Friday, June 02, 2000

野村修とRutebeuf (k00472)

 rkさん、「場所」の違いは最初から意識していましたから、大丈夫です。ランボーの話、私も大笑いしてしまいました。mgさん同様、「オアシス」を得た思いです。それにしても、卒論諮問で「ランボー、グラン・ポエット・・・」と言ったきり、後は沈黙したという秀雄に比べれば、お父さんはユカイツーカイ、向かうところ敵なしですね。私もフランスでは、「奴は言葉はできないが、滅法面白い」と言われる奴になりたいものです(誰ですか、無理無理、と言っているのは)。

 isさん、お久しぶりです。H.L.Mencken とかいうおっさんは、"There are nodull subjects. There are only dull writers."と嫌なことを言ったようですが、laisse tomberです。

1)野村修
 hfさんと言えば、確か最初の出会いは、人格に問題なしとは言い難い某教官のベンヤミンは「複製技術時代の芸術」の演習であったかと思うのですが(後略)。

 おそらくあの人のことか(笑)と思いますが、いやあ、私は、ysさんから聞いた「目を覚ませ!!」の話が未だに忘れられず、ykさんと事あるごとに肴にしている次第です(そう言えば、ykさんはこのkの隠れた愛読者となりつつあるようです)。「目を覚ませ!!」という彼の科白は、土井たかこの「駄目なものは駄目なんです」と同じくらい気に入っていて、とりわけ(rkさんが思い出されたような)大学にまつわるくさぐさのおりには心の中でつぶやいたり叫んだりしています。好きですねえ、ああいう「人格に問題なしとは言い難い」人(笑)。

 ちなみに京大の教養ドイツ語人脈って個性的な人が多かったんだなとつくづく感じさせられますね。野村修の著作集か翻訳全集なんかそのうち出るのかもしれませんが(彼が1993年に編んだ『ドイツの詩を読む』を最近愛読しています)、池田浩士にしても我が道を行っているし。最後まで「ぼく」で通した野村修の一徹は、おおらかで寛容でありながら、批判的なスタンスを失わない、まさに京大っぽい人であったと私は思っています。おおらかさはどうか知りませんが、似たような職人的一徹さでもって端倪すべからざるプロの仕事を成し遂げた人として、東大の教養フランス語には阿部良雄がいます。


2)Rutebeuf (リュットブフ)
 さて、ダキアのボエティウスとは、早々にさようならをするつもりだったのですが、いまだに付き合いなしとはいえません。(『砂袋』は見ていただけたでしょうか)モノグラフィーはやるまい、と誓ったはずでありながら、博論は無難に彼における諸学問の分割と13世紀末の大学制度といったテーマになりそうな。(この企画書、もとい申請書を今週中にださなければいけないのです)いまだに一方でキリスト教が、他方で哲学の、時代を横断した本質を冬の時代にその唯一の希望のごとくに想定する旧制高校的哲学主義が場所を占めているところで、大学制度の問題に踏み込むことはできれば避けて、言語学の話だけをしていたいと、旧ソ連時代に、言語学を選択するような気分でいたのですが。

 12世紀についてはすでに「12世紀ルネサンス」論争があり、「暗黒の中世」という先入観からの一定程度の名誉回復がなされていると言っていいのでしょうが、13世紀についてはどうなのでしょう。「13世紀末の大学制度」で思い出すのは、フランス文学が中世哲学史ないし政治史・教会史とすれ違う領域を駆け抜けたRutebeufです。

 isさんには釈迦に説法ですが、13世紀にも大学紛争(La Querelle universitaire)がありました。 そもそもは郊外で「清貧の思想」を実践していたはずの托鉢修道会mendiants(寄進に頼らず物乞いをするところが売り)が、1215年のベネディクト会を皮切りに、フランシスコ会(元々は物静か)、ドミニコ会(元々、戦闘的説教者集団)と次々にパリの街中へ進出してきたのがすべての始まりでした。

 彼らは修道院内で神学を教えられるようにパリ大学神学部から承認を得、後にはかの神学部の試験を受けられるようにもなりました。要は、部分的にパリ大学の一部となったわけです。こう書くと、居丈高な権威的大学側とこじんまりとした私的団体という図式を思い浮かべられそうですが、事情はまったく逆で、托鉢修道会は「ローマ教皇直属」(聖職禄をもらっている。最初に「はず」と書いたのはそのため)を笠に着た興福寺の僧兵のような奴らなので、大学側はフランス国王と協力関係を気づきつつも容易には拒めないわけなのです。

 さてしかし、授業料を取らなかったこと、授業そのものが魅力的であったことなどから急速に人気が高まり、大学側が警戒感を高めます。こうして1250年代には神学部内部にmaitres reguliers(強いて訳せば修道会系教授)がドミニコ会系のMineurs(小さき兄弟達)とフランシスコ会系のPrecheurs(説教者たち) 各2名ずつ籍を持つまでに至っていたのですが、1252年2月、在俗教授maitresseculiersたち(大学側)が割り当てをそれぞれ一つとすることを決議し、大学紛争が勃発します。翌月何が原因かは分かりませんが、ソルボンヌがスト決議を行なったとき、mendiantsは従わず、決裂は決定的となります。このときドミニコ会系の有名教授だったのがSt. Bonaventure、フランシスコ会系の名物教授がSt. Thomasd'Aquin、そして迎え撃つソルボンヌ側の先頭にいたのが、Guillaume de Saint-Amour だったわけで、まさにそうそうたる顔ぶれがそろって大学紛争に首を突っ込んでいたのですね。

 13世紀フランス最大の詩人Rutebeufは、この紛争に在俗教授会側から介入し、修道会士たちを攻撃する激烈な論争詩を書くことでその詩人(Kritiker-Rhetoriker)としてのキャリアをスタートさせています。普通、リュトブフと言えば、15世紀のヴィヨン、ひいては19世紀のヴェルレーヌなどにまで続く、いわゆる「呪われた詩人たち」の嚆矢、というのが教科書的な位置づけでしょうが、読んでみると彼らとの違いばかりが目に付きます。

 最大の違いは「恋愛を歌わない」ということです。例えば、"Vivez si m'en croyez n'attendez a demain (生きよ、私を信じるならば、明日を頼まずに) / Cueillez des aujourd'hui les rosesde la vie (今日この日から摘むがいい、生命の薔薇を)"といった恋愛詩で有名な16世紀のロンサールとまったく異なるのは当然として、確かに無頼漢に違いないヴィヨンでさえも、花田の引用で仏文以外にも有名であろう"Mais ou sont lesneiges d'antan?(さあれ、去年(こぞ)の雪今いずこ)"のリフレインが印象的な「いにしえの美女たちのバラード」や「兜屋小町長恨歌」などにおいて数々の(くせはあるけれどもともかく)艶のある歌を残しているという事実とはまったく対照をなしています。

 彼が恋愛を歌うとしても、例えばこんな感じ。

Ancor plus fort : (さらにきっついことには)
Por doneir plus de reconfort (もっと喜ばしてまうだけやがな)
A cex qui me heent de mort, (わいのこと死ぬほど憎んでる奴らを)
Teil fame ai prise (あんな女もろうてもろた)
Que nuns fors moi n'aimme ne prise,  (わいのほかに誰も好きにならへん、もらいもせん女やで)
Et c'estoit povre et entreprise  (ほんでもあいつ貧乏で困っとったから)
Quant je la pris. (もろてしもたがな)
At ci mariage de pris, (こんなええ結婚したもんやから)
Qu'or sui povres et entrepris (今わいも貧乏で金に困ってんねん)
Ausi com ele ! (うちの奴と同じようにな)
Et si n'est pas jone ne bele : (まあ若うもないしべっぴんでもない)
Cinquante anz a en son escuele, (皿の中で(=手つかずのまんま)50年や)
C'est maigre et seche. (ガリガリにやせとんねんで)

 (最近、ちくま学芸文庫からバルザックの解説書を出した柏木という関西系Balzacienは、藤原書店から刊行中の≪人間喜劇セレクション≫の一つを関西弁で訳したが、関西弁訳ってなかなか難しいな。)

 というわけで、恋愛詩と呼ぶことはためらわれるが、敢えて恋愛詩と呼ぶとしても、関西系「とにかく、くさす。とにかく、ぼやく」恋愛詩であることはお分かりいただけるでしょう。

 この時代の文学(むろん韻文詩)で興味深いのは、自律した純粋な芸術ジャンルとして考えられていないどころか、そのような≪芸術≫概念自体が確立していない(文学も含め芸術は道徳的・宗教的修身に役立つ)こと、現代のヌーヴォー・ロマンのように「作者」を消去するしない以前に、自律した≪作者≫概念も≪作品≫概念も確立していない(往々にして作者不明、作品は写字生の写本を通して普及していく以上、必ずやヴァリアントを含みこみ、厳密な≪オリジナル≫という観念があったかどうかは相当疑わしい)ことです。

 リュトブフは、様々な人の委嘱を受けて書いた。上に挙げた結婚生活をぼやく詩などを論争詩から区別し、≪真の個人的感情≫を歌い上げた"Poesie personelle"と呼んで、文学において個人生活を歌うことの始まり、ひいては「文学的主体」(Michel Zink)の創出と考える人たちがいますが、私はナンセンスだと思う。

 リュトブフはただのすぐれた≪芸人≫です。最初は大学紛争に介入して河内音頭を歌う。ネタに困ると十字軍を題に貴族・フランス宮廷から金をせびり、豪華な宗教劇で教会や町の名士と親交を結ぶ。辛口の芸風で名をあげると、今度は内容ではなく、その芸風に顧客がついてくる。そこで自分をネタに新境地を開発、とそういう感じでしょう。それが、真か偽か、「文学的主体」などとはいかにも大仰、いかにも野暮。芸人なら誰しも、受けるためなら、売れるためなら自分の生活・感じたことを面白おかしく話すでしょう。

 むしろjongleur(今で言うジャグラー、大道芸人、ピーター・フランクルではないけど)とのつながりを強調すべきなので、この意味での(芸人的)詩人はいつの時代にもいるでしょう(したがって、むしろBoris Vianなどと比較されるべきなのかもしれない)。ただ、その詩形式が、彼自身の卑下にもかかわらず、ずば抜けて洗練されていた。などなど。以下は作品に即して見ていかないといけないので割愛させていただきます。13世紀にこんな奴もいたということで何かのご参考になればいいのですが。

 というわけで、野村修とリュトブフ、似ていないようで似ている、似ているようで似ていない二人でした。

p.s.kさん、てどういう方ですか(もしすでに私と知り合いでしたらごめんなさい)。
p.s.2 t君って仏文の?
p.s.3 livedoor、今のところほぼ問題ありません(2度ダウンしましたが)。良い感じです。といっても私はインターネットはほとんど使わないので、そちらについては分かりかねますが。
p.s.4 oさんもですが、nyさんは?休学したという噂を小耳にはさみましたが・・・