Monday, December 31, 2001

怒りの後で(2)



≪1月のある日、テレビで、僕は怒りを爆発させてしまった。そんなことはするもんじゃない。テレビってのは、丸いメディアだ。裏ではいろいろ企みながら、さも優しげな調子と当たりの柔らかい感じを好む。でもあの日は、スタジオで、善良そうな顔つきをしたあの小男と居合わせてしまったのだ。善良そう
な顔つきで、7年以上も雑誌Minuteの編集に携わっていたあの小男と。≫

 こんな書き出しで始まる前書きでGMは、怒りの原因が、今なお根絶されていないどころか、虎視眈々と復活の機会を狙う「フランス風ファシズム」であったと語っている。週間紙”Minute”とは、「戦後フランスのジャーナリズムの中でも他とは異なるケースである。1945年から今日に至るまで、いかなる大部数の新聞・雑誌もここまで一貫して卑劣であることはなかった。(とりわけ人種差別的な憎悪を煽動したかどで)数え切れないほど告訴され有罪判決を受けながら、"Minute"は決しておとなしくしたりはしなかった」(p. 97)。

 本書成立のきっかけはしかし、怒りの「原因」(”Minute”の執筆者が何の罪悪感もなく、今でものうのうとTV出演していること)と正確に同じではない。むしろGMの怒りが引き起こした「結果」こそが、つまり一月のあの日、GMが怒りを爆発させてしまった後で、「怒りの後で」、最年長の番組出演者である女性がすぐさま示した次のような反応こそが、本書の出版を決意させたのである。

≪ファシズム?後は何が出てくるわけ?"Minute"?60年代とか、70年代とか、もう、だからそういうの全部ちょっとやめなさいよ。ずいぶん昔のことじゃない。そういうのほんっとくだらない≫(p.12)

 TVの好む「さも優しげな調子と当たりの柔らかい感じ」、和やかな雰囲気に突如亀裂が走り汚物が、≪トラウマ≫が露わにされそうになったその瞬間に、裂開を埋めるべく大慌てで投げ込まれる言動のガラクタ、≪事後的に≫何事もなかったかのように、しかし激しい防御反応で≪抵抗する≫、それこそフランスのファシズム、すなわちペタン主義を産み出した当のものではないのか。

「最悪の事態を最小限に食い止めるある種の方法、最小限に食い止めながら、最悪の事態に寄り添い、奉仕し、再生産するきわめてフランス的なある種の方法…」(pp.12-13)。これが『怒りの後で』の標的である。



 先に引いた番組出演者の反応は、まさしく日本で「自虐史観批判」と言われているものを産み出す心性と同じ類のものではないだろうか。とすれば、「最悪の事態を最小限に食い止めながら、最悪の事態に寄り添い、奉仕し、再生産する」ある種の型のファシズムは、ヴィシー政権下から今日にいたるフランスにのみ見られるというものではなく、もう少し広い射程をもったものとして分析されうるだろう。

 ほぼ同じ文脈で、国民的選好[ル・ペンと国民戦線の主張。
要するに移民排斥、外国人嫌悪、人種差別]をファシズムと呼ぶに際して、バリバールは読者が抱くかもしれない懸念を牽制してこう言っている。

 ≪それはファシズムか?先を急いではいけないとおっしゃるだろう。すなわち、相手を動揺させたり怖がらせたりするために、これほど重い言葉を投げつけることから始めるのはやめておこう、と。というのも、ファシズムとは何か?歴史の中で知ってはいるが、そこまでは行っていないから、と。(…)しかし、私には他の言葉が見つからない。私はむしろ、それは我々が持っているファシズムのイメージとは似ていないファシズムなのだと言いたい。しかし、私は、このイメージが本質的に問題を遠ざけるためのイメージではないかと疑っている。

 (…)誰も生まれつきファシストではない。最も重要な問いは、それが本質的なことであるかのように、誰がファシストかを知ることではなく、誰がファシストになるのか、あるいは特に誰がファシストになる可能性があるかを知ることである。またより一般的に言えば、われわれが集団としてファシズムに向かって進んでいるのかどうかを知ることである。(…)もしわれわれが少なくとも一方でこの方向に進んでいないとすれば、われわれは何に向かって進んでいるのか?いずれにしても目下のところは、抵抗に向かってではない。≫(『市民権の哲学』、松葉祥一訳、青土社、121-122頁。)

 日本はファシズムに向かっていないと誰が断言できるだろうか?

Sunday, December 30, 2001

怒りの後で(1)

Gérard Miller, Après la colère, Stock, 2001.

 citéphilo 2001にジャック=アラン・ミレール(以下、JAMと略す)がやってきた。(JAMについてはYSさんがML00780、00781で紹介されています。)

 この小文の眼目はしかし、「哲学とは何か、ラカンの答え」と題されたJAMの対談の内容を紹介することではなく、私がこの一年胸に抱いていた何とも俗な疑念が氷解したということなのである。壇上にあがったJAMの顔を見た瞬間、私は確信した。やっぱりジェラール・ミレール(以下GMと略す)は彼の弟だったか、と。

 というわけで今回は、ML00591「デバ・ガメ」(ドゥルーズの一風変わった追悼文集を紹介したもの)以来約一年ぶりに、再びフランスの現代思想系梨本になりきって、最新のラカン派精神分析関連ゴシップをご紹介しようと思う――理論的にはJAMとGMの活動のある種の並行性を示すことで「精神分析と政治」というテーマに改めて探りを入れようという底意(そこい)があるのだが、まあon verra――のであるが、そのためにはまず、フランスにいない方々のために、ジェラール・ミレールとは何者かについて説明せねばなるまい。



 GMは、この一年で急速に「茶の間の人気者」として定着した。最初こそ、気軽に冗談を飛ばすsympaな大学教授として地味に芸能活動を始めたものの、ある時期から急に、大政治家を向こうに回してもずけずけ言いたいことを言う、時に激しく相手を罵倒するという「大島渚」[2005年の註:今なら細木数子か?]的キャラでフランス人の心をつかむことに成功し、さらには視覚障害者の感覚を体験すると称して、著名人たちを招いて暗闇の中で晩餐を共にし歓談するという実験的な番組(5チャンネルで放映された”Le gout du noir")で司会者を務めたことで、人気を決定的なものにした。

 この「黒の味」は、テレビ番組なのに画面は薄暗いまま、ほとんど声だけが媒体なのだが、招かれたゲストたちが「著名人」であって「芸能人」でない(TV的予定調和に完全に毒されきっていない)ことが功を奏し、彼らがパニックに陥って思わず洩らす本音や意想外の「ハプニング」は、たしかに時として
刺激的であり、面白い実験であるかもしれない。

 このような実験が厳密な意味で「精神分析的」であるか否かはさておき、(スタジオの/意識の)「暗闇」の中から(TV的な約束事の/著名人たちの個人的)「真実」を引き出すGMの手腕は確かに、彼もまた実際、パリ第8大学教授にしてラカン派精神分析家なのだという事実を思い出させずにおかない。

 彼の数冊の分析系研究書や研究論文の紹介は専門家にお任せして、ここでは、彼がTVで売れ始めてから出したエッセイ集『怒りの後で』を紹介しておくことにしよう。爆笑問題やタケシのようにいろんな時事問題を一刀両断、かと思いきや、さにあらず。そもそも彼が「怒りを爆発させてしまった」のもTV的な要請に基づくものではなく、それなりの理由があったのである。(続く)

Monday, December 24, 2001

ストラスブール大学神学部(ISへのメール)

こんにちは。

 お話ししていたナンシー・インタヴューのほうは、インターネットでの質問ということになりそうです。まあ私にとってもそのほうが良かったのかなとも思います。



 ISさん、

 ナンシーが西洋哲学の正統な後継者たろうとしているというのは、浅田さんも対談の中で指摘されてましたが、そのとおりだと思います。(ちなみに、ISさんで印象に残っていることと言えば、と私の連れあいが常々言っておりましたが、浅田・ナンシー対談の後の立食会で話していたISさんがナンシーを見つけて、「僕ちょっとナンシーと話してきます」と躊躇なく勇敢に向かっていったことだそうであります。もう今から何年前になるでしょうか?)

 で、話が中途になっておりましたが(仕事の合間を縫ってNetscapeと何日も乱闘しているうちに嫌になってしまったのです)、

3)おそらくは近世的・近代的・現代的な三つの理由から、ストラスブールにはフランス唯一の国立の神学部があります。

 アルザスには、国から(あれほど「非宗教性」を謳っている共和国から)「公的な」地位を認められた三つの教会があるからです(近代的理由)。

a. 1801年の政教条約で認められたカトリック教会、
b. 1802年に定められ、1852年に修正された国家組織に関する条文で認められたECAAL(アルザス・ロレーヌのアウグスブルク信仰告白教会。「アウグスブルクの信仰告白」とは1530年にアウグスブルクの神聖ローマ帝国議会で表明された、メランヒトンの手になる28条の信条表明(信仰告白)で、彼らは要するにルター派)、
c. bと同様にして認められたERAL(アルザス・ロレーヌの改革派教会。要するにカルヴァン派)

 これらの教会の聖職者は内務大臣によって任命され、今では国の後見は甚だ軽いものになっているにしても、未だに国から給与を支給されているのです。

 そもそもなぜカトリック国家であるフランスがbcを認めるのか?(それをいうなら、1801年の政教条約は1905年に廃止されたはずなのに、なぜカトリック教会が国の庇護を受けられるのか?)それはアルザスがまさに宗教改革の中心都市の
一つであったからです(近世的理由)。

 グーテンベルクが印刷技術を着想したのは改革が始まる少し前、1439-1444年にかけてのストラスブール滞在中のことでした。聖書を普及することに貢献しつつあった印刷術は同時に、当時ドイツ第三の印刷都市であったこのストラスブールにおいて、聖書を実際に「読む」ことの重要性を説くパンフレットの普及にも貢献したのです。

 このような伝統をもつ国境地帯において、中央の意向を押し付けることは反感をもたらしかねない、という不安が国には当然あったでしょう。二つの大戦を経て(経たがゆえになおいっそう)今なお複雑なこの地域でのみ「寛大な」宗教政策を続行していることにイデオロギー性ないし政治性を感じるというのは勘ぐり過ぎでしょうか?欧州議会が置かれていること、仏独共同のTV”ARTE”の本拠地が置かれていることはもちろん神学部とは何の関係もありませんが、ストラスブールという土地の戦略的な重要性を思い起こさせてはくれます(現代的理由)。



 というようなことをナンシー(ラクー=ラバルト)のキャリア、文体、思想と考えあわせるにつけ、否定神学的であれ、政治神学的であれ、「神学的」という言葉を思わずにはいられない、と言いたかったのです。このMLでは参加し始めた頃から(それ以外ではずっと前から)言っておりますが、どこに身を置いて考えるかはどうでもいいことではない、ということも。


 では一週間ほど失礼します。ストラスブールに行くのです(笑)。くれぐれも火事にはお気をつけて。どうぞ良いお年を。

哲学的nulと訣別するために(Kへのメール)

Jean-Luc Nancy, La Communatué affrontée, éd. Galilée, 2001.

 『対立の共同体』の議論は、ざっと読んだかぎりでですが、さして『無為の共同体』から進んだものではありません(ま、そもそもこれは、ブランショの『明かしえぬ共同体』の伊版改訳に際して付された序文にすぎないのですから、多くを求めるつもりはありませんが)。
 とても意地の悪い言い方をすれば、共同体(個体)の起源には必ずや対立(分割=共有、侵入者)があり、それなしには共同体(個体)そのものが存在しえない、という今までにありがちな議論に「対立」という言葉を当てはめて、アクチュアリティとの関連を匂わせるというやり口はいささか安易。何より私が恐れていた安易な東洋哲学の要約をやってしまっているという点で、馬脚をちらりと見せてしまったかな、という感じ。

 私が去年の彼の講演を聞いて以来嫌だったのは、やたらと「西洋」ということを強調する点なんですね。それは西洋哲学を普遍視しまいとする警戒であるかぎりでは節度ある態度と言えますが、いつまで経ってもそこから東洋哲学を知ろうとはしていかない点で、やっぱりなんだか表層的な節度に思えるんです。
 表層的な節度だから興がのると、ついうっかり大言壮語してしまう。

"Inde ou Chine ne pensent pas, pour le dire grossièrement, selon l'Un, ni selon la Présence" (p. 12, n1).

「大まかに言ってインドや中国は、「一者」や「現前」に基づいて思考しない」。これでは一昔前の日米のデリディアンがやっていた「プラトン以来の「現前」の西洋形而上学の伝統」とかいうのと何ら変わらないではないですか?で、自文化について言うならまだしも、「インド中国」って…。結局敬意は払うんだけど、興味はないんですね、残念だけど。

 今日はマシュレ主査の博論諮問を見物し、打ち上げでいろんな人と話したんですが(審査員の顔ぶれがなかなかすごい。またいつか諮問体験記をご報告します)、「日本でフランス哲学を教える教授なんているのか」と驚いてる人がいました。諮問に来てた哲学関係者ですよ。そういう状況を作ってしまった原因の一つには、やはり日本人の側からの紹介の努力不足ということがあるのではないか。

 私が感じる日本人の哲学学生の捉えられ方は、1)フランス語をまともに話せない、2)まともな哲学史の知識をもってもいなければ哲学の仕方(フランス風の)も知らない、3)現代思想の「知識」はそこそこ持っているが、それだけ。(例えば、青年マルクスの学位論文「デモクリトスとエピクロスとの自然哲学の差異」(1841年)についてマシュレが彼なりの読解をきちんと提示した後、一人の日本人が質問として――無論、黙ってニヤニヤしている奴よりはるかにマシで、努力は高く買うけれど――、「アルチュセールの偶然性の哲学…」と言ってニヤニヤする。けれど、残念ながらこれは知識の切れ端であって、哲学でも何でもない。いくら「示唆」してみたって駄目なのだ。自分で「展開」できなければ!)

 つまりほとんど哲学的nulと思われている。私はこの三つを、三つとも反駁しようとしてあがいている。こういう状況を思うとき、Tran Duc Taoを思わずにはいられない。Tran Duc Taoも知らずに、アジア人がフランスで哲学するとは、と思う。

Sunday, December 23, 2001

対立の共同体(ML・Kへのメール)

 こんにちは。hfです。励ましのお言葉、ありがとうございました。火事がきて、物理的・精神的な被害はほとんどなかったものの(部屋も本も無事です。メールは自分の部屋から送ってます)、どこか疲れています。

 ま、嫌なこと書いても仕方ないので、今楽しみにしてることを書きます。Noésisという名の哲学科の学生自治会があって、そこをとりしきってる女の子が鼻息も荒くいろいろ走り回っているのですが、私がナンシーの思想に多少親しんでいることを知って、コンタクトを取ってきました。そんなこんなで、今度、ジャン=リュック・ナンシーにインタヴューすることになりました。

 『無為の共同体』についての浅田・大澤の書評が電子批評空間にアップされましたが、時を同じくして、『無為』の続編と言うべきか、『無為』にまつわるよもやま話を綴った"La Communauté affronté"(ひとまず『対立の共同体』とでも訳しておきますか)が出ましたね。

 この『対立』を読み、『無為』を読み返して思うのは、浅田(大澤)さんのネグり方の見事さですね。例えば、ナンシーは常に「西洋」「キリスト教」にこだわっているのですが、浅田(大澤)ナンシーはまったく中立的、抽象的・理論的な共同体の思想家に仕上がってます。「細部を捨象する」というのは、それなりの犠牲を払っているのだということがお分かりいただけると思います。

 私はナンシーのどの本を読んでも、ナンシーと言うのは神学生っぽいんだよなあ、と感じます。そしてどんな思想家について語るにせよ、この「感じ」をぬきにして、その思想家の本質的な部分、オリジナルな部分は見えてこないと思っています。

 例えば、浅田さんはあたかも『侵入者』の文体だけが簡潔でストイックであるかのように言ってます(るようにも取れる)が、ナンシーの言葉は、私がML00613で言ったように常に「sec, maigre, difficile」です。いや今なら、より正確に「乾いたsec、禁欲的なascétique」と言いましょう。ストイックは日本語では「禁欲的」と変わらないと言われてしまえばそれまでですが、後期フーコーの文体がストイック、すなわち非キリスト教的禁欲であるとすれば、ナンシーの文体はやはりアセティック、すなわち(ここでは)キリスト教的禁欲だと思います。

 お分かりのように「感じ」は内容と文体の双方から、それだけでなくあらゆる情報からくるものです。例えば、ナンシーはストラスブール大学でドイツ思想(専門はドイツ・ロマン派の文学とドイツ観念論)を教える哲学教授です。ここから、

1)フランス語で"Outre-Rhin"と言えば、ドイツのことを指しますが、もちろん原義は「ライン川の向こう」なので、フランスとドイツの両方を指すと強弁することもできます。ご存知のように、ストラスブールはフランスとドイツの間で奪い合いが絶えなかった土地で、この独仏の争いは元を辿ればフランク王国の分割に行き当たります。何を隠そうフランス文学史上、最古のテクストである、"Serments de Strasbourg"(ストラスブールの誓文)とは、東西フランク王国が国境確定(安全保障)をめぐって842年に結んだ援助協約なのです。

2)ナンシーと、とりわけフィリップ・ラクー=ラバルト(ナンシーの盟友。同大学で美学を教える哲学教授)にとって、あらゆる哲学の問題はつまるところ、フランスとドイツの国境の問題に帰着すると言っても過言ではありません。そしてこの構図の取り方自体が実に1830-40年代のドイツで「神学的」と呼ばれ、モーゼス・ヘスがそれを乗り越えるために産業革命以後の「経済のイギリス」を持ち出した(彼は「ヨーロッパの三頭制」という本を書きました)当のものなのです(ナンシーはこの構図から抜け出そうとしてますが)。

 中途半端で済みませんが、失礼します。Netscapeで送ろうとしてるのですが…