという。ボチュルに関わる物も同様だ。すべておかしく哀しい物に変わってしまう。

  ボチュルがこの町にやってくる前年の1945年5月、後にカリーニングラードと称されることになる旧東プロイセンの首都からソ連軍の銃火を逃れて、百組ほどの家族が奇想天外の大航海の果てにパラグアイにたどり着く。郷里への断ち切りがたい思慕の念から入植地につけた名前がヌエヴァ・ケーニヒスベルク。ヨーク、ニューヨーク、あるいはオルレアン、ニューオーリンズ。何の問題もない。だが、ここヌエヴァ・ケーニヒスベルクは何かが違う。

 一と半世紀ほど前に逝去した「おらが町の」偉大な哲学者へのいや増す敬愛だけが支えである彼らは、この地を訪れた数少ない旅行者の証言によれば、カントのような服装で、カントのように飲み食いし、カントのように寝起きしていたということである。懐かしの故郷そのままに再現された街路で、毎午後、定刻に始まるあの伝説の散歩!

 …しかし、これではまるで狂信者のセクト、いやいや結論をつけるのはまだ早すぎる。カントのように生きたいと思う者たちが構成する「超越論的な共同体」が抱える究極の問題は何か?それこそ、ボチュルがあらゆる危険を承知で敢えて挑んだ論題「イマヌエル・カントの性生活」 であった。

Jean-Baptiste Botul, La Vie sexuelle d'Emmanuel Kant, présentation, traduction et notes de Frédéric Pagès, éd. Mille et une nuits, 2000.

無為の共同体…

 カントが穢れなき純潔のうちに生きたのだとすれば、この節制の原則を自らに課すことを選んだあらゆる新カント派的(?)共同体は、自然の導きに従って消滅への道を歩むことになる。これこそ語の最も正確な意味で「無為の共同体」と呼ぶにふさわしい共同体ではあるが(笑)。

  だが他方で、はるばるフランスから来るという講演者が、万が一にも「カントにも性生活は存在していた」などと暴露でもしようものなら、無礼な伊達者の「修正主義」に天誅を加える以外に、「尊師」の輝かしい伝説をスキャンダルから守る術はない。ボチュルが果敢に立ち向かっていったのは、このようなどことなくおとぎ話めいた、おかしくも真面目なジレンマであった。では、彼はこのアポリアにどう立ち向かっていったのであろうか?(続く)